第一章 春の地獄 7~8
ヒロイン鵜飼香里と有坂律子、丘蓮美、大倉孝雄、今回登場の山原勇人で武志郎の友人レギュラーが
ようやく出そろいました。
7
六月も半ばを過ぎ、修学旅行の行動予定計画書、『旅のしおり』作成案の提出も
無事に完了した。武志郎としては、なかなかにがんばった方だと自画自賛したいと
ころであったが、大きかったのはやはり鵜飼香里の存在である。細かな見落としや、
誤字、きめの粗さを用心深くチェックしてくれたのは常に彼女であった。
「よくできてる。ブシロー、やればできるじゃないか」笹井に褒められた。教師に
褒められたのは武志郎が高校に入学して以来、初のことだったかもしれない。
「いや、鵜飼さんのおかげです」本当のことなので嬉しさを押し隠して武志郎がそ
ういうと、香里は頬を赤らめて両手を振った。
「私、計画とか苦手で。武志郎君の作ってくれた草案に目を通していただ
けで……」
「…………」武志郎はよくいうよ、と思う。彼は香里の立てる学習計画にそって現
在、勉強を進めている。勉強以外のたとえば遊びの計画などが苦手ということなの
だろうか? ここで武志郎は初めて気がついた、香里は彼の学習計画と自分の勉強
でおそらく手いっぱいだったのだ。なぜなら、修学旅行の打ち合わせは週二回、武
志郎の放課後学習は週三回、しかも何教科もあるのだ。今まで考えたこともなかっ
たが、計画を立てるのが苦手というのが本当であるとしたら、前日の準備にかなり
の時間を割いてくれていたのでは……。
「うん、まあいい。これは学校側に提出しておくよ」笹井はいいながらコピー用紙
の計画書に音を立てて確認印をついた。「ところでもうすぐ期末試験だな? ブシ
ロー」
「みたいですね……」
「他人ごとのようにいうな。どうだ、鵜飼、ブシローは?」
「は? あの……」香里はうつむいてしまう。武志郎ができのいい生徒だとはい
いがたいせいだろう。
「まあいい、まずはご苦労さん。だが修学旅行委員はこれで終りじゃないからな。
二学期が本番だ、頼むぞ、ふたりとも」
「へい」
「はい」
ふたりの生徒が職員室を出ていったあと、パラパラと計画書をながめながら笹
井はつぶやいた。「ふーん、武志郎君ねえ……」そして、ふふふと笑っ
た。
笹井のいう通り、一学期の期末テストまで二週間を切っていた。
「修学旅行委員の方はひとまず片付いたし、今日からは期末に向けた勉強にシフ
トしていこうと思います。いいですか? 武志郎君」いつもの図書室、最近では
指定席のようになっている窓際のカウンター席で香里がいった。それまでは基礎
中の基礎、その反復が主であったが、いよいよ実戦に備えるということらしい。
「いいもなにも、俺、鵜飼さん頼みだし」実に恥ずかしい話であるが。
「なんか、悔しくなかったですか?」
「は?」
「笹井先生のいい方、なんか、私、悔しかった」
「そお?」──なにが?
