第二章 夏の亡者 15
15
翌日は久々に天候が悪く、今にも降りだしそうな重苦しい鉛色の雲が空を
おおっていた。心なしか蝉の声も弱々しく、八月にしては肌寒く感じるそん
な午前十時ごろ。国定公園入口付近で不安げに曇天を見上げている武志郎は、
昨晩に引き続きループ、因果について考えていた。謎解きを香里だけに
まかせるのはカッコ悪いと思っていたのである。そのあたりは保田奈美穂に
勝てるものがなにもないと、うつうつとしていた中学時代から少しも成長し
ていないようだ。ということに彼は気がついた。くだらない意地や見栄をは
りたがる自分に嫌気がさしてきた。今、目にしている曇り空のような自分に。
「小せぇな俺。マジ、カッコ悪い……」そんなことを考えていると、昨日と
同じくリュックを背負った香里が小さく手を振りながら走ってきた。
「おはよう、武志郎君」
「おはよう」
「今日、涼しくてよかったね!」
「ポジティブだなぁ。てか、降りそうなんだけど」
「ネガティブ思考になってたら、つぶれそうなんだもん」香里はさらりとい
ったが、その通りなのだろう。武志郎はまた反省をせざるをえなくなった。
「なるほど、確かによかった。こんな日はここにくる客、少ないだろうから
俺らの貸し切りかもな」ポジティブシンキングだ! 彼は無理にでも自身に
暗示をかける。俺が暗い顔なんかしていたら、香里に申し訳がたたない。
券売機で入園券を二枚買い、一枚を香里に渡そうとすると彼女はあわてて手
を引っこめた。
「ゴメン! まだ、心の準備が」
「そうだね」指先が少し触れただけでも紗世が出てくるかもしれないのだ。
武志郎は券売機前に小さくつき出た手荷物置きの台にチケットを置いた。
うなずいて手に取る香里。ふたりはつかず離れず、微妙な距離感を意識しつ
つ入園ゲートの自動改札機に券を通した。
国定公園に指定されているだけあって園内は、こんもりと繁る樹々の緑と
芝の緑であふれている。武志郎は歩きながら自分の目や肌までが緑色に染ま
っていくような気がした。晴れた日であればさぞ気持ちのいい自然空間で、
親子連れやカップルが大勢、足を運んでいたことであろうが、この日の客は
まばらで、本当に貸し切りのようなお得感があった。ふたりは大きな池にか
かる橋を渡り、その近くにあった木製の丸柱四本に支えられる三角屋根のつ
いたL字型ベンチにそれぞれ腰を下した。安易に接触するわけにはいかない
彼らにとって、ベンチの形状はまさにうってつけである。L字の短辺に武志
郎、長辺に香里が座り、向きあうこととなった。
「雨が降ってもしのげるな。いい小屋があってよかった」武志郎が明るくい
うと、香里はやわらかく笑う。
「小屋じゃなくて東屋っていうのよ。どこかの日本庭園にあるのを模
してるみたい」
「へぇー」香里の博識には毎度、おそれいる。しかし実は武志郎が無知なだ
けである。
「さっそく本題に入りますか? 武志郎君」香里はリュックからA4のクリ
アファイルを出してベンチに置いた。中には数枚のレポート用紙がはさまれ
ている。
「うん、頼む」
「まず、これを見て。ここまでの経緯を書いてきたの、武志郎君のまねをし
て」
「あ、そう」花を持たせてくれなくてもいいのに、と武志郎は思う。以前、
自分が書いた稚拙なメモ書きを思い出すとかえって恥ずかしくなってしま
う。
「年号はあまり関係ないから省いた。内容だけを見て」
1 約一五〇年前。幕末、三田で江戸薩摩藩邸焼き討ち事件が起きる。薩摩
