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第二章 夏の亡者 10

挿絵(By みてみん)


       10


 上野公園で西郷像をながめたその夜遅く、香里からメールが届いた。驚天動


地の内容であった。




『武志郎君。今日は楽しかった、ありがとう。夏休みに入って親の留守中に私


が男を家に引き込んでるって噂が近所で流れていると母から厳しく問いつめら


れました。事実といえば事実だけど、ここ数日は武志郎君、家にきてなかった


のにね。一緒に宿題をしてるだけだといったけど、ウチはほら、母子家庭だし。


世間には妙な色眼鏡(いろめがね)で見る人もたくさんいるって、泣くの。母親に心配


かけたくないし、明日、田町には行きません。海も無理だと思います。自宅謹


慎かな? ごめんなさい、武志郎君。りっちゃんには「マイン」しときます。


大倉君にも謝っておいてください。それから、紗世にも。出してあげられなく


てゴメンと伝えてください。 香里』




 武志郎は言葉もなく、スマホを握りしめたまま硬直していた。画面が自動で


オフになり真っ黒になってもそうしていた。これは紗世の件以上に重い。比べ


るべくもない対象であろうが、一方ははるか異世界規模の重さであるのに対し


て、これはごく至近距離、身近すぎる重さである。このメールを打った香里の


気持ちを思うと、どうすることもできない自分にもどかしさを覚える。母子家


庭だから色眼鏡で見られる? それってどういうこと? それってなんだか


わからないけど香里のせいじゃないだろ? 昔の戦争のせいだろ! 武志郎は、


世の中には悪意に満ちた者が存在するという事実を受け入れがたかった。そし


て思い出す、保田奈美穂が学校を去ったあと、SNSなどでひどい風評がまこ


としやかに流布、拡散されたことを。あのときも男の方はあまり騒がれなかっ


た。こうした事態になると傷つけられるのはたいてい女性。香里の方だ。


「なんなんだ!」怒りがこみ上げてくる。世の中という目に見えないものに対


して。いっそ彦五郎を助けて歴史を滅茶苦茶にしてやろうか! この世界を


ブッ壊してやろうか! 武志郎が過激な思想に走りかけたとき、スマホが鳴動


した、電話である。──香里!?


「もしもし、香里!」


『律子。今、香里から「マイン」がきた』有坂律子であった。


「ああ、有坂か? なに?」こんなときに!


『なにはこっちよ。ブシロー、なにがあったの? 夕方、海行けるってルンル


ンの「マイン」きたばっかだったのに!』


「タカも一緒か?」


『いるわけないでしょ! こんな時間に一緒なら問題だわ!』確かに午前一時


近い。


「そりゃ、そうだ」それはそうだが、孝雄が一緒でもないのに電話してくるな


んて、本当におせっかいな女だとやさぐれた武志郎は思ってしまう。しかし渡


りに舟、おぼれる者は(わら)をもつかみたい心境であるのも確かであった。


紗世の問題は香里とふたりで解法を模索していくしかないが、香里の問題を


ひとりで解決するのは、どう考えても無理である。武志郎が高校生で、男子生


徒である以上。


『ブシローってば!』律子のたけり声が耳元で炸裂する。


「うるさい。近所迷惑だろ?」


『ふざけてんの?』


「ふざけてない。有坂、話すから聞いてくれ」




『なるほどね。それで海にも行けないわけか』電話の向こうで律子がいった。


「おかしな話だよ。香里、なにもしてないのに」


『でもブシローを家に引き入れだんでしょ? アンタ、責任取んなさいよ』


「はぁ? 責任? なんの? 宿題しかしてないっていっただろ?」


『そんなの信じられるわけないでしょ? だったら図書館に行きつづければよ


かった話でしょうが? なんで香里の家に変えたのよ? それは……アレで


しょ?』


「そうなるか。でも、お前らと一緒にすんな!」紗世の話は当然していない。


図書館から香里の家へ宿題の場を変更した理由をいえない以上、疑われても


仕方がないのかもしれない。


『香里がオーケーしてるんなら私からはなにもいわないけど。ただ、近所で変


な噂が流れてるんなら、香里の将来にだって関わってくるんだからね? 