「見かえしてやって、武志郎君」
「え?」
「笹井先生なんか、見かえしてやって」
「あ……お、おう」できそこないではあるが、自分が教えている生徒が
バカにされた。香里は笹井の言葉をそんな風に受けとめたのであろうと
武志郎は理解した。が、試験で見かえすなんて荷が重いんですけど!と
叫びたくもあった。そもそも笹井はバカになどしていない。武志郎の成
績が最悪なのは事実であるし、当人もそれを自覚している。担任教師が
気にするのは当然のことだろう。
「笹井先生、武志郎君の学習進行具合を私に聞いたんですよ。おかしい
です、あれ」
「あ、おう……そう?」武志郎はどうも噛み合わないな、と感じた。香
里が武志郎の勉強を見ていることを笹井が認識しているというのは彼女
にとっては喜ばしいことのはずだから。笹井のいいつけを守るため、内
申点を守るために放課後特訓を始めたはずだから。
「そうですよ。でも、もういいです、あと二週間弱、毎日が一夜漬け、
とにかく暗記、これでいきます」
「はぁ……」
「武志郎君、基本はおおよそ把握しはじめてくれたから、国語、とくに
古典は単語を覚えてしまえば応用もききます。英語だって文法以前にま
ず単語の意味さえわかれば、なんとなくでも出題意図をよむことができ
ます。歴史はできごとと年号、とくにできごと名は正確に暗記、これで
す」暗記のところで香里はぐぐっと丸い拳を握ってみせる。
「暗記……苦手なんだけど」
「たった二週間です、一緒にがんばりましょう。武志郎君」
「はい」本当に先生みたいだな、と武志郎は思った。それも小学校の。
午後六時四十五分、図書室の閉室時間ギリギリまで古文の単語を暗記
していた武志郎。明日は本日の軽い復習と英単語の暗記にかかるのだと
いう。また次の日は地理、そして世界史、日本史……これを二週間続け
れば確かに少しは試験で点を取れるかもしれない。
「ちゃんと、家でも復習してくださいね、武志郎君」日没間ぎわ、夕暮
れ色に彩られた校舎裏を武志郎と並んで歩く香里がいった。そ
う決めているわけではないが、図書室を出たあと自転車置き場によって、
武志郎が自転車を引いて歩き、校門前で別れることがふたりの日課とな
っていた。しかし、修学旅行委員がひと区切りとなった今日、思いつき
ではあるが武志郎は香里にいいたいことがあった。
「あの、鵜飼さん」
「はい……あ!?」不意に香里は校舎の外部柱のかげへと身をひるがえ
す。
「え? あ!」武志郎もあわてて香里の背後に隠れる。オレンジ色に染
まるどこかの部のプレハブ用具置き場の裏側で、長身の男女生徒がキス
をしていた。長いキスであった。香里の髪の芳香が武志郎の鼻腔を官能
的にくすぐる。やがて唇を離した女子の顔が見えて武志郎は仰天した。
同じクラスの電柱女、丘蓮美であった。蓮美の身長は一七三センチの
武志郎と同じくらい、その彼女よりも頭ひとつ背の高い男子の方もお
そらくはバレー部員なのであろう。ふたりは笑いあいながら手をつな
ぎ、校門の方へと歩いていった。
「なんか、ドキドキしちゃいました……」香里の頬を染めているのは
夕映えのせいばかりではなさそうだ。
「ああ……でん、丘さんて彼氏いたんだ?」
「知らなかったんですか? あんなに目立つカップルなのに?」
「デカいもんな、ふたりとも」知らないというよりも他人に関心がなか
ったのだ。
「蓮美の前でデカいとかいわないでくださいね」
「ブチ切れるとか?」エースアタッカーのパンチ力はハンパなさそうで
ある。
「いいえ、傷つきますから」
「おお、あ、そう。気をつけるよ」クラス中を味方につけてイジメをす
るとか脅迫してきた女が? まあ、それが女の子なのか……。まさに今
見た丘蓮美は恋する乙女であった。保田奈美穂もそうだったのだろうか?
「武志郎君、さっきなにかいいかけませんでした?」香里が聞いてきた。
「ああ、うん」生々しいキスシーンを見せられたあとでは、非常にいい
出しにくい。影響されて誘うみたいではないか! 下心があるみたいで
はないか! 武志郎は、今日はやめようかと迷いはじめた。
「どうしました? 今日の勉強でわからない所とか?」
「いや……いや、今日、無事に計画書を提出できたこと、俺、鵜飼さん
に感謝してる。マジで」武志郎は思いなおした。今日いわなければ、明
日送りにすれば、保田奈美穂のときのように間にあわなくなってしまう
かもしれない、そう思った。そう思ってからなにかにつけ保田奈美穂に
思考が向かう自分に嫌気がさした。今は香里への感謝を形で示すべきと
きである。これからも勉強で世話になるのであるし。
「そんなこと、私、なにも……」香里はうつむく。私はなにもしていな
いと。
「まあ、いいじゃん! ええと、おごるよ」
「え?」
「慰労会。なんかおごらせてよ、鵜飼さん」
