表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/33

第二章 夏の亡者 9

挿絵(By みてみん)


       9


翌日、武志郎と香里はF県からの乗り継ぎで都合のいい京成上野駅に出て、午前


十一時すぎに上野恩賜(うえのおんし)公園へ入った。ぬけるような青空、沿道には背の高い木々


がこんもりと繁っているものの、しゃへい物がほとんどないため直射日光が息苦し


くまぶしい。ゆるやかな階段を上っていくと広大な高台が広がり、樹木の葉の陰か


ら本日の目当てである西郷隆盛像が見え隠れしている。遠目に見ても銅像の前は


写真撮影などを楽しむ人々でにぎわっている様子がうかがえた。


「くそ暑いのに、なんで人が多いんだ?」汗をぬぐい、何度でもわき上がってくる


あくびをかみ殺しながら武志郎がつぶやく。


「夏休みだもん。それに、美術館はあるし、動物園もあるし、ボートにも乗れるし。


なにより上野東照宮や清水観音堂、旧寛永寺五重塔とかもあるし。西郷さんだけじゃ


なくて()松宮(まつのみや)親王(しんのう)像に野口英世像まであるんだから」やはり眠そうな顔をし


ていた香里の目がランと輝いた。


「よく知ってるね。ここ香里の好きそうな所なんだね」歴女的に。


「紗世は(しょう)義隊(ぎたい)のお墓なんかも興味あるかも」


「彰義隊? なんだっけ、それ」最近、なにかで読んだか、聞いたような気がする。


「ここ上野で、薩長の官軍に最後まで抵抗した幕府軍よ。『幕末志士義烈譚』にも


出てきたでしょ?」


「ああ、そうだった。上野戦争ね。幕府側の死体は野ざらしだったんだろ? 墓な


んてあるの?」西郷の像と同じ公園内にあるのならば皮肉な話だと武志郎は思う。


官軍も賊軍(ぞくぐん)も同じ場所で拝観できること、それが今、平和であることの(あかし)なの


かもしれないけれど。


「うん、明治新政府の手前、彰義隊の墓とは書かれてないけど。でも山岡(やまおか)鉄舟(てっしゅう)


