第三章 秋の口吸い 7
7
もちろん大量に食べられるわけもなく、小鳥がついばむような香里の食事
は、ものの十分ほどで終了した。けれど彼女は吐き気をもよおすことはなか
った。武志郎は自身が香里に与えた安心感の影響かもしれないと考え、そし
て、その責任の重さを痛感した。まだ何者でもない、できそこないの高校生
である自分が、ひとりの女性の人生をある意味、左右しかねないという恐怖
に慄かずにはいられなかったのである。
「じゃあ、始めましょうか?」意を決したように香里がいう。「部屋に戻
る?」
「いや、三脚セットしたし、ここでいいだろ。じゃ──」カメラを起動し、
手を差しだす武志郎。
「幽霊キスがいい……あ、あくまでもゴーストの方ね」あたふ
たと目を泳がせている香里。武志郎にも異存はなかった。紗世を呼ぶには
その方が確実である。うなずいた武志郎が香里の肩に手を置くと、彼女は
両目を閉じた。顔をよせ、首をかたむけた武志郎も目を閉じ──。
「出てきてやったぜ」唇が触れる寸前に紗世が現れた。そして痛そうに
右目を押さえる武志郎にこう続けた。「おめぇバカだな。口吸いでわっ
ちを出す気なら、先に肩を抱いてどうすんだ?」
「……なるほど」普通にキスする気になっていたらしい武志郎は、苦笑い
を浮かべる。
「けへへ、根っからの色惚け坊主だぜ」
「うっせ。紗世、いっとくけどな」
「わぁってるよ。姉御を憑き殺すようなまねはしねぇ。安心しやがれ」
「そうか。香里にもそう伝えていいか?」
「おう、心配すんなと伝えてくれ。わっち、金輪際、二度と姉御にゃ
憑かねぇともよ」
「どういうことだ?」
「こうして出てくるのは、これで最後だってんだよ」
「え?」
「……へへへ」
「なに、笑ってんだ?」
「おめぇ、見ただろ? わっちの面」
「あ? ああ。それが?」
「ひでぇ面相だったろ。『鉄火小町』だなんてのは大嘘よ。わっちぁ、
男になんてまったく相手にされねぇ醜女、おかちめんこでよ。実のところ、
『鉄火狐天』の紗世ってのがわっちの通り名よ」
「コテン?」
「狐に天狗の天さ」
「なんだそりゃ?」
「狐みたく細い目で、天狗みてぇに高ぇ鼻。おまけに分厚い唇だ。
わっちぁ、おめぇをたぶらかしてたんだ。わっちの面を知ったら、あんな
に可愛がっちゃくれめぇからよ」
「そんなことあるか、俺は──」だからいつか、キツネそばを嫌がった?
「いいわけはいらねぇ! 昨日はよ、もうどうせ成仏するんだから見られて
もいいやと思ったんだ。斬るとき、どうしたって見るもんな、わっちの顔を
よ」
「ちょっと聞け、紗世!」武志郎はテーブルの天板をバン!と叩いた。
「な、なんでぇ?」
「うまくいえないけどな、顔なんて知らなくても俺は紗世を、お前の心根を
可愛いと思ってるし、騙されたなんて思ってねぇ!」
「う、嘘こくねぇ!」
「嘘じゃねぇ! それからな、お前を見たとき、俺は、その、個性的な美人
だと思ったぞ。今だったらそうだな、女優になれるレベルのべっぴんさんだ
った!」
「う、嘘だ……」
「本当だ! 目は確かに細かったけど、切れ長で色気がハンパねぇと思った。
高くて鼻筋がビシッと通ってるなんてよ、今なら整形してでもほしがる女が
ウジャウジャいるぞ。鼻の下が短いの羨ましいし、厚めの唇? ぽっちゃり
唇がはやってるの知らねえのか? セクシーっていうんだよ! ああいうの
は!」
「せ、せくしぃ? おめぇ、あんな切った張ったの修羅場の中で、
わっちの面なんてちゃんと見てられたのけ? いいかげんなことばっか
抜かすと──」
「見てたんだよ! 見たかったんだ、お前の顔を。成仏して消えちまうと思
ったからさ、絶対、覚えておきたかったんだ」
「がっかりさせたんじゃねぇのか?」
