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第二章 夏の亡者 8

挿絵(By みてみん)


       8


 武志郎が香里の家を訪れるのは六日ぶりのことであった。メールには時間指定も


なにもなかったので、以前同様、午前九時三十分には家の前に到着していた。


そして二階の彼女の部屋を見上げる。どういうつもりで呼んだのだろう? 武志郎


の中で恐ろしい妄想が広がる。たとえば、香里の母がいて、有坂律子がいて、丘蓮


美がいて、四対一で吊し上げを食らうとか? そのていどじゃすまなくて警察官が


待機していて、婦女暴行容疑で逮捕されるとか? ないないとは思いながら、なか


なかインターホンを押せない武志郎は文庫本を郵便受けに投函して帰ろうか?とも


考えたけれど、香里を心身ともに傷つけてしまったことは事実、許されるとは思え


ないが、もう一度、会って謝れるのならそうしたい。香里の顔が見たい、香里に会


いたい! 彼はインターホンを震える指で押した。すると、すぐに玄関のドアが音


もなく開き、いっさいの感情を廃したデスマスクのような香里の顔がのぞく。


「入って」


「…………」武志郎はただうなずくことしかできず、奥に消えた香里のあとに続い


た。


 彼の妄想した事態にはもちろんならなかった。家はいつも通り、香里以外は誰も


いない。彼女の部屋に入って、簡易テーブルをはさんで向きあうふたり。目線を落


としてなにもいわない香里。いたたまれない武志郎も、言葉が出てこない。以前に


も同じことがあった。香里が一度、武志郎への思いを断ち切ろうとしたときだ。


あのときは結局、不仲なまま家を追い出された。やはりくるべきではなかったか? 


武志郎は迷いはじめていた。しかしここでなぜだか山原勇人から以前いわれた言葉


が浮かんだ。持つべきものは友である。




「とにかくブシローから話しかけてやるべきなんじゃないか?」




 武志郎は、ああ、そうだと思った。香里を傷つけたのは俺なんだ。いつもいつも


俺なんだ。だから謝らなくちゃ! 俺がまず謝らなくちゃ!


「武志郎君」香里がいった。


「は、はい」だらしなく先をこされた武志郎。


「本」


「あ、はい」あわてふためきバッグから『幕末志士義烈譚』を取りだす。


「読んだ?」文庫を手に、パラパラとページをめくる香里。


「読んだ」


「感想文書いた?」


「いや、まだ」──謝らないと。


「ダメじゃない」


「うん」──ごめんなさいっていわないと。


「ごめんなさい」香里が頭を下げた。


「え?」


「ひどいこといったでしょ。私、この前」


「そうだっけ?」


「サイコ野郎とか、死んじゃえとか」


「そうだったかな……」覚えていない。それどころではなかった。


「ひどいこといった。ごめんなさい」


「いや、俺こそ、その……香里を傷つけた。盗撮なんかした。ごめんなさい!」


武志郎は正座の姿勢から土下座した。額をラグマットにこすりつけた。


「それは許してない。けど……顔、上げてくれる? 話しにくいから」


「あ、はい」


「やっぱり、実験とかっていわれたのショックだった。いやらしいことはしてない


っていわれても、それでも、寝てる間、体を勝手にされるのって、すごく……」


「そうだよね、そりゃそうだ。本当にすまなかった」


「これも許してない。絶対、許さない!」


「はい」かしこまることしかできない武志郎。


「武志郎君、この前の動画、まだある?」


「は? あ、忘れてた! 消す! 今すぐ消す!」武志郎がポケットから出したス


マホを香里がすかさず奪いとった。


「見せて録画」


「見たいの?」なんで?