書で戦死之墓って刻まれてるの」


「歩くガイドブックか。あれ? 山岡鉄舟って誰だっけ? あ、くわしくはいい


から」


「新徴組の人よ。武志郎君をバッサリやる山賀乙様のいた」


「へぇー! そことつながるんだ!」紗世のいた時代と現在が地続きであると、


武志郎はつくづく実感した。バッサリはよけいだが。


「ね? 歴史、おもしろいでしょ?」酷烈な熱射にさらされたせいで、少し赤味が


差す頬をした香里が無邪気に笑う。ただのデートだったらよかったのに、と武志郎


は思った。


 柵に囲まれた西郷隆盛像を見上げるふたり。さてどうする? 紗世に犬を連れた


西郷を見せてやるのはいい、問題はその先である。江戸に跳べば武志郎は意識を失


う。紗世は紗世で武志郎を通して過去を見ているため、異常なほど集中するようだ。


図書館のときはひとりが机に突っ伏して居眠りをしていて、ひとりは勉強に熱中し


ているように見えたかもしれない。しかしここではどう見えるだろうか? 武志郎


は暑さにやられ熱中症で倒れた男。そしてその脇で眉間に縦じわをよせる女。異様


な光景ではないだろうか? ベンチに掛けてなごんでいる恋人同士にはとても見え


ないだろう。


「どうしたの? 武志郎君」


「江戸に跳ぶのはどうかと思って」


「ああ、ビデオ見た限りだとやめておいた方がいいかも。人前じゃなるべく」


「だよな。紗世、今日は楽しみにしてると思うんだけど……」


「助けちゃうの? 彦五郎君」香里は不安げな目を石畳に落とす。


「だよね……」昨日より前の時間に跳べば彦五郎、紗世だけでなく旦那さんや奥さ


んまで一家まるっと助けられるだろう。武志郎にしても人を斬らずにすむのであれ


ばそうしたいし、可能ならば間違いなくそうする。山賀乙に斬られるよりも斬る方


が怖いのである。夢にまで出てくるのだ、あの禍々しい殺戮の光景が。


「彼を助けて、それで……歴史の教科書が変わるくらいですめばいいけど」


「ねぇ」そこである。デート気分が一変し、高校生カップルは暗い暗いどんづまり


の路地へと引き戻されてしまう。昨晩、それぞれが眠れずに解決策を模索してはみ


たけれど、ヒントすら見つけられなかったふたりは、しばし西郷像の前に立ちつく


していたが、明治維新の英雄は、当たり前だがなにも応えてはくれない。


「少し早いけど先にお昼をすませない? 食べながらどうするか、もう一度考えて


みようよ」香里は変らぬ笑顔を見せるが、少し無理をしているようである。猛暑の


上、睡眠不足なのだからやむをえないことだろう。ただ、食欲があるという点では


彼女の方が武志郎よりも一枚上手であった。


「昼ねぇ、冷やソーメンくらいしか……あ、そうだ!」両手をパチンと合わせる


武志郎。


「なに?」


「ちょっと耳、貸して」武志郎は香里に触れないよう気をつかいながら、彼女の耳


元でコソコソと内緒話をした。「どうかな? 少なくとも今日は乗りきれる。一時


しのぎなんだけどさ」


「オーケー。せっかく上野にきたんだから西郷さんには会わせてあげたいしね」


「助かる。いつも悪いな」


「ふたりの問題でしょ? あ、ビデオカメラ忘れた!」


「スマホでいいだろ?」武志郎は録画ボタンを押し、ポロシャツの胸ポケットにス


マホを突っこむ。普通ならばバレバレの盗撮だが、紗世には気づかれないだろう。


「じゃ、よいランチを」西郷像を見上げつつ、香里が脇に手を伸ばす。うなずいた


武志郎はその手をギュッと握りしめた。




「なにコソコソしてやがった? あ? ブシロー」出てくるなり武志郎の握る手を


振り払う紗世。相変わらずの激痛に腰をかがめ、右目を押さえた武志郎は片手で頭


上を指さす。


「紗世、ほら、西郷、西郷」


「お、おう! そうけ。わざわざありがとよ。香里にも礼を頼まぁ」紗世は白いロ


ングスカートの裾を両手でパタパタさせて熱を逃がしつつ、目つきだけは鋭く挑む


ように西郷隆盛の像を見上げた。「こいつかい? この野郎が……坊ちゃんを……」


「さ、紗世! 落ち着け、柵をこすんじゃないぞ!」


「わぁってら! 香里の顔ででたらめはしねぇよ。ふん、芋が見下ろしやがって」


「まあね」土台だけで三メートルはありそうだから見下ろされても仕方ない。それ


