第三章 秋の口吸い 5
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「頼りない男でごめんなさい」本日、二度目となった洗顔を終えて応接間に
戻ってきた香里の前で、武志郎は土下座した。ほかに謝罪の方法が見当たら
なかったのである。
「なにがあったの? 武志郎君」目の周りが腫れたように赤くなっている
香里はソファーに腰を下した。「そんなの、もういいから」
「うん……」顔を上げた武志郎は床に座りなおし、あぐらをかいて香里の瞳
をまっすぐに見た。「なにから話せばいいのかな……」
武志郎の話を黙って聞いていた香里は、最後までとり乱すことはなかった。
思いきり泣いたあとだったので心に負荷をかけていたストレスが少しだけ
解消されたせいかもしれない。それでも、彦五郎を救ったのに紗世が消えな
かったという話にはそうとうの衝撃を受けたようで、軽くめまいを起こし、
危うくソファーからくずれ落ちそうになった。
「詐欺みたいな話ね。この夏を返せ!って感じ」
「ああ。だが紗世本人も理由がわからないようだった」
「なにかほかに地縛霊になったわけでもあるのかしら?」
「それを俺らに隠してるってこと?」
「武志郎君と離れたくないだけじゃない?」
「それはない。俺に惚れたのは最近みたいだから」
「うん?」香里はぐぐっと武志郎に顔をよせた。
「な、なに?」
「好きだって告られたの? 紗世から」
「あ? ああ、まあ……」とぼける武志郎。
「武志郎君て、そういうところあるよね。お母さんを助けたのも紗世と一緒
だったっていわなかったし」
「あれは悪かった。けど、紗世が告ったとかなんとかはこのさい、どうでも
いい話だろ?」
「ふーん」香里の視線は限りなく冷たい。「私、もう降りちゃおうかな!」
「降りるって?」
「この件から手を引くってこと。武志郎君が私に触れなければ紗世は出てこ
ないんだし。そうなったら、武志郎君が死ぬまで童貞でも私には関係なくな
るもん。でしょ?」
「…………」確かに香里がストレスフリーになるには、それが一番てっとり
早い。
「なにかいってよ」
「いや、それもアリかと──」
「ねーよ! そんな結論だすんなら、夏休み早々に決着してたでしょ!」
「はい」
「だいたい告ったのは私の方が先なんだからね! わかってる? 武志郎君、
紗世も!」
「うん」だからどうしたという話ではあるが。
「ああムカつく! 降りられるくらいなら、とっくにそうしてたわよ!
白馬の若殿様は剥奪! 今日からは落馬の若殿様に格下げ!」
「おう……」ほとんどわけがわからなくなってきた。
「ったく! せっかくあとで褒めてあげようと思ってたのに!
やめた!」
「褒めてくれるつもりだったの?」
「そうよ!」香里はいったん言葉を切り、そして吐きすてるようにいった。
「武志郎君のがんばり、私以外に褒めてあげる人、どこにもいないでしょうが!?」
「俺のがんばり?」
「がんばったじゃない! 彦五郎君を助けたじゃない! 山賀乙様に勝った
じゃない! これ、すごいことだと思う。私にはとてもできないことをした
んだからね、武志郎君は」
「下げたり、上げたり忙しいな」照れくさそうに笑う武志郎。「山賀乙に勝
てたのは、たまたま偶然だし」
「私、違うと思うな」
「偶然だろ? 次があったら絶対、無理」
「一年のとき、剣道部の試合とか稽古を見にいってたって話したでしょ?」
「ああ」
「あのとき、私、思ったの」
「なにを?」
「武志郎君て、勝負勘は鋭いのに、その……」口ごもる香里。
「運動神経が鈍いっていうんだろ? よくわかるな」
「ずっと見てたもん」
「そりゃ……どうも。それで?」
「武志郎君が取り憑いた薩摩浪士、彦四郎さんと奥さんをほぼ一撃で斬り殺
してるのよね? その……紗世も」
「ああ」思い出したくもないが。
「彼、きっとものすごく運動神経の優れた侍だったんだと思う」
「あ、なるほど! だからあんなに動けたのか!」
「勝負勘の鋭い武志郎君が、運動神経抜群の侍に取り憑いたんだもん。これ
って最強じゃない?」
「山賀乙には何度も斬られたけど」
「それは武志郎君に自信と覚悟が足りなかったせい、だと思うな」
「……そうかもしれない」さり気なく手厳しい意見である。間違ってはいな
いけれど。
「まあ私としては、彦五郎君は死んでないっていった私を信じて戦ってくれ
たことが一番嬉しいんだけど」
「信じるさ、そりゃ」香里を信じていなければ、火の中へなど飛び込める
わけがない。
「ありがと。ね? だから紗世が成仏しなかった今度のことも、ふたりで力
を合わせればいいの。私が降りるとかいったら止めるの。そうしてよ!」
「わかった」まだ見捨てられていなかったことに胸をなで下ろす武志郎。
しかし、今回ばかりはお手上げなのではないだろうか? 具体的にできそう
なことがまるで見えていないのだから。
「紗世は私を殺したくないっていったのよね?」
「正確には殺させないでくれだ。自分が怖いともいっていた」
「じゃあ、やっぱり危ないか……」
「また紗世を出すつもりなのか?」
「紗世と話をする以外、成仏させる方法を見つけるのは難しいと思う」
「ゼロスタートかよ……筆談でもいいんじゃね?」
「たとえば嘘を見抜くとか、微妙な感情の機微を読みとるとか、筆談
じゃ無理」
「けど、俺、女心はわからんから」
「知ってる。だから録画してよ。私が見るから」
「あ、そう。だけど香里、大丈夫なのか? 飯もろくに食えてないっての
に」
「私のことが心配?」
「当り前だろ!?」
「だったら──自信と覚悟を持って私を守ってください」
「え?」
「私は本気を出した武志郎君を信じるから」
「…………」
「守ってくれる?」
「守る……なにがあっても」
「信じた」香里はそういうと武志郎の胸に身をあずけた。武志郎は黙って
彼女を抱きしめる。紗世を抱きしめたときと同じリンスの香りがしたが、
これも香里には内緒にしておこうと武志郎は思った。そしてあらためて香里
を守りぬき、迷える紗世を救う決意を、今度こそ固めたのである。
そのまま初キスをしてもおかしくはない流れであったし、香里が
そうしたしぐさを示していたことにも気がついてはいたが、万が一を考える
と自重せざるをえなかった。もし一日に二度も紗世が憑いたら、ただでさえ
衰弱している香里の命にかかわりかねない。武志郎は必ず守ると約束したの
だ。その場の流れにまかせて彼女を危険にさらすわけには絶対にいかない。
翌日、夏休み最終日の八月三十一日にもふたりで会うことを決め、その日は
まだ陽が高いうちに香里の家を退散することにした。
一歩、外に出るなり生温い風が吹きつけてきた。クーラーのきいた
室内にいたせいか、逆に心地よく感じる。残暑はまだまだ続いていくだろう
が、一時期の鞭打つような熱波は影をひそめ、これまで盛大にあふれ返って
いた蝉しぐれまでが心なしか弱々しく聞こえる。足を止めた武志郎は、背の
低い住宅ばかりで視界の開けた青空にモクモクとわき立つ、季節の忘れ物の
ような入道雲を見上げた。そして、夕立がくるかもしれないと思いつつ
つぶやいていた。
「夏も、もう終わりか……」
(つづく)