「いいんですか?」
「すごく高いのはかんべんだけど、お茶くらいなら──」いっていて恥
ずかしくなってくる。当然のことながら女子をどこかに誘うなど武志郎
には初めてのことなのだ。
「……バーガープリンス」
「は?」
「バーガープリンスに行きたいです」香里は蚊の鳴くような細い声でい
った。
「バーガープリンス」は学校の最寄り駅近くにあるハンバーガーショッ
プである。武志郎も部活在籍中は孝雄や仲間とたまによってはハンバー
ガーやポテトをパクつき、ダベっていたファーストフード店である。安
上がりな女子で助かったと内心思いながら、トレイを持った武志郎は香
里が待つテーブル席に腰を下す。武志郎はアイスコーヒー(L)とフラ
イドポテト(S)、香里はアイスティー(L)にチキンナゲット、それ
にビッグプリンスという巨大ハンバーガーとシーフードバーガーを注文
した。
「夕食前にそんなに食って大丈夫なのか?」おデブちゃん、とはもちろ
んいわない。
「私、これを夕飯にしますから。帰ったら勉強しなきゃですし」
「あ、そう。なんか、かえって迷惑だった?」
「そんなことないです! 誘ってくれて嬉しいです、本当に」
「おお」ズズッと音を立ててコーヒーのストローに口をつける武志郎。
香里はいただきます、といってからカリカリのチキンを指でつまんだ。
「うち、母親の仕事の帰りが遅いから夕飯はいつもひとりなんです」
「そう」ひとり、ということは武志郎と同様に兄弟もいないのだろう。
「だから、誰かと一緒にご飯食べられるのってすごく嬉しいんです」
「昼飯は有坂さんや丘さんと机並べていつも一緒に食べてるじゃない?
女子はああいうの好きだよな」また保田奈美穂を思ってしまう、彼女は
どうだったのだろうか?と。
「そうですね、群れたがりですね」バーガーにかじりついた香里は口元
をぬぐいながら笑う。
「そーいや、たまにタカも一緒になって弁当食ってるときあるよね?
あれ、なんで?」
「はあ?」バンズからはみ出したレタスを舌先ですくい上げつつ、香里
は異星の生物でも見るような目つきで武志郎を凝視した。
「え?」
「大倉君とはお友達ですよね?」
「まあ、かな?」
「だったら……まさかと思いますけど、知ってますよね?」
「な、なにを?」
「大倉君とりっちゃんがつき合ってること」
「……はぁあ!?」まさに驚天動地、武志郎は店中に響きわたるような大
声を出していた。
「やっぱり知らなかったんですか?」周囲の注目を集めてしまって、恥ず
かしそうにしている香里。しかし武志郎はそれどころではない。
「いつから?」
「ええと、今年の春休みからみたいです。ライブイベントで偶然会って、
意気投合したんだそうです」
「ほうお……」春休み、部活に出てこいという孝雄からの「マイン」やメ
ールがやけに少ないと、武志郎は実は不審に思っていたのである。
「あ、じゃあ、いっちゃいけなかったのかな?」香里は不安そうな顔をし
つつアイスティーのストローをかむ。
「ほかの人も知らないの?」
「いえ、たぶんクラス中みんな知ってます。というかわかります、ふた
りを見てれば」
「あ、そう」武志郎にわかるわけがない。なにしろ最近まで有坂律子の
名前すら知らなかったのだから。「じゃ、いいんじゃない。別に内緒に
してるんじゃないんでしょ? 俺がうとかっただけだし」うといのにも
ほどがあるだろ! 武志郎は自分にツッコミを入れた。
「そうですよね」ホッとしたように目を細める香里。
「しかし丘さんも彼氏もち、有坂さんまで……驚いたな。鵜飼さんも彼
氏いるの?」
「…………」香里の表情が一瞬、引きつったような気が、武志郎はした。
「あれ? あの──」
「彼氏がいたら、武志郎君とふたりきりでこんな所へはきていません」
香里にしては珍しくピシャリといいきり、そしてその日、彼女は簡単な
相づち以外はほとんど口をきかなくなり、ふたりの慰労会はお開きとな
った。
8
翌朝、前の晩よく眠れなかったせいか遅刻ギリギリのタイミングで教
室の前にたどり着いた武志郎は、おそるおそるといった調子で入口ドア
をスライドさせた。はっきりとはわからないが、どうやら鵜飼香里を怒
らせてしまったらしい。学校で顔を合わせるのはしんどいなぁ、そう思
う気持ちが足取りを重くしたことも遅くなった原因のひとつである。
「よー、ブシロー、おはようさん」教室に入るなり声をかけてきたのは
同級生の山原勇人であった。そしてなにかチラシのよ
うな紙切れを押しつけてきた。
「なにこれ?」
「期末のあと、三連休があるだろ? クラスみんなで集まって試験慰労
会をやろうって企画だよ。くわしくはチラシを読んでくれ」
「慰労会……」嫌な響きだ、と武志郎は思う。おそらくは香里もそう思
うのではないだろうか?