「しねぇよ。紗世、お前、生まれる時代を間違えたな」
「へへ……ブシロー、おめぇは優しいな」
「宗介さんだって紗世に惚れてたんだろ?」
「けへへ……ありゃ、おめぇ、兄いが、その、とんでもねぇチンチクリンだ
ったからよ」
「あ?」
「かわいそうなくらいの醜男でよ、おまけに貧乏侍ときてる。色町でも
モテねぇし、嫁のきてもなかったんだ。そんで、わっぱのころからの妹分、
醜女のわっちに目をつけたって筋書きよ」
「…………」江戸の悲恋物語としては、もの悲しすぎる顛末である。
「まあ、そんなこんなでよ、わっち、おめぇに合わす顔がねぇんだ」
「バカ。だから可愛いっていってんだろ!」
「ありがとよ。けどな、そればっかじゃねぇさ」
「なんだよ?」
「わっちらはよ、芋野郎どもの策謀で虫けらみたく殺されたと恨みごとを
いったよな?」
「ああ」
「そのわっちがよ、姉御やおめぇを三途の川の縁に立たせちまった。昨日
のおめぇ、面なんか黒くなっちまってよ、本当に死んじまいそうだった。
そんでもって姉御は飯も食えねぇ……こんな筋違いな話ねぇやな」
「俺は生きてるし、簡単には死なねぇし! それに香里だってさっき飯、食
えただろ? 見てたんだろ?」
「おう、見てた。哀れな稚児みてぇな食いっぷりだったぜ。わっち、すま
なくて泣けてきたよ」
「だからって二度と出てこないなんて理屈にはならねぇだろ!」
「なんでぇ? わっちが出ねぇ方がいいんじゃねぇのかい? はあん、寂し
いのけ? ブシローよ、わっちに会えねぇと悲しいのけ?」
「…………」ギリリと歯噛みする武志郎。悔しいがいい返せない自分がいる
のだ。
「いつだったか、おめぇ聞いたよな? なんでわっちが香里の姉御にだけ取
り憑けたのかとよ」
「ああ、そうだったな」
「姉御はさ、おめぇにとっちゃひときわ飛び抜けた女だからよ。わっちぁ、
そう思う」
「飛び抜けた?」
「そうだろ? 学問所じゃ落ちこぼれ、武道からは逃げだした。それから昔
の女への未練たらたらでメソメソメソメソしてやがった。呆れ果てたそんな
おめぇを見捨てずに惚れつづけてくれたのは姉御ひとりだけなんじゃねぇの
かい?」
「ひどいいわれようだな」あらましその通りではあるが。
「おめぇの中にいたわっちだから、おめぇよりよくわかったよ。この女は
ほかの女と違う、ブシローにとっちゃあ、どえらく値打ちある女に化けるっ
てな。まぁ、初っ端の姉御はいただけなかったがな。グズグズグズグズ
してやがってよ。わっち、イライラしたぜ。おめぇもだろ?」
「俺を巻き込むな」
「それに、あれにゃあ腹が立った」
「あれって?」
「口吸い、初め姉御が誘ったよな? 姉御の持つ女の本性、いやらしい搦
め手みてぇのが透けて見えるのが実に鼻持ちならなかった。その女の罠
にあっさり乗っかるおめぇもおめぇだがよ。てめぇ、あんときゃ、惚れて
もねぇのに──」
「わかった。それ以上いうな。紗世、あのとき、それで出てきたのか?」
「おめぇらふたりにムカっ腹が立ったんだよ。だがな、わっちのにらんだ
通りだった。姉御、おめぇと逢瀬を重ねるうちにずんずんずんずん、
いい女に化けやがったよな。怖ぇぐらいによ」
「そうかもな……」
「へへ、わっち、おめぇを取られると思っちまったんよ。姉御が化けきる
前に遠ざけたくなっちまったんだ。混じりっけなしのいい女すぎたか
らよ。おめぇに憑いてから初めてだったぜ、あんなにドギマギしたのは」
「だけど、紗世、前は俺のことせんずりこきってバカにしてたんだろ?」
「へ! 三年も一緒にいりゃあ情もうつらぁ! おめぇもよ、わっちの
ころなら、わりかし色男だしな」
「…………」そういえば小学生のころのあだ名は「お侍さん」または