に武志郎は、西郷が見ているのは、はるかかなたの空か、上野の街なみのような気


がした。


「だがよ、こんな立派な造り物なのに、こいつぁ、なんで着流し姿なんだ?」


「それ、調べた。実はこんな浴衣(ゆかた)みたいなかっこうじゃなくて、軍服姿で銅像に


なるはずだったんだけど、ときの政府が英雄視されることを嫌がったんだそうだよ」


「軍服ったあ、どんな物だい?」


「うん、そうだな。冬に俺が着てる学ラン、学問所の制服わかるか?」


「おう、カラスみてぇに黒いのな」


「まあ、あんなヤツだ」学生服のルーツは明治時代の軍服なのかもしれない。武志


郎はまた、連綿とつながる紗世の時代と現在について、思いを()せずにはいら


れなかった。


「しかしなんだな。やはりこいつは英雄じゃねぇんだな?」


「江戸時代を終わらせたあと作った新しい政府に、西郷は反逆したからね」


「こいつらが作ったんだろ? 新しい仕組み。そいつがなんでまた謀反(むほん)を起こす


んだ?」


「侍がなくなることを嫌がった連中がたくさんいたんだ。そいつらに(かつ)がれて


戦争を起こしちゃったらしいよ」


「西郷は勝ったのけ?」


「いや。負けて、確か自殺したんじゃなかったかな?」あまりくわしいことまでは


調べていない、これ以上は聞かないでくれ。武志郎は心の中で手を合わせた。


「へえ。芋野郎もそんなことになったんか。因果(いんが)応報(おうほう)だ、ざまぁねぇや」


動かない敵に飽きたらしい紗世は柵の周りをぐるりと歩いて、かたわらに建つ石碑


に目をとめた。「ブシロー、あのでけぇ字、なんて読むんだ? 天と人はわかる


がよ」


「敬天愛人かな? たぶん」武志郎も初めて見る四字熟語であった。意味は聞いて


くれるなとまた思ったが、すかさず紗世がたずねてくる。


「そりゃどんな魂胆でぇ? (ふて)ぇ悪だくみの意かい?」


「いや、天を敬い、人を愛する、愛せ、かな? キリストっぽいな」香里なら武志


郎の十倍は解説できるだろう。実際、それほど単純な文言ではない。


「なんだぁ? なんだってこの野郎の脇にそんな(いしぶみ)がありやがる! 御用(ごよう)盗賊


の親玉のくせしやがって!」鉄柵に手を掛けてガシガシと前後に揺さぶる紗世。


「こらこら。でたらめはしないんだろ?」紗世の手を押さえたいが、触れるわけに


はいかない。怒りにまかせて江戸に跳ばされる可能性が高い。ここはこらえどころ


である。


「なーに寝言、いってやがる! でたらめはこいつらだろが!? えらそうにふん


ぞり返りやがって! 犬なんぞ連れてるがよ、こりゃとって食う気だぜ!」


「なわけねぇ……」母の篤子の口癖、世が世なら武家のお姫様だったではないが、


西郷の誹謗(ひぼう)は、世が世なら刺されるレベルの発言である。


「おめぇ、芋野郎の味方か? そういう了見(りょうけん)け?」


「俺は紗世の味方だよ」


「──そ、そうけ? たまにゃあうめぇこといいやがる」日焼けで色づいた頬の赤


味がましたように見える紗世。


「…………」武志郎は考えなしに思ったままを口にしただけであったが、確かに


うまいことを臆面(おくめん)もなくいってしまった。しかしあからさまに照れている紗世


を見て、武志郎まで恥ずかしくなってきた。これは夏の暑さにやられたせいに違い


ない。


「しかし(あち)いな、夏ってのはこんなに暑いもんだったっけかな?」照れ隠し


のように今度はノースリーブシャツの胸元を大きくパタパタさせる紗世。


「はしたないぞ、紗世」香里の胸はただでさえふくよかなのだ。そんなまねをする


と目立って仕方ない。しかし無理からぬことかもしれない、とも武志郎は思った。


紗世が炎天下にさらされた場所に出てくるのは初めてのことだったからだ。


(あち)いものは暑いんでぇ! いつも思うんだがよ、この、乳をしめつけてる布っ


切れ、苦しいんだ、取ってもいいよな? 蒸れっちまってかなわねぇや」シャツの


上から胸のブラジャーラインに指先を入れて外しにかかる紗世。一応はシャツの


内部ですませ、地肌をさらすつもりはないようだが、武志郎は思わず悲鳴を上げ


そうになった。


「わ、わ! ダメだよ、取っちゃ!」香里に殺される! 