「起動して」


「あ、ああ」武志郎は香里の手からスマホを受け取るとロックを解除し、再生ボタ


ンを押して手わたした。香里は約ニ十分ほどの動画を熱心に見入っている。その間、


武志郎は正座をくずすことなく緊張のおももちでただ再生が終るのを待っていた。


表情からはなにも読みとれない、香里がなにを思っているのかサッパリわからな


かった。


「武志郎君」画面から目を離すことなく香里が声をかけてきた。


「はい」


「この、武志郎君がいきなりひっくり返って眠ったとき、江戸時代に跳んでるの?」


「まあ」


「ふうん。それで毎回、到着時間に差が出るんだ?」


「うん、一回はほとんど一緒だったけど」


「前回だけ少し前に行けたんだっけ?」


「うん、紗世が怒りくるって、我を忘れてつかみかかってきたとき」


「ふうん。紗世さんて凶暴な人なんだ。それで?」


「え?」


「紗世さんて可愛いの?」


「は? いや、顔は見たことない。いつも、その、首が向こうむいてて」


「見たくないの?」


「いやぁ、生首(なまくび)には触れないよ。それに、あっという間に山賀乙に斬られるし」


「信じられない」


「だろうね」


「信じられない、そんな(うらや)ましい話」再生が終ったスマホをテーブルに置く香里。


「羨ましい?」武志郎は目を丸くした。


「だって江戸時代に行けるんでしょ? 山賀乙様に会えるんでしょ?」


「乙様ぁ? 人を斬るんだよ! 斬られるんだよ!」江戸ずきにもほどがある!


「武志郎君」香里は武志郎に向かって右手を差しだした。


「なに?」


「紗世さんもいるの? 私に入ってみて」


「はぁあ! 香里、なにを!?」


「この動画、インチキだったとしても私には見抜けない。だから私も今、この部屋


にカメラを仕掛けてるの。あとでその録画を見て、武志郎君を信じるかどうかを


判断する」


「はい?」なんちゅう突拍子(とっぴょうし)もないことを!


「私が寝てる間にカメラを見つけてもそのままにしておくこと。いい?」


「…………」


「いいですね!」


「わかった、けど……」それもなんだかな、という心境である。先に盗撮した武志


郎にいえた義理ではないが。


「この五日間、考えてて思いついたことがあるの」


「ん?」


「凶暴な紗世さんにつかみかかられたあと、江戸に跳ばされたら到着時間が早まっ


たのよね?」


「ああ」──凶暴な? 香里は引っかかるいい方する、さっきから。


「だったら触れる面積とか、無意識とかじゃなくて、問題は触れる時間の長さじゃ


ない?」


「あ!」──そうかもしれない! あのとき紗世は俺の襟首をしばらく絞めあげて


から江戸へ跳ばしたんだ! さすがは優等生、頭のデキが違う!


「試してみれば? 凶暴な紗世さんも」目に見えない紗世に挑戦的な態度をと


る香里。


「あの、紗世に怒られるの俺だし、凶暴って言葉、たぶん江戸時代にはなかったの


では?」


「あ、そうかも。なら、荒くれ乱暴女の紗世さんも試してみれば!」


「い、いや香里」


「なによ! 好き勝手に人の体を使ってる女に遠慮がいる!? 冗談じゃない!」


「ああ、そうね」


「はい!」目を閉じて、腕を伸ばしてくる香里。


「香里、ありがと。試してみるよ」武志郎は、そっと香里の手に触れた。




「凶暴な紗世でぇ! 文句あっか!」武志郎が右目を開くと、久方ぶりの紗世がい


た。こっちはこっちでプンスカしている。


「紗世、『鉄火小町』なんだろ? 意味調べたけど、荒くれ乱暴女であってる


じゃん」


「うるせぇよ! だいたいおめぇ、ブシロー、香里にいわれっぱなしじゃねぇか! 