「ブシロー、彼女もちゃんと連れてこいよ」
「彼女?」
「鵜飼だよ、彼女だろ? 毎日、一緒にいるじゃん。昨日だってバーガ
ープリンスにいただろ? 見たぜー、隠すなよ」
「いや、違うって!」
「いいから、いいから」勇人は教室に飛びこんできた朝練帰りの女子生
徒に目をとめると、チラシの束を手に駆けよっていった。
「…………」困ったもんだ、と武志郎は思った。考えてみれば「バーガ
ープリンス」は通学途上にあるのだ、誰に見られていても不思議ではな
い。正直いって武志郎自身にとっては悪くない話であった。勘違いでは
あるのだが、無味乾燥でモノトーン化していた高校生活に少しばかり華
やいだ色合いの絵の具が足されたような気になれる話である。しかしか
わいそうなのは鵜飼香里の方だ。太めではあるが、最近ちょいちょい可
愛いらしく見えるときが武志郎にはあった(ぬいぐるみ的にであるが)。
そして彼氏はいないといっていた。となれば成績最低、部活からも逃げ
出した男との浮わついた話など迷惑以外のなにものでもないだろう。た
だでさえヘソを曲げてしまったようであるし、放課後学習も中止にする
べきではないだろうか? ひとりきりでなんのおもしろ味もない暗記を
二週間も続けられる自信はまったくないけれど……。そんな後ろ向きな
思いを武志郎が巡らせているとチャイムが鳴った。
「おはようございます!」元気のいい声を出しながら武志郎の脇を走り
ぬけた香里は、着席するとあわててバッグから教科書を取り出している。
昨日と同じ芳香、リンスの残り香があった。なんか、怒ってないみたい?
武志郎はほぉっ、と安堵のため息をもらした。
放課後、図書室の指定席でひとり、前日の復習をしていた武志郎はふ
と顔を上げ、入り口付近へと視線を送る。やはり、怒らせたのかもしれ
ない。いつもの時刻を過ぎても香里がこないのである。しかし、怒る理
由がわからない。考えられそうなことがあるとすれば──。
「まさかな……」女子に惚れられる理由を、武志郎は自分自身に見つけ
られない。それはありえない、思い上がるなと自戒する。彼女は教室で
声をかけても終日、にべもない態度を示すばかりで律子や蓮美とどこか
へ行ってしまった。武志郎はため息をつきながら香里が用意してくれた
古文の暗記シートに目を落とす。そしてまた、まさかな、とつぶやいて
いた。
「遅くなっちゃいました、ごめんなさい」拝むような手つきをしながら
香里がカウンター席の隣に腰を下した。
「あ? おう」なんでもない風を装いつつ武志郎が顔を上げると、彼女
の手には山原勇人の作ったチラシが握られていた。
「山原君につかまっちゃって。おかしなこというから、あの人」
「おかしなこと?」武志郎にも想像はついた。
「いいの、いいの。それより偉いですね、武志郎君」
「なにが?」
「ひとりでもちゃんと自習してたじゃないですか」
「ちゃんとはできてない」それは事実であったし、彼女のいったひとり
でもという言葉に武志郎は動揺を感じた。
「じゃあ、はい」香里はいつかのように付箋のついた問題集を差しだし
た。「昨日の暗記が完璧なら解けるはずですよ。それをやってから、こ
れは今日の分」
「おう……わかった」古文の問題集に英単語の暗記シートを渡され、目
を白黒とさせながらも武志郎は胸をなでおろしていた。よかった、いつ
も通りだ、と。
「そりゃ、そうですよね。毎日、こうしてれば」
「え?」
「変な誤解も受けますよね。ごめんなさい」
「なんで? 謝る?」