浪士数名、品川沖に停泊中の翔凰丸を目ざして逃亡。その際、
追っ手の目をくらますために放火や殺人を行った。
2 薩摩浪士一名、タバコ屋『大鹿庵』に押し入り、放火。
3 薩摩浪士、『大鹿庵』主人、彦四郎、結衣夫妻を斬殺。
4 彦五郎が死ぬ(斬殺OR焼死、どちらかは現在、不確定)
5 紗世が死ぬ(斬殺OR焼死、どちらかは現在、不確定)
■
6 三年前、同所で不発弾が爆発。紗世の自縛霊が武志郎君に取り憑く。
同日、紗世の助力で武志郎君、私の母を救う。
7 今年六月、トラックに轢かれかけた武志郎君を紗世が救う。
8 七月、武志郎君が私にキスをしようとしたさいに、これまでひそんで
いた紗世が私に憑依、初めて表に現れる(なぜ私なのか? 不明)
9 同月、武志郎君が私に触れることで、紗世が出てくることが判明。出る
出ないは紗世の意志決定にのみ委ねられる(理論、不明)。
10 同月、紗世が武志郎君を江戸に跳ばせることが判明。跳ばす、跳ばさな
いは紗世の意志決定にのみ委ねられる(理論、不明)
11 同月、地縛霊の紗世が成仏するためには江戸に跳んだ武志郎君が彦五郎
君を死なせないことだと判明。
12 同月、江戸に跳ばされたさいに時間差が生じることが判明。
13 八月、時間差が生じることで彦五郎君、紗世の死に方が変化。この事
象に関わるビデオ音声、書きとめたメモ書き、記憶も曖昧なものに変
化。
14 同月、検討の結果、武志郎君が紗世になった私に触れている時間が長
いほど江戸到着の時刻を遡れると判明(理論、不明)
15 同月、しかし、怨念が残留する紗世の死に近い一定時間以上は遡れな
いようだ(紗世の意見)
「時系列順にならべただけなんだけど」香里がいった。「こんな感じだと思
うの、あってる?」
「うん、そうだね。でもこうしてみると理論不明が多いな」
「そうなの。でも、今の私たちに理論は関係ないと思う。問題は起こってい
る事象に対してどう対処するかだと思う」
「オカルト専門家じゃねぇもんな、俺ら」
「──武志郎君さ、時間軸が枝分かれするパラレルワールドとか、タイムパ
ラドックスって実際、あると思う? そんなSF的な設定、ありえると思う?」
「さあ……でも、13番にある通り、過去は揺らいでるし」
「私たちはさ、子供のころからテレビや映画でいろんなのを見てきてるから、
ひょっとしたらって思うけど、江戸時代の紗世は絶対にそんなもの信じない
し、理解もできないと思うの」
「だろうな」頭がいいから正直、この先はどうなるかわからないけれど。
「だから紗世はストレートにしかこの問題をとらえない。彦五郎君はあのと
き死んだけど、過去に跳んだ武志郎君が助けられるのは当然のことだって」
「……まあ、そうはいってたけど」
「紗世には時間の分岐なんて理屈、ありえないのよ。それで、これを見て」
香里はクリアファイルから次のレポート用紙を取りだす。「ササッと描いた
からヘタなのは許してね」
「因果の車輪? 紗世がいってたやつか」ヘタなんてとんでもない、武志郎
にこの発想はなかった。
「彦五郎君が死ぬのはおかしいって紗世がいってるのって、因果応報
って意味じゃないのよ、きっと。あくまで推測なんだけどね」
「なるほど輪、円か。だから香里、ループにこだわってたんだ?」
「なんとなくだったんだけど。彦五郎君が死んだら無間ループになるなって
思ったの」
「それで助かれば成仏で、俺に感謝か……でも、この図だと彦五郎を助ける
ところで円が歪んでるよね? やっぱ、救出は不自然てことなんじゃね?