情けねぇ野郎だ、男のくせしやがって!」


「はいはい。でも紗世、香里のおかげで出てこられたんだ、ビデオに撮られてるら


しいし、感謝しとけよ」


「なんでぇ? ビデオって」


「これこれ」武志郎はテーブル上のスマホを指さす。


「あん? のぞきからくりけぇ! まーたやってんのか! やらしいな!」


「いいから紗世、香里に礼をいえよ」香里に嫌われたら次はないのである。


「やなこったい! そんなもんはおめぇ、人さまからいわれてどうこうするもん


じゃあるめぇ。わっちがいいたくなったら勝手にいうよ」


「香里に恩を感じないのか?」


「感じてるさ! けど、香里だってわっちに恩があるだろが!」


「なんだよ、それ。ないだろ? 一方的に取り憑いてるくせに」


「バカ野郎、香里のおっかさん助けたのは誰でぇ! わっちだろが」


「あ……それいう?」実は先日、香里に事態の説明をしたとき、姑息(こそく)だとは


知りつつその部分の話をあえて外していた。いえば好かれている最大の要因が消え


て、ますます嫌われると思ったのである。こんな形でバレるとは想定外であった。


「……まぁだがよ、あんとき、おめぇが助けに跳ばなけりゃ、わっちもおっかさん


を助けられなかったなぁ。とすると手柄は半々か。まぁそういうこったな!」


紗世はそういってハハハと豪快に笑い、武志郎の肩を叩いた。そして耳元でポソリ


と囁く、これでいいか?と。


「ああ、おう」珍しく紗世が空気を読んでくれたらしい。いいとこあるじゃないか


と武志郎は嬉しくなった。


「思えば、あれだな。わっちら三人、因縁(いんねん)(ふけ)ぇよな」


「だから紗世は香里に憑けるのかな?」このあたりの話は香里も聞きたいだろう。


紗世はどうせ答えられないだろうけれど。


「かもしんねぇな。けどよ、近ごろのおめぇら見ててわっちは思うぜ。香里だから


憑けるんだってよ」


「だからなんでよ? わかったのか?」以前、同じ質問をしたときの答えは、勝手


にこうなった、であった。


「知りてぇのか?」


「ああ」


「てめぇで考えな! いや待て、ことと次第によっちゃあ教えてやらねぇことも


ねぇぜ」


「えらく恩着せがましいな」


「ブシロー、前に西郷芋野郎の銅像がどうしたとか抜かしてたよな? 銅像たぁな


んでぇ?」


「え? ああ、銅で作った、なんていうか人形かな?」


「ああ、こんなか?」紗世は手で子供用の人形サイズを示してみせる。


「いや、たぶん、等身大。あ、俺らと同じくらいの大きさ」


「ほーう、でけぇ仏像みてぇなもんだな? なんでそんな物があるんでぇ?」


「明治維新の英雄だから」といってからあわてて「勝った方のいい分だけど」と


つけ加える武志郎。まさに勝てば官軍、負ければ(ぞく)(ぐん)であるが、紗世の立場


はどちらともいえない。侍同士のクーデター、もしくは革命の名もなき犠牲者。


それが紗世である。


「見てぇな、英雄殿。どこにいる? 西郷」


「上野公園かな?」実は武志郎も実物を見たことがない。


「上野け、そうかい。どんな顔した野郎が()(ぼう)(さま)を、わっちらを苦しめたのか


見てやりてぇ! ブシロー、連れてってくれ! そうすりゃ、香里に憑ける所以(ゆえん)