「ダメけ? (あち)いし、苦しいのによ。おめぇも一度、つけてみやがれ!」


「はいはい。あ、それより紗世、暑いんだろ? 本物のざるそば、食いにいか


ない?」


「そば? 本物(ほんもん)? ま、マジけ?」紗世の目が大きく見開かれ、口は半開き


となった。西郷の連れている犬のように尻尾があれば、緊張してピンと立てたとこ


ろだろう。


「おう、冷えっ冷えだぞ。天ぷらは熱々、サクサクだぞ」


「サクサクの天ぷら……けどよ、香里に悪くねぇか?」人前でブラジャーを外すよ


りはましである。


「今月は紗世の誕生月だからお祝いしていいってさ。香里の許可はもらってるよ」


「おおう、香里、(あね)御肌(ごはだ)だな! よし、姉御、これから香里は姉御と呼ぶ!」


「いまさら姉御かよ? いくぞ紗世」


「おう、おう!」紗世は自然と武志郎の手を取ったが、江戸に跳ばされることはな


かった。「──いや、待て。先に坊ちゃんを助けねぇとよ」手を離し、視線を落と


す紗世。


「成仏したらそばは食えなくなるけど」


「…………」うっと喉をつまらせる紗世。


「そばを食えなかった(うら)みで、また出てくるとかやめてよな」


「わっちぁ、そこまで食い意地はってねぇや!」


「百五十年も前から食べたかったんだろ? 彦五郎を助ける方法は見つかったんだ


し、いんじゃね? 明日か明後日でも」なんとかして、一時しのぎの間に最善の策


を見つけなければならない。歴史を曲げずに紗世を成仏させる方法を。雲をつかむ


ような話であるが。


「食うか、そば。せっかくの心づかいだ、姉御の顔も立ててやんなきゃな」紗世は


にがにがしいしかめっ面をしてみせたが、嬉々としていることは見え見えだった。


笑いをこらえた武志郎は上野公園内にそば屋があるのかを検索するため、いったん


スマホの録画を止めようするが妙に熱い、バッテリーの温度上昇でカメラは切れて


いたし、画面の動きもおかしくなっている。酷暑の中での長時間録画はどうも無理


なようだ。しかも熱が冷めるまでは使い物になりそうもない。爆発したりしないだ


ろうな? 壊れたら怖いので武志郎は電源をひとまず落とした。となると、どうす


るべきだろう? 広大な園内をいたずらに歩き回るのか? JR側へ行くべきか? 