「軍人」だった。ようは昔風の顔ということらしい。おばあちゃんには
モテそうである。武志郎こそ生まれる時代を間違えたようだ。
「取り憑いて呪ってやりてぇって思ったのも姉御が初物だったよ」
「ずいぶんと幽霊っぽいな」
「だろう? わっちもたまにゃあ幽霊らしくしねぇとよ。そのわっちに縮
み上がっておめぇのそばから離れると踏んでいたんだが……強かったな、
姉御」
「だから香里に憑依したのか? てことは紗世、ほかにもそんないい女
が現れたら、誰にでも取り憑けるってこと?」
「おめぇの度量じゃ、そうそう現れねぇよ。姉御が変わり者なんでぇ」
「あ、そう」香里が江戸好きの歴女でよかった、武志郎は心からそう思っ
た。
「だがよ、わっちのことじゃ何度もあきらめかけたおめぇの尻を叩いて
くれたのは、いつも姉御だった、自分も苦しいってのによ。おかげで彦五
郎坊ちゃんが生きていること、確かめられたんだ。おめぇらふたりのつな
がりにゃあ、度肝を抜かしたぜ」
「紗世、結局、なにがいいたいんだ?」
「おめぇのことは姉御にまかせたって話だよ。坊ちゃんが死んだと勘違い
するようなまぬけな死人に出る幕はねぇと思い知ったのさ。やっぱ、
生身の女にゃかなわねぇ。もう……おめぇらに面倒かけられねぇよ」
「成仏をあきらめるのか?」
「嘘ばっかこいてたがよ、坊ちゃんが思い残しだと思ってたのは本当だ。
こればっかりはどうにもなんねぇよ」
「少しは考えろ! さんざん振り回しておいて、あきらめよすぎだろが!」
「そんなにわっちを消してぇのけ! ブシロー、そんなにわっちが嫌いな
のか!?」
「お前、いってることメチャクチャだぞ」
「おうよ。端から滅茶苦茶な女なんでぇ、わっちは!」
「まあな……」異論をはさむ余地はない。
「だからよ、こんな女、早いとこ忘れてくれって話よ」
「お前はどうなるんだ?」
「まあ、おめぇの中に棲んで、幽霊は幽霊らしく、じっと息をひそめて
るよ。もう二度とおめぇらのじゃまはしねぇ。そんで鬼子母神みたく、
おめぇがジジイになるまで守ってやる。せめてものわっちの恩返しだ……
よくしてくれたおめぇへのよ」
「鬼子母神……」それがどんな神なのかは知らないが、いいのか、この結
末で? 香里だって納得するかどうか? 武志郎の心は激しく揺らいでい
た。この夏の俺の目標は宿題を終わらせることと、紗世の成仏じゃなかっ
たのか?
「わっち、おめぇの中にいたら秋にゃあ修学旅行とやらで京都、奈良、行
けるんだろ? 楽しみだなぁ」嬉しそうに目を細める紗世。
「え?」
「奉公人のわっちぁ江戸から出たことねぇつったろ? おめぇは長生きし
て、いろんなとこ連れてってもらわねぇとな。メリケンとかよ!」
「紗世……」
「ただし、おめぇが人の道に外れるようなことがあれば、わっち、黙って
ねぇからな! 覚悟しやがれ! いいな! いいな、大好きなブシロー!」
「大好きな……昨日は愛してるとか抜かしたよな? 似合わねぇぞ、江戸
時代のくせしやがって!」憎まれ口でも叩かないと、泣けてきそうになる
のだ。
「うっせぇ! 当世風にいいてぇんだよ! いわせやがれ、この
唐変木!」ガタン! 大きな音とともにイスを引いた紗世が猛然と
立ち上がった。なぐりにくる! 武志郎は直感した。
「お前、また!」カメラを据えた三脚を守るように身がまえる武志郎。
「けへへ、嘘だよ。惚れた男にゃ手を上げねぇよ」
「昨日は上げたじゃねぇか」
「じゃれただけだろ、なぁブシロー」
「──俺は、お前を助けたいんだ」
「もう助けてもらったよ」紗世は胸のあたりをポンポンと叩いた。「おか
げでよ、死人なのにここんとこがぬくぬくしたぜ」
「紗世……」──本当に二度と現れない気なのか?