話してやるよ」


「足もと見るな。写真でいいだろ?」検索してスマホに画像を出そうとする武志郎。


「写真じゃ、()とばせねぇじゃねぇか!」


「はぁ? 蹴っちゃダメだし、蹴るには香里を連れてかなくちゃならない。どう


しても本物が見たいなら俺の目からでいいだろ? 明日にでも行くか? 上野」


「香里に頼めねぇかな? ちょこっとさ」このちょこっとが紗世に同情的だった


武志郎をイラっとさせた。香里だって名もなき庶民、しかもある意味、戦争被害


者の遺族なのだ。


「バカいうな。これ以上、香里に負担かけられるか! 今、ちょこっとお前が出


てきてるだけで、香里の体力ゴリゴリ削ってんだぞ!」


「……わぁってるよ! がならなくてもわぁってるよ!」叱られた子供がむずか


るような目をする紗世。常に横柄な態度なのでつい忘れがちだが、相手はひとつ


年下の女子である。気苦労がたえない武志郎、男はつらいよ。


「どなって悪かった、紗世。けどさ──」


「香里に惚れたのかい?」


「なんだよ、いきなり」


「惚れたのかって聞いてんだよ!」 


「正直、よくわからない。けど、五日間、会わなかっただけで調子狂うっていう

か……」


「そいつを惚れたっていうんでぇ。バカ野郎が」


「ぁあ! 紗世、よけいなこというな! 録画されてんだぞ!」


「知るけ! だったらわっちも早いとこ成仏しねぇとなんねえな。わっちだって


五日ぶりだってのに、ったく! そろそろ行くかい? ブシロー」


「ああ。紗世、香里の話、聞いてたな?」


「あんましわかんなかったがよ。おめぇの我を忘れる話はどうなったんでぇ」


「あれは忘れろ。とにかく香里は俺より頭がいい、成仏したいなら黙っていう


こと聞け」


「へいへい、惚れた弱みかい?」


「いちいちうるさい」武志郎はスマホの画面にストップウォッチを表示した。


「三十秒でいってみる。いいか紗世、俺に触れ、それで俺がゴーといったら江戸


に跳ばすんだ」


「ごぅお?」といいながら紗世は武志郎の腕をつかんだ。


「ゴーやめ、やれにする。いいか?」ストップウォッチの開始ボタンを押す


武志郎。


「わぁったよ。ブシローがやれっていったら跳ばしゃいいんだな」


「ああ」タイムを目で追いながらうなずく武志郎は心の中で念じていた。今度こ


そ紗世を斬らせないでくれ! 生きている紗世に会わせてくれ、と。


「まだかよ? おい」十五秒。気の短い紗世が()れはじめる。三十秒は案外、


長い。


「──五、四、三、二、一、やれ!」


「行ってこい!」




 炎と煙、いつもの光景だった。さあ、どうだ? どのタイミングなんだ?と考え


る間もなく武志郎は、ちょんまげを頭に載せた男の腹を斬り、返す刀で日本髪を結


った女を斬り殺していた。しかしふたりは少年、少女ではない。どう見ても成人、


中年の男女であった。


「はぁあああ?」当然、何度やろうが人を斬るという行為に慣れるわけがない、


武志郎は恐怖に駆られ悲鳴を上げ、手にした日本刀をやたらめったらに振り回して


いた。その刃先がせまい室内の片隅にうずたかく集積され、燃え盛っていたスーツ


ケース大の竹製の箱、いわゆる行李(こうり)の山を突きくずす。そして間が悪くその足


もとに、煙に巻かれた小さな男の子が泣きながらさまよい出てきた。


「うわっ!」なすすべもなく火だるまの竹籠(たけかご)の束が子供の上になだれかかる。


噴くような火の粉が舞い上がり、仰向けにひっくり返る武志郎! ひどく頭を打ち付け


たらしく、目の前に星が飛びかう! まさか、今の子が──。


「彦五郎坊ちゃん! 坊ちゃん!」女の声! 武志郎はすぐに紗世だとわかった。


「紗世か!」激痛と脳への衝撃でふらつく後頭部を押さえながら体を起こした武志郎は


一瞬、絶句した。くずれた行李の山の中で、頭髪から腰辺りまでを炎にすっぽりくるみ


こまれた和服の少女が、踊るようにのたうち回っていたのだ。「紗世ぉ!」武志郎は周


囲を見まわすが、水道の蛇口など当然ない。──どうする? どうする? 井戸? 


水瓶(みずがめ)!? 水! 「違う! 布団! 布団はどこだ!」脳しんとう半分の


武志郎は入口近くに置かれていた火打(ひうち)(いし)火打(ひうち)(がね)を載せた盆に突っかか


り、上がり(がまち)から土間へと転がり落ちた! 