それに本当はこうなると思うし」武志郎は香里からボールペンを借りて、
レポート用紙に書き込みを入れる。
「そうなのよね。確かにそうなんだけど」
「俺ら、歴史が変わるのを怖がってたわけだし。因果の車輪からは外れるし」
「私たちはそう考える。だけど、さっきいったでしょ? 紗世には過去が分
岐するなんて発想はないって」
「そっか、これはあくまでも紗世の思考ってことなんだな」
「と、私も考えたのよ。それでこれを描いたんだけど……」
「違うの?」
「前に紗世、彦五郎君が助からないと道理が立たないっていってた。昨日は
筋が通らないとも。これに私、引っかかったのよ。まるで武志郎君が彦五
郎君を助けるのが必然みたいないい方でしょ?」
「あいつ強引だからな。単なるムチャブリじゃね?」
「かもしれない。けど、武志郎君が彦五郎君を救出するのが必然だって可能
性も考えてみるべきだと思ったのよ。昨日、電話で話さなかったのはここで
つまずいてたからなの」
「それで、なんかわかった?」
「わかったっていうか……この図を見て」香里は次の紙を出して見せた。
「彦五郎が死んだと勘違い!? はぁ? ありえないでしょ!」
「どうして?」
「勘違いで地縛霊になんてならんでしょ? まぬけにもほどがあるって!」
「死ぬ間際に思い込んでしまったら? なるかもしれない」
「じゃ、なに? 彦五郎は生きていたってこと?」
「可能性はゼロじゃない」
「そんな──」
「武志郎君、覚えてる? 私も最近は曖昧なんだけど、確か紗世を斬ったこ
とはあるのよね?」
「ああ、確か、うん、斬ったと思う」紗世が焼死するようになってから、定
かではない記憶となったが、女の悲鳴と肉や骨を断った感触だけは確実に掌
に残っている。
「彦五郎君はどうなの? 斬ったの?」
「いや、どうだったかな? そうだ! 初めのころはいつも紗世を殺すとこ
ろから始まってたような気がする!」
「てことは、先に彦五郎君は死んでたはずよね? でないと紗世が地縛霊に
なる理由がないから」
「だね」
「彦五郎君は本当に死んでたの? 確認した?」
「してない、たぶん。そんな余裕なかっただろうし」男の子が転がっていた
のは見た気がする。しかし、生死を確かめたかどうか、それは思い出せない。
「それから少し前の時間へ跳べるようになってから、紗世が焼け死ぬのは見
たのよね? でも、彦五郎君が死ぬのはどう? 見たの、武志郎君」
「いや、でも燃えてる竹籠の下敷きだぜ」
「きざむ前のタバコの葉っぱが入った行李でしょ? そんな軽い物の下敷
きになったくらいで動けなくなるかな? いくら九歳の子供、あ、数え年だ
から八歳か、そんな子供だったとしても」
「……そうだよな。必死で逃げようとするよな、普通」
「大やけどはおったかもしれない、けど死んだとは限らない。だって武志郎
君は結局、死体を見てないんだから」
「可能性はあるな。でも、だったら俺、助けにいく意味なくね?」
「それが、また違うのよ。これが本当の因果は車の輪の如し。紗世のいい
たかったことなんだと思う」
「ゴメン、全然わからない」だと思う、といいながらも確信に満ちた表情を
している香里を見て、武志郎はひれ伏し、土下座したい気持ちであった。
「つまり、うーん、何度か挑戦して彦五郎君を助けることができるのは、
ほぼ確実になった。ということは、武志郎君によるこの救出成功はすでに
決定事項だったことになる。因果の車輪は初めから彦五郎君を生かす方向へ
と回っていたに違いない。紗世はきっとこう考えたんだと思う、いつの世で
も天が定めた時の理に変更や分岐はありえないって」
「断り? 天が時間の変更や分岐を断るの?」
「意味としては近いけど──」香里は吹きだした。「理は筋道とか法則
ってことよ」
「ははあ……じゃなに? 俺が彦五郎を助けにいくことが一五〇年前から決
まってたってこと? それこそありえないでしょ」
「紗世の考えをたどりながら思ったの。私たちなんかがいくらちょっかい出
したところで歴史を変えるなんてこと、起こせるわけがないんじゃないかっ
て。おこがましいにもほどがあると思わない?」
「そりゃ思うけど。記憶が曖昧になったり、メモや録画の音声が変わったこ
とは? これって立派な歴史改変じゃないか」
「うん。だけどそれって紗世には悪いけど、取るに足らないことなんだと思
う。『大鹿庵』で紗世は死ぬ。ここさえ変わらなければ死に方なんて、時の
流れにはなんの影響もおよぼさないでしょ? 私たちふたりの中だけで完結
する問題よ」
「えらくドライだな……」理論は尊敬に値するし、納得もできる内容だけ
れど。
「バカいわないで! こっちは命懸けなんだから!」
