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第一章 春の地獄 5~6

ようやくヒロイン、香里が登場しましたがダサダサです。彼女がどう変貌していくのかを楽しんでいただければ幸いです。

挿絵(By みてみん)


       5

またしてもさんざんだった中間試験をへて、高校二年生の一学期も半ばを過ぎ


たころ、一限前のホームルームの議題の中に、秋に予定されている修学旅行の


実行委員選出があった。各クラスで男女一名ずつ選抜する決まりらしい。よう


は『旅のしおり』を作成したり、クラスの行動予定を教師と打ち合わせの上で


決定したり、現地での集合、解散の号令や確認をする役割である。はっきりい


って、とても面倒な仕事である上になんのメリットもない。立候補者は当然の


ごとく皆無であった。ちなみに旅行先はよくある京都、奈良である。


「清輪ブシロー君、推薦しまーす。たぶん、超ひましてると思いまーす」手を


上げて発言したのは二年になってから同じクラスになった大倉孝雄であった。


「タカ、てめぇ! お前がやれ!」剣道部から逃げた俺への報復のつもりか!?


 武志郎は思わず声を荒げていた。


「だってボク、部活で忙しいから」


「…………」ボクじゃねぇ!と思いつつ、武志郎は舌打ちした。


「勝手にしゃべるな。ちゃんと手を上げて発言しろ、ブシロー」担任男性教師


笹井(ささい)も武志郎をブシローと呼んでいる。というか、中学時代から引


きつづきで彼の名はブシローで通っており、本名を知る人間の方が少ないと思


われた。笹井は黒板に白チョークで『男子、清輪武志郎』とガシガシ書いてク


ラス全体を見わたす。「みんな、男子はブシローでいいか?」


こんなときだけは一致団結するようで、武志郎を除く全員がいっせいに手を上


げた。


「はい、次、女子。立候補、いないか?」


「先生!」武志郎は懸命に挙手した。


「なんだ?」


「俺、決まりですか?」


「当然」笹井は大きくうなずく。「一限が始まる、女子もとっとと決めるぞ」


「…………」武志郎の視界のはしで、大倉孝雄がゲラゲラと笑っていた。


 一限目の授業が終り、教科書を片付けていた武志郎におずおずと話しかけてき


た女子がいた。二年生になって同じクラスになってから、これまで一度も会話し


たことのない小太りの女子であった。彼女は武志郎同様、別の女子から修学旅行


実行委員に推薦され、おそらくはなしくずし的に任命されてしまった、はっきり


いってさえない子である。ホームルームのとき黒板に名前を書かれていたはずだ


が、彼は彼女の名を覚えていなかった。


「……ブシロー君」


「はい」名も知らぬ人にあだ名で呼ばれるのには慣れていたが、武志郎は少しム


ッとしたように応えた。彼女もまた武志郎の本名を知らないし、興味もないのだ


ろう。中一の学級会で名前を読みちがえて端正な顔を真っ赤に染めていた保田奈


美穂とは比べようもない。


「あの、放課後、その……」


「はい?」彼女の妙にオドオドとした、腫れ物にでも触るような態度にもイライ


ラする。


「実行委員の顔合わせをするそうだから、四時に視聴覚室に行くようにって……


先生が」


「ああ、そう。わかった」


「……じゃ」


「ありがと」武志郎が形式的に礼をいうと、彼女は軽く頭を下げて自分の席へ


と戻っていった。そして着席するなり天然パーマの子とノッポの子、ふたりの