「この悪党!」すでに火の回りはじめた木戸が開いて、おなじみの甲高い声が響く。


声の主、山賀乙は玄関たたきに尻もちをついていた武志郎を見るなりスラリと刀を抜い


た。


「待て! 乙さん、あれ! あれ!」武志郎は必死で、焼かれている紗世らしき少女を


指さし、山賀乙の足にすがりついた。「乙さん、助けて!」


「……問答無用!」名を呼ばれた山賀乙は一瞬、動揺したようではあったが、武志郎の


言葉を本人の命乞(いのちご)いと思ったらしく、手にした刀をためらいなく振り下ろした。




 気がつくと、武志郎は紗世の膝にすがりついて泣いていた。


大丈夫(でぇじょうぶ)かい? ブシロー」


「香里……紗世か」涙をぬぐいながら顔を上げた武志郎は後頭部に手をやる。もちろん


打撃の痕跡はないが、少しくらくらするようであった。「最悪だ……」 


「ああ、ひでぇもんだったな。何回見てもひでぇ死にようだ、ありゃ」武志郎の目を通


して見た自身の死にざまに、紗世もショックを受けているようである。


「最初に斬ったのが旦那さん夫婦か?」


「ああ、彦四郎(ひこしろう)様に、お結衣(ゆい)様だ」つらそうに目を伏せる紗世。武志郎はここ


で大きく深呼吸をした。


「旦那さんの名前、彦四郎なの? それで息子が彦五郎? 単純だな」


「うるせぇや。代々、男は彦に数をつけるってお家なんだよ、あそこぁ。だいたい、


おめぇの名だって似たりよったりだろが!」


「まあな。そんなことより香里の作戦は正しかった。三十秒でかなり前に跳べたぞ、


紗世!」


「あん? ああ、そういやそうだ。てぇことは、ブシローよ、次はうまくやれそうか?」


「うん。もっと前に跳べれば、誰も死なずにすむかもしれない!」


「おおお! 本当け?」思わず武志郎に抱きつく紗世、しかしすぐに自分の行動を恥じ


るように彼から離れた。「すまねぇ、つい」


「いや。ただ、それでいいのかな?」どこか引っかかるというか、()に落ちないもの


を感じる武志郎。


「なにが? いいに決まってんだろが! おめぇが(あわ)食って葛籠(つづら)ひっくり返さな


きゃ、わっちが坊ちゃんを助けだせるってもんだ。いや、そうじゃねぇ。おめぇがわっ


ちらんとこくる(めぇ)に跳べりゃあ、それで終いだ! もう『大鹿(おおしか)(あん)』にくんな


よ! ははは! やったな、ブシロー!」やたらとはしゃぎ、喋りたおす紗世。よほど


嬉しいのであろう。


「葛籠ってあの竹の箱のこと? あれなに?」


「ああ、あれけ? ありゃタバコの葉よ。たまたま大口の(あきな)いがあって旦那


さんが越後(えちご)からしこたま仕入れたんさ。ったく間が悪いったらありゃしねぇ」


「へぇ、タバコ? よく燃えるわけ──あ!」


「なんでぇ?」


「紗世、さっき何回見てもっていったな?」


「あん? なんのこってぇ?」


「いや、前は斬られて死んだろ? 焼け死んだの初めて……あれ? 違ったっけ?」


「なに寝とぼけてんだ。おめぇ、何度も何度も殺しやがって!」


「俺じゃねぇし! 薩摩の浪士だろ! いや、待て。なんかおかしい……」武志郎は


額をコツコツと叩く。紗世は毎回、焼け死んでいた、そうだっけ? そうだったよう


な気もする。そんな気がしてきた。でもなんだ? この変な感じ。気のせいなんだろ


うな……たぶん。


「おかしなことあるかい! まさかよ、死んでから明日ってヤツに望みがもてるだな


んざ思いもよらなかったぜ! 楽しみだぁ、明日がよ!」


「香里の胸三寸だぞ。いっとくけど」


「てめぇ、先刻(せんこく)から水ばっか差しやがって!」


「香里がもう俺に会いたくないといったら終りだし、会えても凶暴な紗世にはもうな


りたくないといわれたら、俺、どうにもできないし」


「バカ野郎! どうにかしろよ! ブシロー!」


「だからいったろ? 香里に感謝の言葉を伝えろって」 


「…………」


「紗世がいいたくないなら別にいいけど。そろそろ戻れ。香里の体力が心配だ」


「……ま、待て。待ちやがれ!」武志郎が伸ばした手を振り払う紗世。


「なんだよ?」


「おめぇも、わっちと一緒に土下座しな」


「はぁ?」


「おめぇ、死ぬまでわっちに憑かれたままでいいってのか? その方が嬉しいっての


かい? おう、どうなんでぇ!」


「…………」


「ブシローがそういうつもりなら、わっちはいっこうかまわねぇけどなぁ!」腕を組


んで歌舞伎役者のような見得(みえ)を切る紗世。武志郎は年末年始によく耳にする


イョーォという掛け声と、カカカンという冴えた拍子木(ひょうしぎ)の音が聞こえた気がした。


そういうわけでふたりの利害は一致し、不本意ながらそろって土下座する運びとなっ


た。今や香里こそがキーパーソン、(あが)(たてまつ)らなければならない征夷大将軍、


公方様なのである。


「ブシロー、どこ見て口上(こうじょう)すりゃいいんでぇ?」


「とりあえず、机でいんじゃね? そこに香里がいるつもりで」


「わぁった」


 ふたりは簡易テーブルを取っ払い、ラグマットに横並びで正座、香里の勉強机に向


かい一礼する。そして打ち合わせ通り紗世から謝意を伝えはじめた。


「か、香里殿。いつも、すまねぇ。わっちは、ああ、盗人(ぬすっと)みてぇにおめぇ、おめぇさんの


一刻(いっとき)を手前勝手にいただいちまってた。ああ、今日は、そいつを承知の上で(おもて)