「武志郎君、嫌でしょ? こんなデブな子と噂になったりしたら」
「んなことないけど」それは本当である。それどころか逆に迷惑をか
けるとすら考えていたくらいなのだ。また武志郎の存在が香里のもら
い事故になるかもしれないと。
「それで私、考えました。期末まで毎日、こうして暗記シートとドリ
ルを持ってきます」
「ああ」
「武志郎君に渡して、前日のドリルを受け取ったら、私、帰るから」
「はぁ?」
「それで解決です。あ、採点した答案は翌日、渡しますね」
「いや、ちょっと待て。俺、ズルするかもしれないじゃん。鵜飼の前
でドリルやらないと」
「あ」
「なに?」
「初めて鵜飼って呼ばれた」
「はい? ああ、鵜飼さん、悪かった。それは置いといて、マジ、ひ
とりじゃ俺、勉強やんないって!」なんの自慢にもならないセリフを
普通の音量で吐いたことで、期末試験前の学習を粛々とこなしていた
生徒たちからいっせいに視線を浴びた武志郎は、首をすくめて口元を
押さえた。
「元々やりたくなかったんですよね? 勉強」香里は静かな声で応え
る。
「…………」
「私の都合で押しつけたようなものだし、ズルするんならしてくださ
い。やりたくなかったら、やらなくてもいいです。私は一応、暗記シ
ートとドリル、毎日、届けますから」
「…………」
「それに私、塾に通うことにしたんで、あまり時間も取れなくなった
んです」
「あ……そう」
「じゃ、武志郎君、また明日」ペコリと頭を下げて香里は足早に図書
室を出ていった。
翌日、翌々日も香里は、休み時間は武志郎をさけるようにどこかへ
いなくなり、放課後には図書室まで暗記シートと付箋の貼られた問題
集を運んできた。そして、そそくさと下校するのだ。律儀にカウンタ
ー席で彼女を待ち、答えを書き込んだ前日のドリルを渡している自分
を、武志郎は躾けられた犬のように感じはじめた。なんだかバカにさ
れているような気もするし、採点済みの答案用紙に書かれた彼女の細
かなアドバイスなどを見ると、そんなことはないような気もする。そ
れにここ数日、一緒にいる時間が長かっただけの間がらであるが、少
なくとも、こんなことで他人を小バカにして喜ぶような女子には思え
なかった。うーん、とうなる彼はその日、暗記問題になど集中できな
かった。
結局、暗記学習に専念することも投げ出すこともできず、退室時刻
まで図書室でうだうだと過ごした武志郎は、実に宙ぶらりんな気持ち
で自転車置き場へと重い足を引きずっていった。
「なんだかしょぼくれたジジイみたいだな」自転車の鍵を外していた
武志郎は声をかけられて、ぎくりと振りかえった。思った通り、少し
白っちゃけた紺色の道着に袴姿の孝雄が背後に立っていた。懐かしい
異臭、鼻にツンとくる汗の匂いがした。
「おう、タカ。もう部活終わったのか?」
「ああ、たまには一緒に茶でも飲もうかと思ってさ。待ちぶせしてた」
「気持ち悪ぃな」
「ブシロー、いいだろ? 着替えてくるから少し待ってろよな」孝雄
はそういい残して部室の方へと走りさった。
「はぁ、ブシローの悩みは女がらみばっかだな。保田奈美穂に続いて
今度は香里ちゃんかよ」ビッグプリンスにかぶりつきながら呆れたよ
うに孝雄が笑う。
「そんなんじゃねぇよ。ただ鵜飼さんが、なに考えてんだかわからな
いっていってんだ」
「バーガープリンス」は本日も学生たちや仕事帰りの若いサラリーマ
ン客でにぎわっている。香里とふたりできたのが、たった三日前であ
ることが嘘のようだと武志郎には感じられた。