「そうだ、アメ横があったな」小学生のころ一度、母に連れられていった記憶がよ


みがえった。上野駅から御徒(おかち)(まち)駅までの約五百メートルの区間に、小売店や


飲食店がひしめく大商店街。そんなイメージだった。あそこならば普通のそば屋く


らいあるだろう。立ち食いでは本物とはいいがたいし、高級すぎる店は財布に厳し


い。「普通でいこう。リーズナブルで」


「なに、ごちゃごちゃいってんでぇ? わっち、腹へったぜ! あはは、昔ゃひも


じいと泣けたもんだが、腹へって物が食えるってのは嬉しいもんなんだなぁ。わっ


ちぁしみじみそう思うぜ。めったやたらと死ぬもんじゃねぇよなぁ、え、おい」


「そうかい」明治まで生きのびることができたら、そばや天ぷらばかりでなく海外


から入ってきたいろいろな物を紗世は食べられたのかもしれない。そう思うと武志


郎は胸が痛くなった。


 アメ横通りに入ると、その活気と人混みに、紗世は目を白黒させて浮足だって


いた。


(たな)がいっぱいだぁ! 浅草かい? ここ」


「いや」


「両国? 日本橋? 吉原け?」武志郎が恥ずかしくなるくらい大声ではしゃぐ


紗世。


「上野だ。なに興奮してんだ? こんな繁華街、紗世はいつも俺の目から見てる


だろ?」


「バカ抜かせ。おめぇ、盛り場なんてほとんど行かねぇじゃねぇか」


「……なるほど」紗世が憑いたのが中二の夏。もう親と出かけることは少なかった


し、彼女どころか友達も多くない武志郎は、華やいだ場所に出かけることはなかっ


たかもしれない。行動範囲は学校周辺と家の近所に限られていた。これまで考えた


こともなかったが、これはそうとうに情けないことだと気持ちが重くなる。ハイテ


ンション紗世が放っておいてはくれないけれど。


「あれはなんでぇ? (あめ)ぇ匂いだ。かー、ぶっ倒れそうにいい匂いじゃねぇか!」


紗世はたい焼き屋の店頭へ子供のように張りついた。録画されていなくて本当に


よかった。はたから見たらコロコロと太ったただの腹へらしにしか見えない。十六


歳の女子高生、香里がこの姿を見たらたぶん泣くだろう。たい焼きを二尾買って


一尾を渡してやると紙袋からのぞく魚らしき物の頭に、紗世は心底驚いているよう


であった。


「生臭くねぇ、なんか気味悪(きみわり)ぃな」といいながらも顔はほくほくとしている。


「じゃ、返せよ」


「バカ野郎! もらった物、返せるけぇ! どう食うんだ?」


「頭から……小骨があるから気をつけてかじるんだ。あと、目を合わせると(たた)られ


るぞ」


「祟られる? なんでそんな物、売ってるんでぇ?」紗世はたい焼きの目玉を手で


隠し、おびえたように顔をそらす。


「嘘だよ」武志郎は頭からガブリと食い、笑いながら中のあんこを見せた。


「てめぇ……ぶっ殺されてぇのか!」そうどなりながらもおそるおそるたい焼きを


口にした紗世の機嫌が、瞬時によくなったことはいうまでもない。


 意外なことであったが、探してみると日本そば屋はなかなか見つからない。あま


り時間をかけると香里の体力消耗が心配になってくる。そんな武志郎の思いをよそ


に、紗世は和洋折衷の品をそろえるアクセサリー店の前で足を止めた。ウィンドウ


に置かれている紫水晶のついたかんざしと、漆塗りで蒔絵(まきえ)前櫛(まえくし)が目にとまった


らしい。


「ほしいのか?」かなりの金額なので武志郎にはとても買ってやれないが。


「見ていいけ?」


「ああ、まあ」金も時間もないぞ、幕末少女! そうは思いながらも無下にもでき


ず、紗世のあとについて店内に入っていく武志郎。


「しこたま可愛いのがならんでるぜ……」日本髪用の髪飾りコーナーで、夢見るよ


うな目つきでウットリとしている紗世。続いて彼女は今風のヘアピンやバレッタの


売り場へと移動、鏡を見ながら髪にあてはじめた。


「かんざしじゃなくていいのか?」


(まげ)(びん)もねぇ頭にかんざし、()せるけ? これ、どうやんだ?」


「やってやるよ」武志郎は小さな花がふたつついたヘアピンを紗世の髪にとめてや


る。相手が香里だったら恥ずかしくてとてもできなかっただろう。鏡を見て嬉しそ


うにしている紗世は別のピンを武志郎に差しだした。


「これもやってくれ」


「しょーがねーな」今度、姫はリボンの形のヘアピンをご所望(しょもう)である。


「仲がいいんですね。これなんかもお似合いですよ」若い女性店員がやってきて金


色の星型がキラキラしたピンを武志郎に手わたした。取りつけ係は決まっているら


しい。そんなこんなで葉っぱの葉脈をかたどった銀のヘアピンを買うハメになって


しまった。とはいえ銀メッキなので税込み千円もしなかったのであるが。鏡に向か


ってウキウキしている紗世。よく似合っているが、似合っているのは本当は香里で


ある。切ないな、と武志郎は思った。


 ようやくそば屋を見つけて店に入ることができたが、昼時なのでけっこう混みあ


っている。紗世が香里に憑く時間はいつもニ十分ていどであった。ところが今日は


すでに三十分を回っている。ハーリーアップ天せいろ、クイックリー、ヒヤー!と


心の中で叫んでから、この英語が正しいのかどうか不安になる武志郎。どうでも


いいことであるが。ここで武志郎はスマホを取りだし録画を再開することにした。


店内はクーラーがきいているので温度上昇にも耐えられるだろう。なによりも意識


を失くしている間、なにが起きているのかを香里に見せる義務がある。


「これが本物(ほんもん)け……」いよいよ目の前に現れた天ぷら(えび二本、野菜天三種)と


ざるそばを前にして箸を手にした紗世の指先が震える。「どう食えばいいんでぇ?」


「どうって、天ぷらは熱いうちがうまいよ。塩ふってもいいし、つゆにつけても


いい。そばものびないうちに食いなよ」


「おう、わぁった! いただくぜ、ブシロー」紗世は、かー、とか、くー、とか、


うめぇ、だとか感動を声音(こわね)で表しつつ実にうまそうにそばをすすっていた。


これだけ喜ぶ客は彼女が最初で最後ではないだろうか? 店員もほかの客も楽しそ


うに笑ってながめているようであった。




「あの」「あのよ」そばを食べ終えて、お茶を飲むふたりの声が重なった。


「ブシロー、先にいいな」


「ああ、香里の体、まだ大丈夫そうか?」そばを食した時間は比較的、短かったが


そろそろ憑いて一時間近い。


「ま、ころ合いだな」


「そうか、じゃ、またにするよ」どうして香里に憑依(ひょうい)できるのかの答えを知り


たかったのだが。


「なら、わっちもちゃっちゃと喋るぜ。ブシロー、今日、ありがとな。本当(ほんと)