女子が彼女を取りかこみ、笑顔で話しかけている。彼女も屈託のないえびす顔


で白い歯を見せていた。つまり、暗い子ではないわけだ。ということは、武志


郎自身がなんらかの負のオーラ、話しかけにくい雰囲気をかもしているという


ことだろう。せめて高校くらいは出ておかないと。そんな世間体だけのために


学校へきていた彼は、そういえば、二年になってから同じクラスになった同級


生とほとんど交流がなかったことに気がついた。たとえば彼女ら三人とも、誰


の名前もわからない。──これって、さすがにヤバくね? いまさらながら武


志郎は学校にきている理由を見失っている自分に不安を覚えた。そもそも、こ


の高校を選択した理由からしてどうかしていたのだ。少なくとも武志郎自身の


将来のためではなかった。いや、自身の欲望に忠実であったともいえるけれど。


理由……理由……根拠、いわれ、ゆえん……学校にきている意味……勉強はお


もしろくない……スポーツは苦手……好きな(ひと)は消えた……友達は──。


「ブシロー、修学旅行委員、しっかり頼むぜ! 期待してるよん」大倉孝雄が


よってきて、ニヤニヤと笑いながら空いていた隣の席に座った。


「うっせーよ」思惟(しい)を破られ、声を荒げる武志郎。友達はこんなのしか


いない。


「あ! 保田奈美穂!!」孝雄は突然、廊下の方を見て目を丸くした。


「え!?」武志郎ははじかれたように立ち上がり、勢いをつけて通路へ向かお


うとしたが、彼の腕を孝雄がつかんだ。「タカ、離せよ!」


「いいけど、嘘だよ。いるわけないじゃん」


「な……」武志郎は顔を赤くして周囲を見わたし、ドスンと音を立てて座りな


おした。まだ心臓が跳ねまわっている。──こんなにも跳ねている。


「熱いねぇ、ブシロー君。そしてわかりやすくアホだね」


「るせぇ……」


「まさかとは思ってたけど、まだ引きずってた? 本当、バカだな」


(ちげ)ぇーよ」


「女のせいで捨てられた剣道部ちゃん、かわいそう……」


「タカ、てめぇ……」


「なんだよ?」武志郎より体が分厚くて大きい、丸刈りの孝雄が真顔で凄んで


みせた。これははたから見るとけっこう怖い絵面である。「文句あるのか?」


「ねえよ」孝雄の気性を心得ている武志郎はもちろん怖くはなかった。かつて


保田奈美穂ショックのあまり、あきらかに挙動不審者になっていた武志郎を一


番真摯に心配し、話を聞いてくれたのが大倉孝雄であった。そんな男を裏切っ


て部をやめたのだ、文句などいえた義理ではない。だがこのときばかりは彼女


のことを話すべきではなかったと深く後悔した。武志郎はいつもいつも後悔を


繰りかえしてばかりいる。二限のチャイムが鳴って、隣席の女子生徒が戻って


きたので孝雄は席を立ち、そしていった。


「ブシロー、お前、なんかやった方がいいよ」


「え?」顔を上げる武志郎。


「クソつまんない委員でもなんでもさ」


「…………」ヘラヘラと笑いながら自分の席に戻る孝雄を見ながら武志郎は思


った。まったくクソいい野郎だよ、タカ。本当にさ。


 放課後。四時近くなり、二年生各クラスの担任教師と修学旅行実行委員男女


が視聴覚室に集まってきた。どの生徒の顔を見てもやる気がなさそうに見える、


武志郎は少しホッとした。ところで室内中どこを見まわしても、武志郎にこの


ミーティングを知らせてくれた当の本人の姿が見えない。同じクラスの相方(


?)がきていない。──バックレ!? マジかよ!