に出してもらって、あ、ありがとよ。で、かしこまったものいいは不得手なんだが、


香里、いや香里殿、この通り、礼をいうぜ」ここで紗世はラグマットに額をこすり


つけるように頭を下げた。武志郎もあとに続いて平伏。


「紗世、おい、今後とも」おじぎした状態で武志郎が囁く。


「けぇ! こ、今後ともよろしくお願いいたします……もういいだろ? もういい


よな?こっ()ずかしいんでぇ!」かたわらの武志郎の腕に、顔を隠すようにすが


りつく紗世。


「おい、まだ──」という間に右目に衝撃が走り、紗世は武志郎へと逃げこんだ。




「香里、大丈夫か?」武志郎は隣でしきりに頭を振る香里に声をかける、自身も目の


痛みをこらえつつ。今回の紗世の戻り方は勢いがつきすぎだった、目から頭の芯まで


がジンジンする。


「うん、平気……頭痛の原因、まったくわからなかったときよりはまだ安心感がある」


「あ、そう」そうとう不安だったのだろう。武志郎は久々の正座で(しび)れた足をくず


しつつ思った。本当、毎回、すまないと。


「それより、確認、確認」鉛をつめられたような重い頭に揺さぶられ、フラフラと立


ち上がった香里は書棚の上に置いてある猫のぬいぐるみを手に取り、その背中部分を


ふたつに割った。中からなんと、小型のビデオカメラが出てきた。デフォルメされた


目の部分に小さな穴が開けられている、本格的な盗撮であった。


「マジか?」


「このぬいぐるみには、紗世さんも武志郎君も絶対に触らないと思ったから」


「なるほど」怖い女、とはもちろんいわない武志郎。「映ってる?」


「うん。いい感じ」香里は指先でこめかみをマッサージしつつビデオの再生を始めた。


 通常の自分が映っている部分は軽く流し見し、紗世が現れたあたりからじっくりと


録画を見はじめる香里。武志郎は裁判の判決を待つ囚人の気分であった。ラストの土


下座シーンまで見終えた裁判長、香里は顔を上げて武志郎を見すえた。頭痛は治まっ


たようで、その目は穏やかに澄み、しかし、ロボットのごとく無表情に見える。


「あの、香里?」──信じてくれるだろうか? もろもろ許してもらえるのだろう


か?