「香里ちゃんがなに考えてるって、ブシロー君が大好き!に決まって
んだろ?」
「はぁ? ねぇよ」
「お前、なーんもわかってないな」
「なにが? だいたい、惚れられる理由がない」
「理由ねぇ……確かにないな。なんでだろ?」
「るせぇよ!」武志郎の口からポテトのかけらが飛びだす。
「汚えな! 飛ばすなよ。でも、なーんか、昨日あたりから様子が変
だと思ってたらそんなことになってたのか」
「タカ、まさかとは思うけど、有坂に探りを入れてこいといわれてき
たんじゃねぇだろうな?」孝雄を上目づかいにねめつける武志郎。孝
雄という男はいい人間ではあるが、それほど鋭くはない。
「バレた? まぁ、そんなとこ。ブシロー、女は怖いぞ」
「もう、なにも喋らない」
「だいたい聞いたからもういい」
「…………」はっきりと聞こえるように舌打ちする武志郎。
「まだいうなって律子からいわれてんだけど……いっちゃおうかなー」
孝雄はわざとらしく苦渋の表情を作りながら武志郎のポテトに手を伸
ばす。
「なんだよ?」武志郎はポテトを脇にずらして孝雄の指先をかわす。
「やっぱりいえないよなー、いったらブシロー、キレるかもなー」
「はぁ? なんだよ、マジ!」仕方なくポテトを差しだす武志郎。
「キレるなよ」孝雄はごそりとポテトの束をつかんで口に放りこみ、
コーラで流しこんだ。
「だから、なんだよ?」
「修学旅行委員な、ブシローと香里ちゃんが選ばれたのは偶然じゃ
ない、仕込みだ」
「な、なにー!!」目を剥く武志郎。
「声でけえ。つまり──」
つまり、香里が武志郎に気があることを察知した律子が、リーダーシ
ップのとれる蓮美と、こうしたことにはなぜか長けている勇人を焚きつ
け、クラス中に呼びかけて一致協力させた上でふたりを修学旅行委員に
選出した。そういうことであった。
「…………」開いた口がふさがらない。その言葉通り、武志郎の口はぽ
かんと開いたままである。
「いっておくけど、この件、香里ちゃんはいっさい知らないから。全部、
ウチの律子の悪だくみ。な、女は怖いだろ?」ヘラヘラと笑う孝雄。
「お前だってかんでたくせによ! ふざけやがって! えーと、勇人っ
て誰だっけ?」
「え? ブシロー、まだクラスの連中の名前覚えてないの? 山原だよ、
期末のあとの連休に慰労会をやるってビラ配ってた」
「あいつか……」あの男のせいで香里と武志郎はぎくしゃくしているの
だ。
「委員、やめるとかいわないよな?」
「いえるか、いまさら」
「だよな。剣道部はやめたけど」
「くどいな。悪かったよ」
「冗談だよ。まだ秘密はあるんだが、ま、これ以上はな」
「はぁあ!! なんだよ、かんべんしろよ!」武志郎は口から唾ととも
にアイスコーヒーのしぶきを散らす。うわっと顔をぬぐう孝雄。
「だから飛ばすな! けどな、これだけはいっておく」
「なに?」
「香里ちゃん、親父さん、いないんだ」
「聞いてる。それが?」
「そうカリカリすんなよ」
「するだろ! それでなんだよ?」
「つまり、親父さんが突然事故で亡くなって、香里ちゃんち、経済的に
厳しいらしいんだ」
「え?」
「律子の話じゃ、なんか、巻き込まれたみたいな事故で、補償金もそれ
ほど出なかったんだそうだ。くわしいことは香里ちゃんいわないみたい
だけど」
「車かなんかか?」──もらい事故!
「どうなんだろうな。それと最近、香里ちゃんの母親が倒れたらしい」
「なにぃ!?」──聞いてない!
「いや、単なる過労で、風邪ひいただけだそうだが」
「なんだよ!」──脅かすな!