楽しかった。楽しかったぜ、ありがとうな」紗世は深々と頭を下げた。


「いや、いいよ」たった一時間のデートでそこまで感激しなくても。


「ひとつ聞きてぇ」顔を上げた紗世はつらそうな表情をしていた。


「なに?」


「彦五郎坊ちゃんが助かると、おめぇや姉御にマズいことでもあんのか?」


「なんで?」


「そば食おうなんていいだしたのも、そのせいなんだろ? なにがいけねぇんで?」


「……そばは前から食わしてやりたかったんだけどな」


「おう、そんなのわかってたよ。おめぇときどき情けねぇとり(つくろ)いをするが、まっ


とうないい野郎だからな」


「ほめてねぇし」


「ほめてんだよ。それで? どうしてでぇ?」


「──紗世が生きてたころから百年以上たったのが今。俺や香里が生きてるのが今だ」


「おう、で?」


慶応(けいおう)のころに死んだはずの彦五郎が生きてたら、令和の今、彦五郎の子孫、


孫やひ孫がひょっこり、いきなり現れるかもしれない」


「おう、なにがいけねぇ? めでてぇじゃねぇの」


「逆に、今、生きてる人が、たとえば俺や香里がピュッといなくなることもあるか


もしれないんだ」


「なんでだ? 今いるのにピュッとは消えねぇだろ」


「だよね。説明、難しいなぁ。消えるっていうか、いなかったことにされるってい


うか」


「なんだ? どこのどいつがそんなべらぼうなまねしやがるんでぇ?」


「ええと、たとえ話だよ。生き残った彦五郎が俺のひいひい祖父(じい)さんを殺したと


するだろ──」


「坊ちゃんは、んなことしやしねぇよ!」


「そうだね、しないね、きっと」お手上げであった。武志郎自身が明確な理論を持


ち合わせていない上に、相手は幕末少女なのだ。現在、曖昧な状態になっている録


画の音声やメモ書きの件を話しても理解させるのは不可能だろう。頭をかかえてし


まった武志郎を見て、哀しげな表情をした紗世は、そわそわと目を泳がせる。


「一服してぇな」


「一服? タバコか? ダメだよ、紗世。禁煙店だし」


「ダメけ? そうかい……ブシロー、わっち、おめぇらを困らせてるみてぇだな?」


「だからいまさら?」


「わっちぁ、坊ちゃんは助かって当たり(めぇ)だと思うんだがな。でねぇと道理が


立たねぇ。ここじゃ因果(いんが)は車の輪の(ごと)しじゃねぇのかい?」


「そりゃ悪いことしてないのに殺されるのはおかしいけど……」西郷にもいってい


た因果応報という意味だろうと武志郎は思った。


「ああ、わっちのオツムじゃ、おめぇらがいき悩むわけがさっぱりわからねぇ! 