わかってる? それ』


「将来? ただのくだらないよた話だろ」


『よた話もバカにならないでしょ、今は。SNSにでもあげられたら終わるよ、


マジで。学校にだっていられなくなるかもしれない』


「嘘だろ? 脅かすなよ」


『ブシロー、母子家庭だから色眼鏡で見られてるって香里が書いてきた意味が


わからないっていったよね?』


「ああ」


『あくまでも一般論よ。母子家庭イコール貧困。貧困だから子供は荒れる。


荒れるから小遣い稼ぎや憂さばらしのために男関係も乱れる──』


「香里はそんな女じゃない!」


『わかってるわよ! ブシローより香里とのつき合い長いんだから! そうい


う色眼鏡で見るの、世間は。いい歳して、そのくらいわかんなさいよ! 学校


のお勉強だけじゃなくて! あ、学校のお勉強もダメだったか。悪い、悪い』


「…………」返す言葉が見つからなかった。誰と比較しても自分が子供に思え


てしまう。


『ブシローが知ってるかどうか。香里のこと好きな男子、学校に何人かいるよ』


「え?」


『やっぱり知らないんだ。ポチャだけど頭いいし、歌うまいし、なによりも一


見、清楚っぽくてフワッと可愛いじゃない? 私だってたまに抱きつきたくな


るもん』


「マジか」一見、清楚? そうだったかもしれない。最近のくだけた香里の方


が魅力的だと武志郎は思うのだが。


『最初の修学旅行委員のミーティング、香里、遅刻したでしょ? 覚えてる?』


「ああ、それが?」


『あれ、しつこいのにいいよられてたせいなんだ』


「はぁ? マジで!?」初耳である。


『あたしと蓮美で撃退したけどね』


「そりゃ相手が気の毒だ」


『うるさい。ね? 何人かの中には変なのもいるから、妙な噂を聞きつけたら


ヤバいよ。フラれた腹いせになにするかわかんない』


「フッたの? 何人も? あの香里が?」──そういえば孝雄からも告られた


ことがあると香里はいっていた。律子には絶対に話せないけれど。


『ブシローのことをなぜだか好きだったからでしょうが? コイツ、マジ腹立


つ!』


「はいはい、すいません。でも、だったら悪い噂を消さないとな」


『そこよね。どうしよう?』


「……あの、有坂さ」


『なによ? あらたまって』


「一緒に宿題やらない?」


『はい?』


「香里んちで。たまにタカや丘さんなんかも呼んでさ。部活、忙しいだろう


けど」


『それいいね! グループ学習! ご近所にアピールするよ! たまにはやる


じゃんブシロー! いいよ、それ!』


「グループ乱交に見えなきゃいいけど」ほめられて調子にのる武志郎。


『アホ! バカ! いいよ、わかった。海もやめる、日曜は香里んちで勉強会


にする!』


「いや、そこまでは……」香里がかえって恐縮し、むしろ嫌がるだろう。


『親友がピンチなのに遊んでらんないっしょ! 海行く予定だった蓮美と、


蓮美の彼氏も連れてく。もち孝雄も。まず、香里のお母さんを安心させて、


それからご近所にアピール! いやぁ、テンション上がるー! 段どりは


まかせて!』


「いや、香里の部屋、そんなに入るかな?」


『バカなの? 応接間あるでしょ? 一軒家なんだから。お母さんの前で勉強


会することに意義があるんじゃない!』


「なるほど……」


『ブシロー、明日、香里んち一緒に行こう、日曜まで待ってらんない。あえて


制服で行こうよ! 作戦変更、先にご近所のイメージアップ!』


「はぁ?」──制服コスプレ? 現役なのに? 「変に目立つんじゃない?」


『目立ってナンボでしょ? 集団学習パフォーマンスなんだから。それ


でねぇ……』


 律子との打ち合わせは夜ふけまで続いた。正直、武志郎は疲れ果ててしまっ


たが、彼女に相談できて本当によかったと心底思っていた。一難去らずにまた


一難、だと悲嘆していたことが嘘のように軽くなった。孝雄は友だち思いの実


にいい彼女をつかまえたといえる。律子の強引さからすると孝雄がつかまった


のかもしれないけれど。こうなるとやはり気になるのは当初の一難の方である。


「ゴメン、紗世。しばらくはお前を出してやれない」武志郎は紗世に聞こえる


ようにつぶやいた。「姉御のためだ、我慢しろ。香里あっての俺たちだろ? 