そうこうしているうちに定刻となり、教卓についた学年主任の教師が修学旅行


の概要から説明を始めてしまった。武志郎は担任の笹井に目配せして相方がき


ていないことを訴えたが、笹井はやはり目つき、顔つき、首振りだけで、黙っ


て聞けと返答してきた。武志郎はしぶしぶメモを取りはじめる。クラスから来


ているのがひとりである以上、取りあえず説明を聞くよりほかにない。


「……次に『旅のしおり』について。今、大まかに話した旅行日程に合わせて


各クラス独自の行動予定表を作成し──」


「すみません!」という悲鳴にも似た声とともにショートの髪をふり乱し、首


から上を真っ赤に染めた小太りの女子生徒が「必死」という文字を貼りつけた


ような顔つきで視聴覚室に入ってきた。相方の登場である。彼女がスライドド


アを閉じる直前、廊下にチラと別の人影が見えた。どうやら顔合わせに遅刻し


た彼女のつき添いらしい。おそらく天パーとノッポのふたりだろう。


「早く座れ」笹井があご先で小さく指示をする。


「はい……」彼女はずんぐりとした体をさらに丸めて、教員たち、各クラスの


委員たちに頭を下げ、武志郎の隣に腰を下した。


「旅先じゃバスに乗りおくれるなよ」学年主任は小さな笑いを取ってから『旅


のしおり』の作成工程や草案の提出期限についての説明を再開した。彼女は蚊


の鳴くような声で「ごめんなさい」とささやいたが、武志郎は聞こえないフリ


をしてメモを取っていた。見た目通りどんくさいヤツ、と失礼なことを思いな


がら。

 武志郎の相方の名は鵜飼香里(うかいかおり)といった。同じクラスで一カ月


以上過ごしてきているので、いまさら名前など聞けなかったのだが、約三十分


間のミーティングが終ったあと担任の笹井が彼女に向かって「鵜飼、お前、な


にやってたんだ?」というのを聞き、彼女が開いていたノートの表紙に書かれ


ていた「KAORI」の文字を盗み見て判断した。この時点では漢字表記は不


明だったので、武志郎の中で彼女の名はウカイ・カオリであった。


「とにかくブシローが委員長な。で、鵜飼が副委員長。それでいくぞ」笹井が


明言した。


「えぇー」武志郎も明確に不服そうな表情をアピール。


「仕方ないだろ? 鵜飼は初めの説明、聞いてないんだから」


「ごめんなさい……」丸っこい指先を腹のあたりで固く組み、小さく縮こまる


香里。


「…………」武志郎は口をとがらせ、小指の先で耳の穴をほる。そうしながら、


理不尽だと感じながらも香里がかわいそうな気がしてきた。「……わかりまし


たよ」


「よし、決まった。ブシロー、頼むぞ。お前の責任において書類提出の期限、


絶対守れ」


「はいはい」


「それから鵜飼」


「はい……」


「委員の仕事の合間でいい。お前さ、ブシローの勉強、少し見てやれ」


「ぇえ?」「はぁ!?」武志郎と香里の声がハーモニーを奏でた。


「ははは、さっそくいいコンビネーションだな。鵜飼、頼むぞ。ブシローの場


合、基礎から教えないとダメかもしれんけど」


「先生、なにいっちゃってるんですか!? おかしいんじゃないですか!」武


志郎、必死の抗議。実行委員とはまるで関係のない話である。


「この間の中間テストの結果見て、柳川先生、心配してたぞ。ブシローのこと、


すごく」


「え……」思いもかけず剣道部顧問の名前が出てきた。


「なんとかしてやれんのか?と相談を受けたんだ。元部員でもやはり可愛いっ


てよ」


「マジか……」嘘をついて退部したのに?


「少しは気概を見せたらどうかな? 男だろ? ブシローの名が泣くぞ」


「名前、ブシローじゃねぇし……」


武志郎(ブシロウ)君じゃないの!?」香里がすっとんきょうな声を上げた。


どうやら本気で清輪ブシロウだと思っていたらしい。武志郎は舌打ちしたが、


ついさっきまで彼女の名前すら知らなかった男に腹を立てる権利は当然ない。


あはは! 高笑いした笹井はふたりに向かっていった。


「ブシロー、修学旅行計画しっかり頼むぞ。鵜飼、ブシローのフォローと勉強、


二本立てで頼んだぞ」


 笹井やほかの教師、生徒たちが出ていったあと、視聴覚室の机に肩ひじをつ


いた武志郎は、指先で額をコツコツと叩きながら考えていた。両親、タカ、そ


れに笹井はともかく柳川まで……。どれだけ人に心配かければ気がすむんだろ、


俺。情けない──と。


「あ、あの……」


「え?」忘れていた、まだ鵜飼香里が残っていたのだ。


「ごめんなさい!」香里は体を二つ折りにして頭を下げた。


「遅刻のこと? それなら別に」


「違うの! 名前……」


「ああ。いいよ、そんなの。昔からよくある──」


「よくないです! ダメです、すごく失礼なことです!」


「あ、そう」なんだかひるみながら武志郎は、こちらこそ、と心の中でつぶや


いていた。


「あの……」


「はい」


「本名、教えてください」


「…………」彼女の真剣そのものの瞳に見つめられた武志郎は、なんとかこら


えようとはしてみたものの、こらえようと思えば思うほど──くくく、ふふふ


、ははは! しまいには笑いながら咳込んでいた。


「え? なんで? なんか私、おかしいですか!?」机の端を握りしめて笑い


つづける武志郎の脇で、あたふたと自分の手やブレザーの胸元、スカートに視


線を巡らせる香里。


「違う、違う。ごめん……だってさ、本名教えてってさ……」


「はい?」香里は、まだ笑いの止まらない武志郎に不安げな目を向けた。


「俺、スパイじゃねーから偽名使って生きてねーし。本名、隠してねーし」


「あ!」両手で口を押えた香里も吹きだした。「そうですよね。名前教えて、


ですよね!」 


「だと思う……タケシロウだよ、清和武志郎。まあ、よろしく」目尻ににじん


だ涙をぬぐいながら武志郎は、あれ? と思った。学校で笑ったのって何カ月


ぶりだろう?