「だから塾にいくって話、そりゃ嘘だ。おそらく母親の看病があるんじ
ゃないか? それにいいにくい話だけど、予備校って金かかるだろ?」
「……なんで、そんな嘘」
「そりゃ、愛するブシロー君に心配かけたくないって乙女心だろ」
「ふざけるところか? だいたい有坂だって鵜飼さんから直接聞いたわ
けじゃないんだろ? 単なる勘違いかもしれない」
「ちょっと待て。なんでウチの律子が有坂で、香里ちゃんは鵜飼さんな
んだ? なんでウチのは呼び捨てなんだ?」
「お宅の律子が俺を呼び捨てにしてるからだ。それに……鵜飼さんには
勉強、教わってるし」
「なるほど。そうだな、次の期末でいい点取れたら、お宅の鵜飼さんも
喜ぶんじゃない? 内申点のことも含めて」
「…………」武志郎は小さく小さく小刻みにうなずき、スクールバッグ
を見た。中には毎日用意されてくる付箋のついた問題集と暗記シートが
入っている。おそらく香里は少ない小遣いをやりくりして、あれを準備
しているのであろう。「……てか、お宅の鵜飼さんてやめろ」
「てか、ブシロー、お宅の鵜飼さんとつき合っちゃえばいいじゃん。い
いんじゃね、巨乳だし。うらやましいー」
「てか、タカ、鵜飼さんをそういう目で見てんのか?」
「てか、見るでしょ? 普通。ただ、ブシローがウチの律子をそんな目
で見るのは許さない」
「てか、タカ、お宅の律子とはどこまでいってるんだ?」
「てか、そんなこといえねぇし」
「てか、そこは口がかたいんかい?」
「て──もう、いい。そんなこと喋ったら律子に殺される」
「ふーん、殺されるほどの深い仲ね」
「ま、そんなとこ。マジな話……」
「なんだよ?」
「待ってると思うよ、香里ちゃんも。ブシローのことをさ」
同じ夜。自宅で夕飯をすませた武志郎は、図書室ではほとんどできな
かったドリルの設問に取り組み、続いて日本史の暗記シートにかかる。
「日本史ねぇ……」
香里は日本史、中でも江戸時代が一番好きだと話していたことがある。
鎖国をしていたせいで日本独自の文化が花開いた時代。商いが盛んで、
食べ物がおいしくて、町人が生き生きとしていた時代。そして長屋は人
情と温かさであふれていた、そんな時代だと武志郎に語った。ただし最
後に、そんな風に歴史を考えると勉強も苦になりませんよね、とつけ加
えることも忘れなかった。
「苦だよ……」なんといわれようが歴史にはまったく興味のない武志郎
は、自室にいる気安さで、うんうんとうなりながら試験範囲内の年号や
人物名、用語の暗記を続けた。初めて聞かされた香里の現状。なにかし
てあげたい気持ちもあったが、当然なにもできない。せめて国、英、地
歴、教えてもらっている教科だけでも次の期末で結果を出したい。武志
郎の心はおよそ十カ月ぶりに燃えあがった。ただし香里に対して孝雄の
いうような恋愛感情は、はっきりといっさいもてなかった。これは差別
であるとかヘイトと呼ばれるものではなく、単に好みの問題であるが、
このころの武志郎は基本的に、保田奈美穂のようなスリムな女子に惹か
れるたちだったのである。まだ十六歳、これは致し方のないことであろ
う。
午前三時近くまで続けた暗記学習を終え、ベッドに横になった武志郎
はふと思った。結局、うやむやになったけどタカのやつ、まだ秘密があ
るとか抜かしてたな、実に思わせぶりに……。引っかかりはしたけれど、
慣れない勉強にこんをつめた武志郎は五分もしないうちに寝息をたてて
いた。
翌日、それ以降もことあるごとに武志郎は秘密とはなんだ?とつめよ
ったが、孝雄はヘラヘラと笑うばかりで答えは返ってこなかった。そし
て変わらず、香里は毎日、ドリルと暗記シートを運んでくれた。しかも
期末試験が近づくにつれ、内容も分量も急激にふえている。当然、放課
後の図書室だけの自習では追いつかず、自宅に持ち帰り夜中まで机に向
かうはめになった。ごく当たり前の高校生ならば誰もがしていることで
はあるが、武志郎の心はときおり、折れそうになる。しかし、香里は自
分の試験勉強をしながら、これだけの内容の教材を日々、武志郎のため
に準備しているということである。投げ出すわけにはいかなかった。し
かも、もしかすると母親の看病をしながらなのかもしれない。彼女の母
の病状がどうしようもなく気にはなっていたが、香里が塾に通っている
ていでいる以上、たずねることもできない。武志郎は心にもやもやをか
かえつつ、とにかく今は期末に向けての試験勉強へ打ち込むことに専念
した。
そして、七月初旬、いよいよ四日間の期末テストが始まった。
(つづく)