「紗世さんとずいぶんと仲いいのね? すごく楽しそう」


「は?」


「ムカつく」


「いや、仲いいとかじゃなくて……」


「へぇ、私のお母さん、助けてくれたのって紗世さんとの共同作業だったんだ?」


「あ……」


「超ムカつく」


「はい」神妙にうなずく武志郎。それ自体もそうだが、なにより黙っていたことが恥


ずかしい。


「──て、いってる時点で私、武志郎君の話、疑ってないんだよね」


「え?」


「超々ムカつく!」


「はい。すいません」


「それで? 私に五日、会えなかっただけで調子狂うんだ?」


「あ……」


「そういった? 武志郎君」


「いった、よなぁ」確かな証拠が動画に残されている。


「なら、信じる」


「へ?」


「信じるし、許す」


「マジか……」ホッとため息をもらす武志郎。


「私だって自分が分裂症だとか思いたくない。このビデオがある以上、私は病気。


それか武志郎君を信じる。その二択だもん、仕方なくよ」 


「なんでもいい。信じてくれてありがとう」武志郎は香里の手を取って、頭を下げる。


「私だって内申点のことじゃ、武志郎君に嘘ついたし……あいこにしとく」


「…………」ええ子やぁ、と武志郎は思う。あいこにできるレベルの話ではないし、


なにより内申点など、遠い昔のことのような気がした。


「それに江戸時代の人の言葉を聞けるなんて貴重なことだし」


「そうなの?」時代劇を見ればいいのでは?と単純に考える武志郎。


「明治になってからしか日本人の肉声は残されてないのよ。現代人は江戸時代の人と


は会話が成立しないって説もあるくらいなんだから」さすがは歴女である。


「成立してるし」


「たぶん紗世さん、気をつかって喋ってるんじゃない? 武志郎君に憑依(ひょうい)して三年に


なるんでしょ? 少しは現代の言葉だって覚えただろうし」


「あいつが気をつかう女かな? たまに空気読むくらいのことはするけど」 


「あいつ? ああ、紗世さんて年下なのよね?」


「うん。十五で死んでるからね」


「じゃ、私も紗世でいいね。紗世も仕方なくお礼いってくれたみたいだから、私も


仕方なく彼女につき合うことにする」そういって笑いをこらえる香里。


「な、なに?」


「紗世、本当に嫌そうに頭下げてた。土下座でビデオに映ってるのは私なのに、紗世


に見えたのが不思議で、おかしくて」


「ああ。確かに」確かに、紗世が憑いたあとの香里は紗世にしか見えなくなる。相変


わらず本人の顔を見ていないせいだろう。


「そうだ。明日、上野へ行かない? 西郷さん、紗世に会わせてあげようよ」


「いいの? 外で出しちゃって」いってから、なんかエロくねぇ?と自分につっこむ


武志郎。しかし香里は気にもとめていないようで、彼はホッと胸をなでおろした。


「図書館でだって出てきたんでしょ? 夏休みだし、私も、その、デー、お出かけ


くらいしたいわよ。紗世がなんで私に憑依できるのかも知りたいし」


「ああ、そんな条件出してたな、あいつ」


「だけど銅像、蹴らせないでね。捕まるの私だから。それから武志郎君、勘違いして


るみたいだけどあの銅像、身長四メートル近くあるからね」


「マジ?」仏像どころではない、それでは大仏だ。


「それに西郷の奥さんがあの銅像を見て、全然似てないっていった逸話(いつわ)もあるの。


これにも諸説あって──」香里はここで言葉を切った。歴女ぶりを発揮している場合


ではないと思ったのだろう。「武志郎君さ、私もビデオ見てて違和感があったの」


「違和感?」

「ちょっと待って」香里はビデオカメラのデータを早戻しする。「やっぱり」


「なにが?」


「これ見て」香里が見せたのは前半、彼女が紗世に憑かれる前のふたりの会話部分で


あった。




香里 『紗世さんて可愛いの?』

武志郎 『は? いや、顔は見たことない。いつも、その、首が向こうむいてて』

香里 『見たくないの?』

武志郎 『いやぁ、●首には触れないよ。それに、あっという間に山賀乙に斬られるし』




生首(なまくび)……生首だよな? 俺がいってるの」武志郎は背中に冷たいなにかを感じた。


「だったと思う。変でしょ? 今、私もなんとなく紗世は焼け死んだって聞いてたよ


うな気になってるんだけど……」


「そうだ!」武志郎はスマホを出して以前撮った動画を再生する。




紗世 『面積、ダメじゃねぇか! まーたわっちを●●やがって!』




「なんだこれ?」スマホの動画も一部の言葉がやはり聞き取りにくくなっていた。


「斬り、とも、焼き、とも取れるわね」のぞき込んだ香里にも緊張が走る。


「あの、これって映画なんかによくある、アレ?」なにか()に落ちない、紗世と


話しているときそう感じた理由、それがこれか? 紗世の死にざま、過去が曖昧に


なっている。


「タイムパラドックス」うなずく香里。「──かもしれない。どっちにしても今の


ところ紗世は死んだし、失礼だけど、紗世の死に方が多少変わっても歴史に大きな


変化は生まれない。けど……」


「もし紗世や、彦五郎が助かったら?」


「武志郎君、今、私の家にいないかも。そもそも今の私たち、紗世の地縛霊が武志郎


君に憑いたところから始まってるんだし」そして紗世が香里の母を助けたところから


である。


「どうなっちゃうんだろ? 俺たち」怪談にSF!? 胡散臭(うさんくさ)いにもほどがある!


「見当もつかない……」


 しばし言葉を失う武志郎と香里。さまざまな憶測と妄想が弾けとび、ふたりの顔色


はどんどんと青ざめていく。とんでもないことに巻きこまれた? いや巻きおこそう


としている?


「……町人の娘や子供が生きてても、世の中たいして変わらないよね?」沈黙に耐え


かねた武志郎はおそるおそるいってみる。


「どうなんだろう? なんともいえない」不安げな表情を浮かべる香里。ふたりは


また押し黙ってしまう。それはそうだろう、本来、幕末の江戸の町で死ぬはずだった


紗世という娘が死ななかったら? 彦五郎という少年が死ななかったとしたら? 