「タケシロウ君……武志郎君か……こちらこそよろしくお願いします」


「ああ……鵜飼さん」ぴょこんと頭を下げた小太りでさえないショートカット


の女子が、このとき武志郎には、なぜだか少しだけ可愛いらしく思えた。


       6


 武志郎の高校は土日が休みの週休二日制である。剣道部に所属していたころ


は土日、祝日も関係なく登校していたものであるが。


修学旅行委員のミーティングがあった翌日の昼休み。鵜飼香里との取り決めで、


週の内の火曜日と木曜日の放課後を修学旅行の打ち合わせにあてることにした。


それはいいのだが、香里は月水金の放課後は武志郎と一緒に勉強をするといい


だした。しかも完全下校時刻の午後七時までみっちりやると。


「笹井のいったことなんて守ることないよ。火木の打ち合わせだけでお腹いっ


ぱいだし」


「でも、先生が……」


「それに、俺なんかの面倒みて鵜飼さんの成績が落ちたら困るでしょ? 俺も


そんなの嫌だし、責任取れないし」担任教師が同級生の勉強を見ろ、などとい


うくらいなのだから香里の成績はけっこういい方なのであろう。成績上位者の


順位なんて昨年の夏以降、武志郎は気にしたこともなかったけれど。


「責任……私の成績が落ちたら、私の責任だと思う」


「ああ、おう。そりゃ、そうだろうけど」


「あ、あの、あの……その……」


「なに?」武志郎はイラっとくる。「はっきり喋んなよ」


「ごめん……わかった。武志郎(たけしろう)君」


「え? あ、ああ」武志郎は学校内でブシローではなく、武志郎と呼ばれるこ


とをなぜか新鮮に感じた。おかしな話であるが。


「じゃ、じゃあ、笹井先生にいわれたことを私がしないで、心象悪くして、内


申点を下げられたら、責任取れますか?」香里は、武志郎の目を見ずにうつむ


いたまま一気にいい切った。


「ないでしょ? それは」


「それで、それで、私が大学落ちたら、武志郎君、責任取れますか?」


「はぁ?」


「私は勉強くらいしか取り柄ないし、自分で成績、落としたりしない。絶対」


握りしめた香里の丸々とした両拳(こぶし)は小刻みに震えている。


「お、おう……」


「で、でも、こんな外的要因、もらい事故で内申点下げられたりしたら、私……」


「…………」もらい事故? 武志郎は正直、驚いた。この子からそんないわれ


ようをされるとは予想だにしていなかったからである。多重人格者? そんな


ことまで思ってしまった。


「責任、取ってくれますか?」


「取れない、かなぁ……たぶん」


「取れませんよね、きっと」


「まあ……」武志郎はなんの話をしているのかわからなくなってきた。俺の存


在自体がもらい事故? まだその言葉の放つ衝撃から抜けだせずにいるのであ


る。


「なになに? 責任取るだの、取れないだの、真っ昼間から修羅場?」そうい


いながら武志郎と香里の間に割りこんできたのは孝雄と、天パーにノッポの女


子ふたりだった。


「香里、ブシローになにかされたの!?」天パー女子の鼻息は荒く、香里を守


るように武志郎の前に立ちはだかる。ろくに口もきいたことのない女子からも


ブシロー呼ばわりである。──この鳥の巣頭が!


「どういうことなの? ブシロー君」ノッポ女子の方は一応、君づけで呼んで


くれたが、彼女の背丈は武志郎とほとんど変わらないため、威圧感がハンパで


はない。──この電柱女が!