すまねぇ! だが、おめぇや姉御がどうあってもっつうことなら、わっちぁ……」


湯飲みを握りしめて肩を震わせる紗世。


「まあ、あわてるな、少し時間くれって。元々、考える時間がほしくて一時しのぎ


したんだからさ」


「…………」


「紗世、いったろ! 俺は紗世の味方だって」


「…………」紗世の目から大粒の涙がみるみるあふれだす。


「お、おい、泣くなよ、紗世」小声で囁く武志郎。これではなごやかな食事風景が


一転して別れ話になったようにしか見えない。バチン! 泣きながら武志郎の肩あ


たりをひっぱたいた紗世は、武志郎の右目へと戻ってきた。




「うー、なんで私、泣いてるの?」いつものように頭痛で苦しみながら香里がいっ


た。


「大丈夫か?」同じく目と肩の痛みに(もだ)えている武志郎。


「なんとか。おそば食べられたのね、紗世。よかった」頭を振りながらも、香里は


自分が今、どこにいるのかをぬかりなく確認した。


「まあね」武志郎の方はすぐに治まったが、香里の苦痛と倦怠感は今回、長く続い


た。やはり一時間はきついのだろう。図書館のときのように周囲の目を集めてしま


っていることはわかっていたが、とにかく香里の回復を待ってふたりはそば屋を出


た。別れ話が一転、よりを戻したカップルに見えたことだろう。


「変な感じ。食べた覚えがないのに、口につけ汁の味が残ってる」


「お腹もふくれてるだろ? 食べてないのに。あ、香里、たい焼きも食ってるから」


「え! やめてよ! また太っちゃう!って、あれ?」香里は前髪をとめている


リーフ型のヘアピンに気づいた。「なに、これ?」


「ああ、紗世の誕生プレゼントかな。ま、結局は香里の物だけど」


「ふーん」口をとがらせる香里。「武志郎君、私の誕生日は知ってる?」


「は? いや」


「ムカつく」


「香里だって俺の誕生日なんか──」


「二月九日の水瓶座」


「あ、そう。申し訳ございません」名前はブシローだと思っていたくせに!と頭を


下げた武志郎は思った。


「十二月二十一日のギリギリ射手座。覚えておいてね」


「1221、覚えた」


「よろしい」と香里は笑い、「私にはなにをいただけるのかしら?」と怖いことを


いう。そして「ビデオ、見せて」と真顔でいった。


「それがさ……」


 京成上野駅のベンチに腰を下し、ふたりは上野公園での最初の数分、そしてそば


屋で撮られた中抜けの動画を見ていた。


「だから泣いてたの。私、ってか紗世」


「うん。タイムパラドックスを理解させるのは無理だと思う」


「理解させる必要ないよ。紗世が理屈だけわかってくれてもなにも変わらないし、


苦しめるだけでしょ?」


「まあね」そうなにも変わらない。ただ武志郎は紗世を蚊帳(かや)の外に置くのは


フェアではないような気がした。死人だが、一番の当事者なのだから。


「理解できなくて悔しい気持ち、すごくわかるけど。紗世が泣いた気持ちも」


「ま、わかるけど、泣くほどのことじゃないよな」


「うわー」目を見開いて腰を引く香里。「女心、わからなすぎ! びっくり」


「どうせそうだよ。そんなことより問題は、今後、どうするかだ」面倒な話になり


そうなので論点をずらした武志郎は、紗世の言葉通り、情けないとり(つくろ)いをする男


なのかもしれない。


「一番の問題は紗世がブラを外そうとしたことよ。あんなこと、二度とさせ


ないで!」


「俺がさせたわけじゃ」


「江戸時代の人にはね、その、女性の胸は、えと、性的な意味あいはあまりなかっ


たの。単に赤ちゃんへお乳を与えるものだったの」


「マジで?」


「そうよ、枕絵(まくらえ)なんかでも胸はサラッと描いてるし、銭湯は混浴だったし。


も、もちろん前は隠してたと思うけど」


「でも混浴? それあり?」思わず香里の胸に目がいってしまう武志郎。


「見ないの! そういう女性の胸に対するエッチな発想は明治以降、西洋から持ち


込まれたものなんだからね。よくも悪くも」


「いいな、江戸……」


「だから、江戸時代の人はそういう発想しないんだって! 武志郎君、紗世はそん


な時代の子なんだからね。それを忘れないでほしいの」


「確かに、なにをしでかすかわからないところあるよな、あいつ」


「今の常識じゃってことでしょ? タバコ吸ってたし、正座だってしないのよね? 


それは変だなと思って調べたら、未成年のタバコが禁止になったのも、正座が一般


に普及したのも、やっぱり明治以降なの。おかげで私も勉強になった」


「時代、時代で意識も常識も変わるってことか……」こちらこそ、勉強させていた


だいております。武志郎も香里を姉御と呼びたくなった。


「時代が変わっても、女心だけは変らないけどね」


「そこに戻るわけ? 話がループしてるぞ」


「……ループ? ループか!」


「なに? 英単語、おかしい?」


「じゃなくて、なにか思いついた。ちょっと待って」


「ああ」──待ちますぜぃ、姉御。


「ループ、輪っか、宙返り、反復……」ブツブツと日本語訳をつぶやき、指先で宙


に円を描きながら考えこむ香里。ループからなにが(ひらめ)いたのか? 武志郎も思案


を巡らせてみるがさっぱりである。「なんだろう? なにを思ったんだろう?」


自身に問いかける香里は武志郎のクセをまねてなのか額をコツコツと叩きはじめる。


「そうだ!」突然、武志郎にアイディアが降ってきた。


「なにか思いついた?」うめいていた香里が目を上げる。


「ようは、紗世に思い込ませればいいんだよ。彦五郎が助かったって!」得意げに


声を張る武志郎。紗世を騙せば解決である!