わかってくれよな……」このとき突然、武志郎の右腕がつったように痙攣(けいれん)し、


肩口から指先までが引っ張られ、腰の引けた状態でベッドから勉強机の前まで、


本人の意志を無視して移動していた。「ななな、なにぃ!?」そして彼の右手


は机上に転がっていたボールペンをつかむと、申し訳ていどに開いていた宿題


のプリントにサラサラとなにやら書きはじめた。まさに霊媒師や巫女による


自動書記そのものである。


挿絵(By みてみん)


さながら亡者の文字! 恐怖に(おのの)き、ボールペンを握った自身の右手


を震えながら見つめる武志郎は、しかしすぐにこれが紗世のしわざであると思


いいたり、それはそれでおかしな話であるが、ホッと胸をなでおろした。かつ


て香里の母を助け、最近ではトラックにはねられかけた彼を大ジャンプさせた


紗世ならば、このていどのことは造作もないのかもしれない。ただ、客観的に


見ればこれはそうとうに恐ろしいことである。紗世という幽霊の存在や人格を


理解していなければ、泣きだしてしまうレベルであろう。ところで問題は、


暗号のような言葉の意味である。


「わかつる?」武志郎は仕方なくスマホに『江戸時代、文字』などと検索ワー


ドを入れて古典のくずし字のサイトを見つけ、暗号解読に成功した。「わかつ


た。わかった、か……」つまりこれは、しばらく外に出してやれないが我慢し


ろと彼がいったことに対する紗世の返答だったのだ。「こんなまねできるなら


とっととやればよかったのに」武志郎がいうと、再び右手が反応した。ここで


武志郎は左手でプリントを脇に押しやり、いつものノートを開く。宿題にこれ


以上いたずら書きをされてはかなわない。


挿絵(By みてみん)


 ノートに書かれた文字がこれであった。「お面ネがよ和る?」なんだこりゃ、


とまたくずし字サイトで確認。結果は「おめえがよわる」であった。お前が弱


る、ということらしい。なるほどと合点(がてん)がいった。全身を操られる


香里があれほど消耗するのだ、腕や手だけでも他者から支配を受ければ、彼女


ほどではないにしても体力や神経が削られるのであろう。その上、いちいち調


べなければ読めないのが骨である。ただ、香里を(かい)さずに紗世とコミュニケ


ーションが取れるのは喜ばしいこと、そこで武志郎は彼女に現在の五十音を教


えることにした。紗世からは「おめぇがわっちらの字、覚えやがれ!」と怒ら


れそうだけれど、はっきりいって統一されていたとはいいがたい江戸のくずし


字を武志郎が読めるようになるよりも、確立された現代の活字を紗世が覚える


方が学習時間の短縮につながるはずである。ここは紗世にがんばってもらうこ


とにした武志郎はノートに、あいうえお、と書きかけたがこれを消して──。


『いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ ういのおくやま けふこえて 

あさきゆめみし えひもせず ん』


 ふと思いつき、いろは歌を書いてみた。こちらの方が紗世になじむ気がした


からだ。むろん、サイトで調べて書いた。武志郎は、「いろはにほへと」の先


をまったく知らなかったのである。彼自身が読めないし書けない「ゑ(え)」や


「ゐ(い)」はあえて省いた。


「四十七文字、重複なしで意味があるなんてすげぇな。すげぇな江戸時代の人、


天才だな」武志郎は思わず口にしていたが、本当はもっと以前、平安時代に作


られたものだといわれている。そして武志郎はそれから一時間ほど「いろは歌」


を声に出して一文字ずつ繰り返し音読しつづけた。いいかげん、さすがの武志


郎でも暗唱ができはじめたころ、右手がぐぐっと動き、ノートの隅に文字をし


たためた。


『じはおぼえた もうねな』


 時計を見ると午前三時を回っていた。明日は午前九時に香里の家の最寄り駅


で律子と待ち合わせている、確かにもう寝た方がよさそうだ。武志郎は大きく


伸びをしてベッドへ横になった。「マイン」のチャットみたいだな、と思いな


がら。


「もう五十音、覚えたのか? 頭いいな、紗世。俺、疲れた、寝るよ、


おやすみ……」


(つづく)


※ 参考資料


kоin変体仮名 


http://www10.plala.or.jp/koin/koinhentaigana.html#koinhenminfmoji


でございます。

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