「ちょっと、違うの! ふたりとも! 大倉君も、違うから!」香里はあわて


て胸の辺りで、開いた両手を左右に振る。もみじ饅頭(まんじゅう)のような手


だと思いながら、武志郎は吐息をついた。やはり、自分とは話しにくいのであ


ろう。香里の三人に対するものいいは、そうとうに気安く、くだけていた。こ


れが本来のクラスメイトというものなのかもしれない。


「なにがどう違うのかな? 香里ちゃん」孝雄が彼女にたずねた。


「ちゃん?」──香里ちゃん、だと? タカのヤツ、いつの間にそんなになれ


なれしく女子の名前を呼ぶようになった? いや、一年生のときの同級生、保


田奈美穂に対しては保田奈美穂とフルネームで呼んでいたような気がする。彼


女もクラスになじめなかったのかもしれない、俺同様、浮いた存在だったのか


もしれない。そんな武志郎の思いを破るように午後の授業の予鈴が鳴った。昼


休みの教室での不条理ともとれる武志郎への波状攻撃は、これでいったん打ち


切られた。


 午後一番の授業は「数学Ⅱ」。教師は担任の笹井なのであるが、数学は武志


郎がもっとも苦手とする教科である。素数だの虚数だの因数分解だの、中学校


では理解できたことも、今となってはさっぱりである。笹井が黒板に書きなぐ


る数字や記号の羅列を見ていると、いい感じに眠気が襲ってくる。


「?」後ろの席の女子からトントンと指先で背中をつつかれた。肩ごしに見る


と、小さく折りたたまれたノートの切れ端を差しだしてくる。手紙回し? 誰


かに回せということらしいが、いまどき、こんな古風なまねをする女子がまだ


いたのか?と思いながら笹井の目を盗み、リレーのバトンパスの要領で受け取


った武志郎は手紙に書かれた宛名を見て目を疑った。『ブシロー君へ❤』とヘ


タくそな字で書かれている。はぁ? 思わず声に出しそうになった。タカだな、


ピンときた武志郎が左斜め後方の席の孝雄を見ると、そ知らぬ顔はしていたが、


明らかに笑いをこらえていた。なんなんだ!? 武志郎は机の下、股間のあた


りで手紙を開く。『メール見ろ! タカオ』とだけ書かれていた。メール? 


剣道部在籍時は、授業中でもたまにスマホの「マイン」でチャットを楽しむこ


とがあった。今考えると気持ちが悪いが、男子部員同士でである。しかし部を


やめてからすぐ「マイン」の友達リストはすべて削除したし、メールは面倒く


さいので元々ほとんど使っていなかった。なんのつもりだ? 緊急? 仕方な


くコソコソとスマホを見ると、三通の新着メールがあった。一通は孝雄からで


あったが、他の二通は知らないアドレスである。武志郎は出会い系かなにかの


スパムかとも思ったが、タイトルは三通とも共通して『ブシローさまへ』であ


った。


『ブシロー、話は香里ちゃんから今、聞いた。お前、香里ちゃんと勉強するべ


き。部活やめて、その上、成績最悪じゃ、学校までやめるんじゃないか?なん


て柳川や先輩方もお前のこと、ずいぶんと心配してるんだぞ。お前、剣道へた


くそだったけど一生懸命だったのはみんな知ってるから。少しはありがたいと


思え、それから恥ずかしいと思え! 部活でヒーコラいってる俺らより成績悪


いって、マジありえないっしょ! 孝雄』


「…………」武志郎は、少しだけ胸を打たれた。先輩たちの顔が浮かぶ。そし


てためらいながら次のメールを開いてみた。


『ブシロー、あたしも成績のことじゃ、偉そうにいえる立場じゃないけど、香


里には将来の夢があるの! そのために香里は勉強がんばってるの! そのじ


ゃまをすることはあたしが許さないからね。香里の内申点が下げられたら、全


部あんたのせいだからね! あたしより下でいいから(というか、下で)少し


は成績上げなさいよね! 律子』


「…………」


『ブシロー君、初メールですが少し厳しいことを書きます。幸いこの学校は進


学校でイジメなんて低次元なものは少ないようです。でも、あなたが香里に協


力できないっていうのなら、クラス中に話しを持ちかけて、あなたをイジメの


対象にしてやりたいと、そう考えております。それが嫌だったら香里と勉強し


ろ! 意気地を見せろ! 放課後までに答え出せ! 蓮美』


「…………」スマホをそっと机の中に戻した武志郎は背筋が凍る思いがした。


──ついには脅迫かよ! 律子に蓮美? 鳥の巣頭と電柱女であることは確か


であるが、どっちが律子でどっちが蓮美なのかはわからない。それにしてもタ


カの野郎、おそらく「マイン」のチャットで女子たちと話したんだろうけど……


今、授業中だぞ! お前らが勉強しろ! おまけに俺のメアドさらしやがって!