「あ……」講義をする科学者のような堂々たる態度を示す香里に目がくらん
でしまったようだ。あまりにも心ない、軽薄さを絵に描いたような発言をし
てしまった。「ゴメン、香里!」
「いいけどさ。私のことなんてどうでもいいんでしょ?」香里はそっぽを向
いて曇り空へと目を向ける。そのとき夏の午前中としては珍しく、遠くで
雷鳴が聞こえた。どんなタイミングだよ? 武志郎はどうやら天の怒りまで
買ってしまったらしい。
「香里、悪かった。本当に悪かった! 昼飯おごるから許してくれよ」
「嫌だ、いらない」
「香里ぃ」せめて肩にでも手をかけたいが、うかつに触れるわけにもいかず、
右往左往するしかない武志郎。
「……お弁当作ってきたから」唇をとがらせながら香里がいった。
「え?」
「あとで食べようね」はにかんだ表情でリュックをポンポンと叩く香里。
「うん、はい──あ?」天井を見上げる武志郎。ポツリポツリと東屋の屋根
を細かく打ちつける音が聞こえてくる。ついに雨が降りだした。しかし夕立
のような豪雨ではなく、霧雨なのが救いであった。
「これで完全に人払いができるわね。紗世を出すためにあつらえたみたい」
「出すのか?」
「武志郎君、私に触れることもできないでしょ? こんな状態、早く抜け出
したいの」
「あのさ……」
「なに?」
「もしも、もしもだよ、香里の考えを否定するわけじゃないんだよ」
「なんなの?」
「彦五郎を救って、大変なことが、もし起こったら……」
「彦五郎君ひとりくらい助けたって歴史に影響ないって昨日、いってたくせ
に」
「香里だって昨日は反対……いや、なんでもない」たったひと晩で、これだ
けのことを必死に考えてきてくれた人に、なにもしていない武志郎が文句を
いえるわけがない。
「──ねぇ武志郎君。こんな話、耳タコだろうけど、人間の意志と選択で
未来はあるていど、変えていけると私は思うの。私自身がその証」
「証?」
「嘘をついてでも白馬の若殿様と一緒にいたいって強い意志をもっていたか
ら、私は今、ここにいる、そう思ってるの。そりゃ、りっちゃんたちや紗世
がからんできた影響もかなり大きいけど」
「なるほど……」白馬の若殿様、久々に聞くフレーズである。そして武志郎
は微妙に複雑な気分になった。まるで香里の掌で踊らされているようで。
「だけど、確定した過去を変えられるとは思えない。神じゃないんだから、
できるわけがない。彦五郎君が助かるのが時の理なら必ず救出できる。
それが逆なら何度やっても絶対に死ぬ。それだけのことよ。難しく考えちゃ
ダメだと思う」
「救出失敗が天の理なら?」
「武志郎君、一生ど、独身決定」香里は童貞といいかけたに違いない。「だか
ら、今は成功だけを考えて」
「香里が、紗世に取り憑かれて死ぬかも問題は?」これが最重要課題ともいえ
る。
「救出成功なら消えてくれるでしょ? お願いだから成功して!」いつかの紗
世と同じ、すがるような目で武志郎を見つめる香里。同一人物なので当然であ
るが、デジャブのようであった。武志郎は紗世から初めて彦五郎を助けてくれ
と懇願されたとき、返事をかえすことができなかった。しかし今や彦五郎救出
は香里と紗世、ふたりの女子、共通の願いとなったのである。歴史改変、香里
死亡のリスクはまだ払拭しきれないが、男子としてはこう答えざるおえない
だろう。
「わかった。やってみる」
「お願いします」そういって笑ってみせる香里。しかし、本当は心細いに違い
ない。「あ、そうだ! いい忘れてた。彦五郎君が死んでないことの証拠、も
うひとつあるの」香里は時系列を箇条書きにした一枚目のレポート用紙の13
番を指さした。
13 八月、時間差が生じることで彦五郎君、紗世の死に方が変化。この事象
に関わるビデオ音声、書きとめたメモ書き、記憶も曖昧なものに変化。
「これがなに? 取るに足らないんだろ?」
「この、死に方が変化したころからなのよ、紗世の態度が妙にしおらしくなっ
てきたのって」
「そうだっけ?」
「そうよ。それにこのあとなの、紗世が因果の車輪ていいだしたのも」
「それが?」
「つまり、紗世自身がこのあたりで気づいてたってことよ。自分が勘違いで地
縛霊になったって」
「……あ、そうか! でないと、紗世から車輪の理屈は出てこない!」
「そうなの。わかってたけど、そんなの恥ずかしくてとてもいえなかったのよ。
だから因果の車輪については抽象的な表現でお茶をにごしてたんだと思う」
「それがカッコ悪いから、少ししおらしくなったと?」
「おそらく。江戸っ子は粋で見栄っぱりが身上だから」
「しょーもな」紗世の野郎、可愛いじゃねぇの!