「ブシロー、このお屋敷、庭、あったよな?」
「あ?」
「庭に出ていいか? 外に出て頭冷やそうや」
「いいけど……外の方が暑いぞ」
「望むところよ!」
猫の額ほどの小さな庭。しかし母、篤子が丹精して育てている草花
や梅の木が生息している庭へ、武志郎は紗世を案内した。片隅にはフレーム
が歪んだままの自転車が置かれている。遠くには息切れ、もしくは断末魔の
悲鳴ともとれる蝉の声が聞こえていた。
「こりゃ、紫陽花かな?」背を向け、腰をかがめた紗世が、緑色の葉ば
かりの低木を愛おしそうになでている。
「すっかり花が散ったな。少し前までは残ってたのに」三脚を据えながら武
志郎が応える。助けられないにしても、せめて最後の紗世の姿を記録してお
きたかった。この可愛い女の動きを、喋る姿を。
「もう夏も終わりだなぁ……」紗世は仰向けに転がっていたアブラ蝉の死骸
を、そっと土の中に埋めてやる。
「メッチャ早かったな……」
「本当によ。わっちらのころの暦じゃあ、今はまだ七月、夏なのによ」
「そうか、そうだったな」
「おう。──けどよ、この夏は熱かったよな! わっちら本当に熱かったよ
な!」武志郎に背を向けてしゃがみ込んだままだった紗世は、涙をあふれさ
せながら振り向いた。武志郎は膝を折り、彼女を全身で包みこむようにして
抱きしめた。
「ああ、熱かった。こんな夏は二度とない。なぁ、紗世……」
彼女の温もりを五体すべてで感じながら目を閉じた武志郎の中で、さまざ
まな熱かった記憶が陽炎のように浮かんでは、この夏のように消えていく。
決して満足のいく結果とはいえない。しかし後悔はない、そう思いたかった。
思いこみたくてさらに強く紗世を抱き──。とう突に体重をかけられ、コロ
ンと腹を見せた蛙のように倒れてしまう武志郎。
「なんだ、紗世?」目を見開く武志郎! 彼の上に馬乗りになった紗世が唇
を重ねてきた。武志郎は抗うことができず、そのままそのやわらかく甘い蜜
の罠に身をゆだね、再びゆっくりと目を閉じた。
「けへへ」目を開くと、スカートについた泥を払う紗世が照れくさそうに笑
っていた。
「…………」
「可愛かったぜ、ブシロー。男の子の顔だった」
「やめろよ、恥ずかしいな」
「初めての口吸い、これってゴーストキスっていうんだろ?」
「それは……」ファーストキスだが、どうでもいい気がした。
「悪かったな、ブシロー。けど最後なんだ、許せよな」
「ああ、まあ」武志郎的には悪くない。
「へへ、姉御にも、そう伝えてくれ。昨日、姉御がよ、わっちより先に告っ
たとかなんとか騒いでやがったろ? これであいこだな!」
「あいこか?」つり合いが取れていない。
「わっちぁ、これできれいさっぱり……あ? おお?」紗世の体が大きく
左右に揺らいだ。そして膝が、腿が、ガクガクと震えている。
「紗世! どうした!?」立ち上がった武志郎は、今にも倒れそうな彼女を
支えようとするが、紗世は両手で彼を制した。「紗世?」
「へ、へへへ、そうかい? そうなのかい……」
「な、なんだよ紗世!」
「わっちの思い残しはこれだったんか……死んでもいいくらい惚れた男と
……ありゃ、なんだか気持ちよくなってきやがった……成仏ってのもなんだ
か悪くねぇみてぇだぜぇ、ブシロー……」
「さ、紗世、紗世! ちょっと待て!」武志郎は必死で紗世を抱きとめた。
「わっちこそ恥ずかしいな。情けねぇ、色惚け坊主はわっちの方
だっ……」
「紗世、待て、逝くな!」
武志郎は信じられない物を見た。青白い光を放つ球体、いわゆる人魂が、
硬直する香里の頭頂部から鎌首をもたげた白蛇のごとくぬるりと抜けだし
ていくさまを。それが抜けきると香里は膝からくずれ落ちかけたが、武志郎
がしっかりと受けとめた。そして糸を引く光となった紗世は、突きぬけるよ
うな空の青ととけ合い、混じり、やがて消えていった。言葉もない武志郎の
頭の中に彼女の最期の言葉が響いてきた。
『姉御と仲よくな。……愛してるぜ、わっちのブシロー』
昨日の入道雲とはうって変って、のほほんとした白い綿雲が浮かぶ、はる
か上空を見上げた武志郎も泣きながら叫んでいた。
「愛してるぜ、俺だって! 熱い夏をありがとな! 絶対、忘れねぇ
……紗世!」
庭先で女を腕に抱き、大空へ向かってなにやらわめきたてている男の姿に驚き、
通りすがりの老夫婦は目と目を合わせて逃げるようにそそくさと去っていった。
残暑の熱にやられたあぶない男だと思われたに違いない。
(つづく)