 この分じゃ鵜飼香里も俺のメアドを知っていることだろう。当の本人からメ


ールがきていないことにも不穏なものを感じる。あのもみじ饅頭、いったいな


にを考えているんだ!? 


 笹井の授業が終り、どうしたものかと武志郎がグズグズしていると、教室内


には孝雄、香里、律子(?)、蓮美(?)の姿がなかった。示し合わせたに違


いない。ひとりで考えろ、ということのようだ。そうこうしているうちに休み


時間も終り、六限目の「古典」の授業が始まってしまった。四人はなに食わぬ


顔で教科書に目を落としている。武志郎も一応は教科書を開くが、同じ日本語


であるというのに文法や単語が理解できない理由がわからない。あさまし、を


かし、ねむごろなり……本当に眠くなる。しかし、うとうとしている場合では


ない。放課後までに答えを出さなければならないのだ。そんなことを考えてい


たら、ふと、今の気持ちを古文で書くとどうなるのだろう?と、ついそんなこ


とを思った。ようは現実逃避なのであるが、授業はスルーして「古典A」の教


科書と参考書をひっくり返し、彼なりに答えを出してみた。


『他人にわりなし(うれ)ひばかりかけて、むげなるなり、(われ)


これが正解かどうかなど、武志郎にわかるはずもないのだが、集中してものを


調べる作業はけっこう嫌ではなかった。


 放課後。孝雄と電柱女は部活があるということで、残る鳥の巣頭と香里に


「しっかり」などといい残して教室を出ていった。電柱女はバレー部のエース


アタッカーなのだそうだ。どうりで迫力があったはずである。


「で? どうすんの? ブシロー、やるの? それともヘタレたまま?」鳥の


巣天パーがギロリと睨む、また呼び捨てだ。おそらくこっちが律子の方だろう。


となると脅迫してきたのはエースアタッカーの方か……。武志郎が知らないだ


けで蓮美というノッポは学内じゃ、ちょっとした有名人なのかもしれない。ク


ラス中を扇動して一個人をイジメの対象にする、武志郎は実にバカバカしいと


考えていたのだが、にわかに現実味をおびてきた。


「りっちゃん、そんな、いい方しなくても……」困ったような顔をしているが、


もみじ饅頭、お前がいいだしっぺだろが!? 武志郎はそういいたい気持ちを


ぐっとこらえて、ふたりの女子の前に進み出た。彼にしても元剣道部員である、


その目つきに凄みがないこともない。


「……な、なによ?」香里の腕を取り、ひるむ鳥の巣頭、いや律子。


「鵜飼さん」武志郎は律子の方はあえて無視し、香里を見る。


「は、はい」


「勉強、教えてください。よろしくお願いします」頭を下げる武志郎。


「ぇええ!!」香里は口元に両手を置いて、嘘!という言葉を飲みこんだよ


うだ。


「嘘、嘘! 本当? えー、だって孝雄、ブシローは絶対、一発じゃオーケ


ーしないって断言してたのに! やり! スムージーボンボン、ゲットぉ!」


「──りっちゃん」武志郎はスムージーボンボンがなんなのかはわからない


が、どうやら孝雄と賭けでもしていたらしい。しかもこの女子、孝雄まで呼


び捨てである。


「て、なに、いきなり。その呼び方、なれなれしくない?」律子が口をとが


らせる。


「お前がいうなって話じゃない?」武志郎は彼女の名字すら知らないのだ。


「あ、なるほど。そういや、そうか。そうだね、ブシロー」あっけらかんと


笑う律子。悪い人間ではなさそうである。


「タカとあの、で、もうひとりのバレー部にいっておけ! 俺は脅迫に屈し


たわけじゃないからな!」蓮美の名前が出てこなかっただけでなく、武志郎


は危うく電柱女といいそうになった。


「脅迫!? なにそれ!」目を剥いた香里が律子につめよる。


「あはは」まあまあ、と香里をなだめる律子。


「鵜飼さんと勉強しないとクラス中動員してイジメの標的にすると脅された」


抑揚のない声でいった武志郎は、香里が脅迫について知らなかったらしいこと


に、なぜだかホッとしていた。


「ちょっとブシロー! なにチクッてんのよ!」


「りっちゃん!」顔を真っ赤にして目を吊り上げる香里。


「香里、違うって! 蓮美だってばさ! あたしじゃないよ!」


「わー、チクッてる、チクッてる」武志郎は笑いをこらえ、また棒読み口調で


いってみた。クラスメイトとこんな風に会話ができている自分自身に戸惑いを


覚えながら。


「うっさい! ブシロー!」律子はどなりながらバッグをかつぎ、教室から逃


げ出していった。


「…………」やれやれ、とため息をつく武志郎。


「なんか、ごめんなさい。武志郎君」モジモジとおじぎする香里。いや、と武


志郎がいいかけたとき、律子が入口ドアのすき間から顔を出した。


「香里、よかったね! ブシロー、孝雄にいっとくから、しっかり学べよ!」


「うっせ!」武志郎が応えると、律子は笑いながら走りさった。「いつもあん


な感じ?」


「だいたいは。でもりっちゃん、悪い子じゃないんですよ」


「それはわかる」武志郎はイスを引いて席に腰かけた。「ところでさ……」


 鳥の巣頭の名は有坂律子(ありさかりつこ)、電柱女の方が丘蓮美(おかはすみ)