「ね、武志郎君、当時、現場にいた紗世のお墨つきがあるのよ。安心して彦五
郎君を助けてきて!」
「おう、わかった。腹くくって行くよ。今度こそやってやる!」香里と紗世は
道筋を構築してくれた。武志郎の役割は与えられたミッションをコンプリート
することにある。
「どのタイミングに跳ぶの?」
「やっぱり彦四郎さん夫婦を斬るところだろうな、斬りたくないけど」
「そうね、山賀乙様が出てくるとややこしくなりそう」
「行李は倒さない、落ちてくる梁はよける、転ばない」
「イメージは完璧?」
「うん。ただなぁ……」武志郎には致命的な弱点がある。
「どうしたの?」いつものビデオカメラを出しながら香里がたずねる。
「いや、なんでもない」イメージはできても、運動神経が伴わないのである。
これさえなければとっくに彦五郎を助けられていたのかもしれない。
「大丈夫?」
「もちろん大丈夫!」香里は命懸けで紗世を出す決意を固めているのだ。不安
になどさせてはならない! 運動神経は気力でおぎなう! 「香里、いいか?」
武志郎は右手を彼女に差しだした。
「待ってる」香里は彼の手をギュッと握った。
雨が少し激しくなってきた。気まぐれにそよぐ風が、屋根があるだけで拭き
っさらしの東屋のふたりに、弱いシャワーのような雨粒をときおり降りそそい
でいた。武志郎の右目に痛みは走らなかった。
「どうしたんだ?」武志郎はあらためて香里の手を両手でつつむ。しかし、
紗世は現れない。
「しまった!」香里が突然、叫び、左手で自分の額を叩いた。かなり痛そうな
音が響く。
「なに、香里?」
「やっちゃったぁ!」
「どうしたの?」
「さっきの話、聞いてたら紗世、カッコ悪くて出てこられないじゃない!」
「ありうる……」
「どうしよう」
「紗世、出てこいよ! 彦五郎、助けにいくぞ!」紗世に向けて声をかける武
志郎。しかし返事はなく、彼の言葉は厚く垂れこめた灰色の雲が浮かぶ虚空へ
と消えていくばかりであった。「参ったな、せっかくやる気になったってのに」
「少し早いけど、お弁当にしよっか? 全部、終ってから食べたかったんだけ
ど」ため息をつきながら香里が笑う。
「うん……いただくかな」
午後になり、雨雲の切れ目から晴れ間がのぞきはじめた。ふたりは閉園時間
午後七時まで、東屋のベンチでずっと手をつないでいたが、その日はついに
紗世が現れることはなかった。帰り道、まばゆいオレンジ色の夕日を浴びなが
ら歩く香里は、痺れるほどいかした持論を展開していたときとはうってかわ
って、すっかりしょげ返っていた。
「私がよけいなことをいったせいで……」
「なーに、あいつがいつまでもおとなしく引っ込んでいられるわけないさ。
明日、また会おうよ、香里」
(つづく)
次回より第三章になります! もうしばらくおつきあいいただければ幸いです。