「順番からいって彦五郎君が先に死ぬんでしょ? そこ変えられる?」


「違うよ、江戸の紗世じゃなくて今の紗世を騙すんだよ」


「……ダメだと思う。紗世、私たちの会話、聞こえてるんでしょ?」


「あ」武志郎は口を押える。


「それに、ループと関係ないし」また目を伏せて長考(ちょうこう)に入る香里。


「まあねぇ」ループにこだわる理由はどこにある? 女の直感ってやつ? 武志郎


は口をとがらせる。紗世の願いをかなえるのは簡単なことなのだ。三十秒だった


彼女に触れる時間を、たとえば一分間にのばして、もっと以前、『大鹿庵』に押し


込む前に跳べばいい。そこで彦五郎が死ななければ、紗世が化けてでることもなく


なる。ただ、歴史に齟齬(そご)が生まれる。今ある現実と食い違った現在が現れかね


ない。仮に自分らに直接関係ないところでの出来事であったとしても、その責任は


重すぎるような気がする。この思考こそがまさに無間ループだと武志郎は思った。


 ふたりはそのまま京成上野駅のベンチから、その日の夕焼けを見るにいたった。


「ダメだ! なにかヒントをつかんだような気がしたのに!」キリキリと頭をかき


むしる香里。そのボサボサと乱れた髪から買ったばかりのヘアピンがこぼれ落ちた。


「いけない!」


「明日、どうするか……」ピンを拾い、香里に手わたす武志郎。


「情報が少なすぎるのよ! なにを考えるにしてもデータを取らないと無理なのよ」


「試してみるってこと?」


「そう、何回も何回も。寸止めで」


「寸止め? 彦五郎、助けないのか?」


「助けたら終りじゃない! 繰り返し実験して、段階を踏んで可能性を探るしかな


いわ。過去が確定する前に。うん、この繰り返しがループなのかもしれない」


「紗世が承知しないだろ?」


「承知させてよ! 私だって何度も何度も頭痛になるんだから! 武志郎君だって


何度も怖い思いするんだからね!」


「今の香里が怖い」武志郎が冗談半分にいうと、キッとにらむ香里。


「あと、紗世が死んだ場所、あそこにも一度行きたいわ。なにかわかるかもしれ


ない」


「でも、お父さんと弟さんが亡くなった場所でも……」


「うん。あれから行ってないし、それにふたりが地縛霊になってるかもしれない」


「ああ……」紗世がいる以上、ありえない話ではない。成仏していてほしいけれど。


「お花くらい供えたいの」


「じゃ、行くか、田町。今、あそこがどうなってるのかはわからないけど」


「うん。それから──」


「なに?」


「海……も行きたいな」照れるように上目づかいで武志郎を見る香里。


「は?」


「りっちゃんに誘われてるの。武志郎君も大倉君から誘われたでしょ?」


「断ったんだろ?」人前で水着になりたくないと。


「断ったわよ。親友の前で紗世が出てきたらって、そりゃ考えるわよ」


「うん。だよな」絶対に病気だと即断されるだろう。


「でも、そんなことで高二の夏が終わるの、やっぱり嫌なの」


「……今週末だよ、予定」あと四日しかない。


「武志郎君、明日、紗世を説得して。海に連れていくから人前じゃ出ないでって」


「いうこときくかな?」


「きかせて! 一生に一度なのよ、私の高二の夏!」


「わかった、やってみる。ま、あいつも喜ぶかも。江戸の町から出たことないみた


いだし、近所の品川の海にも行ったことないのかもしれない」


「喜ぶわよ、きっと。武志郎君と海を見られたら」


「は?」


「こんな可愛いヘアピンを選ぶ乙女だからねー、紗世は」香里は武志郎の右目に向


かっていった。そんな挑発は逆効果ではなかろうか?と武志郎は思う。


「そんなわけで武志郎君、明日は田町。明後日は水着買いに行くのつき合ってね」


「水着? 恥ずかしいだろ」


「紗世のヘアピンは選んだくせに」


「買い物のレベルが……ま、いいや。で? 宿題は?」


「自己責任ということで」


「かんべんしろよ、マジ」


「嘘。水着買ったあとはみっちりやります。宿題だけ終わらせればいいってもんじ


ゃないんだからね。武志郎君、明らかにほかの人より遅れを取ってるんだから」


「まあ……」六月のころのモジモジ香里と同一人物とは思えなかった。ただ、武志


郎はそれが嬉しくもあったので問題はない。


 問題は、もうひとりの乙女の方であるなあと彼は思っていたのだが、その夜、


香里の方にとんでもない大問題が勃発(ぼっぱつ)した。


(つづく)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