であることが判明した。ふたりの名前を聞かれた香里は驚きを隠さなかった。


それはそうだろう、二年生になってもう二カ月が過ぎているからだ。武志郎は


正直に一年で同じクラスだった者と男女剣道部の者、それ以外はほとんどの生


徒の名前を知らないことを小声で打ちあけた。まだ教室に残っている者もいた


からである。武志郎はまずクラスメイトの名前を教えてくれと香里に頼んだ。


「そこから!?」香里は呆れたが、なんだか嬉しそうに笑っている。


「なんだよ?」


「だって、武志郎君……私の名前は知ってたじゃないですか」


「え? ああ、まあ、かな?」そういうことにしておこう。これから鵜飼香里


に気持ちよく勉強を教えてもらうために。武志郎が突然やる気を出したのは九


割方、自分のためではなかった。両親、それにともなう親族。笹井、柳川の両


教師。剣道部の先輩たち、仲間たち。孝雄、それにともなうおかしな女子たち。


それから鵜飼香里。自分の成績が少しでも向上することで彼ら、彼女らの心労


やストレスが軽減するのであれば、それもいいのかもしれない。そう考えたの


である。


『他人にわりなし憂ひばかりかけて、むげなるなり、我』


他人に迷惑や心配ばかりかけて、最低なやつだ、俺。授業中、思いを古語に訳


しながら武志郎は心を決めたのであった、一歩、足を踏みだすことを。保田奈


美穂をキッチリ忘れることを。しかし、後者の方はなかなかに難しいかもしれ


ないな、などと考えながら香里が説明してくれるクラスメイトの名前や特徴に、


いちいちうなずく武志郎であった。


 その日は水曜日だったので修学旅行の打ち合わせは翌日からということにな


った。


「じゃ、今日は解散で」武志郎がスクールバッグを手にすると、香里は両手で


バッテンを作った。


「ダメですよ、勉強、今日からしなくちゃ。しょっぱなが肝心なんですから」


「ええー!」


「あれこれ考える前に、まず実行。父親の受け売りですけど……私もそう思い


ます」


「あ、そう」まずダイエットを実行したら?と、失礼なことを思う武志郎。


「私の父さん、死んじゃいましたけど……」


「え? あ……そう」帰りにくい、非常に帰りにくい。肩にかけられず、いき


場を失ったスクールバッグをなんとなくブラブラと振る武志郎。


「すぐ期末もあるし、早く始めたほうが結果も出やすいと思います」


「そりゃ、そうだよね」正論すぎて腹立たしい。


「私も、笹井先生に怒られずにすみます」


「わかった、わかりました。今日からね、はいはい」武志郎は観念した。


 教室は、鬼ごっこを始めた生徒たちがいてそうとうに騒がしくなっていたので、


ふたりは図書室で勉強することにした。進学校らしく蔵書数が充実していて、静


ひつなムードがただよっている。はっきりいって、これまでの武志郎にはほぼ無


縁の空間であった。貸出受付には図書委員の女子生徒がひとり、そして熱心に読


書する者、参考書を広げながら居眠りする者、自習する者、小声と身振り手振り


を交えてなにかしらの資料を検討しているらしき者、いずれにしても武志郎には


なじみのない空気であふれている。香里は慣れているようで、無言で一番奥の窓


際、カウンター席へとすたすた進む。武志郎は下っ腹のあたりがなんだかもよお


してくるような気がした。


「武志郎君、まずは得意科目を教えてください」席に着いた香里は片手を口元に


あてがい、ヒソヒソと話しかけてくる。横並びで腰かけた武志郎は首をひねる。


「ないな」


「好きな教科は?」


「ない」


「苦手な教科は……全部?」


「あたり。さすが」


「…………」香里は頭をかかえ、クククと笑いをこらえる。武志郎もつられて


笑ってしまうが、笑っている場合ではない。香里は気息を整えて武志郎に向き


なおった。


「教える気、なくなった?」見捨てられたら、それまでである。それならそれ


で仕方がないと武志郎は思った。


「じゃ、あえていうなら理数系? 文系? どっちなら成績上がりそうです?」


「ど──」


「どっちも無理はダメです。どっちかを選んでください」


「……文系?」無理やり消去法にあてはめてみればであるが。武志郎らの通う


高校の文理選択、いわゆる文系クラス、理系クラスの類型分けは三年生からと


なっている。なるべく幅広い教義を身につけるべき、というのがいまどき珍し


いがこの学校の教育方針なのである。


「じゃあ、国語と地歴、英語にしぼりますね」


「う、鵜飼さん、国語は現代文に古文、地歴は地理に日本史、世界史だろ? 


その上、英語? そんなに無理でしょ?」


「武志郎君、甘えちゃダメです。この学校の生徒はみーんな、やってます」


「…………」ぐうの音も出ないとはまさにこのことである。


「じゃあですねぇ──」香里はバッグから問題集を数冊取りだし、付箋の貼っ


てあるページを指定、時間を切って今、やるようにと武志郎へ告げた。という


より、頼んだ。


「テストかよ? てか、これ一年生の問題集じゃん?」


「あ、あの、おもしろくないかもしれないけど……笹井先生もいってたから」


「なにを?」


「武志郎君、その、あの……」


「ああ……」武志郎も思い出した。確かに笹井は基礎から始めないとダメかも


といっていた。


「ご、ごめんなさい、本当にバカにしてるんじゃないの、ただ、その……」ま


た香里のモジモジ、シオシオが始まる。


「……この問題集、新品だな。わざわざ買ったの?」


「あ、うん、昨日。武志郎君の実力がわからないと、どうしていいか、私……


ごめんなさい!」思わず、声高になってしまい、あわてて口を押えて周囲を見


る香里。


「…………」いわれてみれば昨年の夏以降、武志郎がろくに勉強していないこと


は事実である。一年生で学ぶことを理解できていない状態で、二年生の学習につ


いていけるとも思えない。その上、この付箋の数……理数系の問題集も香里のバ


ッグには入っているに違いない。やれやれ、と武志郎は頭を振った。


「あ、あの、怒っちゃいました?」香里の瞳はおびえたように震えている。


「やる。やります」怒れるわけないだろが! このもみじ饅頭が!と、内心では


毒を吐いていたが、表情にはなるべく出さぬようつとめる武志郎。いくら内申点


のためとはいえ、ここまでしてもらったら、本来なら礼をいうべきところである。


しかし、男はこれができない。「鵜飼さん、やるから。時間、計っておいて」


「わかりました……ありがとう」香里は嬉しそうに腕時計を見る。「はい、スタ


ート」


 武志郎が問題集に向かうと、香里はノートと参考書を相手に自分の学習を始め


ていた。公約通り、自分の成績も絶対に落とさない。横目に彼女を見た武志郎は、


そんな強い意志を感じた。予備校とか行ってないのかな? そういえば、父親が


亡くなったといっていた……どんな状況だったのだろう? 病気? 事故? あ


まり他人には話したくないことなのかもしれないけれど、武志郎はなんとなく気


になった。


 武志郎が香里から受けたテストの結果はさんざんであったが、彼女の方針は決


まったらしく翌々日までにカリキュラムを組んでみるねといって笑った。翌日の


放課後は修学旅行の行動計画や『旅のしおり』の打ち合わせをしなければならな


い。そっちは俺ががんばるか……さもないと、あまりにも情けないし、カッコ悪


すぎる。午後六時半、校門で香里と別れた武志郎は自転車に飛びのり、そのまま


学校近くの本屋に向かった。そして京都・奈良の観光ガイドブックを二冊購入、


夜遅くまで読みこみ、メモを取り、不明点をスマホで検索した。香里は修学旅行


実行副委員で、武志郎が委員長なのである。


(つづく) 


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