彦五郎は出世して総理大臣などの歴史に名を残す人物になるかもしれない。気性の荒


い紗世が武志郎の父の先祖を殺したら? 彦五郎の子孫が若いころの香里の母と結婚


し、父と出会わなくなったとしたら? そうなったら、今ある現実の歴史はどうなっ


てしまうのか? 武志郎と香里はほぼ同じことを考えていた。すべてが映画やアニメ


にたびたび登場する設定からのみの知識であり、そこにはなんら信憑性(しんぴょうせい)はないのだが、


しかし絶対にないと誰もいい切れない事象なのだ。おそらく、これまでそれを経験し


た者がひとりもいないからだ。


「…………」武志郎は紗世を説得して、彦五郎の救出をあきらめるようにいい含める


ことも考えた。過去の改変をすれば大変なことになると。時間の逆説によって世界規


模、いや地球規模で異変が起こるかもしれないと。しかし、このたとえ話を江戸時代、


幕末を生きた町娘に信じさせる自信はまったくなかった。


「時間? 逆説? 世界規模? 地球? なんでぇそれ? 知らねぇよ、このすっと


こどっこい!」おそらくこんな風にいわれて終わるだろう。すっとこどっこいとは


江戸っ子の言葉で、バカ野郎という意味である。それにこの提案は、どこか紗世に


対する逃げのような気もした。なにから逃げているのかは不明であるが。


「武志郎君」香里は(りん)とした目を武志郎に向ける。


「うん?」


「今後、紗世を出すときは必ずビデオを撮って。私も一緒に対策考えるから」


「香里……いや、こうなったら紗世は出さない方が」


「今は私に気づかって一日一回しか出てこないんでしょ?」そういって香里は武志郎


の手を取った。「だけど、もし彼女がブチ切れたら、今、こうしてるだけでまた出て


くる。何度でも出てくるかもしれない。それが一生続くんだよ。いいの? 武志郎君」


「…………」


「紗世が私にしか憑依できないのなら、私と会わなければいいだけかもだけど。将来、


同じことが別の人でも起きるかもしれない。違う?」


「違わない」初めからわかっていた話である。もはや生涯独身確定かもしれない。


「それにあまりいいたくないけど、私だから信じたんだよ。普通、誰も信じないから


ね、こんな話」


「だろうな」武志郎は香里を頼もしく見た。やはり秘密を共有できる者がひとりでも


いてくれるのは心強い。だが一方で、紗世とは別の意味で彼女に取り憑かれたような


気がして首筋あたりがヒヤリとした。思いすごしであろうけれど。


「でも悩ましい。彦五郎君を死なせなければ紗世は消えるんだもんね」


「あのときの紗世を助ければ、俺に憑いた事実もなくなる。ただ、歴史が変わる可能


性がある。どう変わるか見当もつかない」


「堂々巡りだね。やっぱり、毎回ビデオを撮って検討するしかないみたい」


「助かるよ、香里。正直、ひとりじゃどうにもならなかった。マジで」


「ブシロー! わっちにまかせとけってんでぇ!」


「はぁあ?」武志郎、ぎょうてん! 一歩も二歩も後ずさる。


「なーんてね」


「ざけんな」武志郎は香里の頭をポンと叩いた。


 香里の提案で夏休みの宿題の続きをすることになった。この五日間、香里もまっ


たく勉強に手がつかなかったのだという。武志郎は当然、気のりしなかったし、


この日はプリントの(たぐい)も持参していなかった。すると香里は読書感想文を書け


ばいいと作文用紙を出してくれた。『幕末志士義烈譚(ぎれつたん)』に対してよい印象を抱いて


いなかった武志郎は躊躇(ちゅうちょ)したが、今後も香里とは共闘体制をとっていかなければならない。


ここで角を立てるのは上策とは思えない上、作文もどうせ書かなくてはならない物


なので、取りあえず簡易テーブルに向かうことにした。書きだしに頭を悩ませなが


ら、ハッとした武志郎はバッグからノートを取りだした。紗世とのことでなにか変


わったことがあれば書きとめておけるよう持ち歩いていたいつものノートである。


案の定であった。




『一回目 香里を後ろから抱きしめた→瞬間、紗世が香里に憑依→俺が紗世を抱き

しめる形となる→紗世を■■寸前の江戸。 場所、香里の部屋。時刻、午後六時ご

ろ。触れた所、俺の両腕と手の内側のみ。俺の死に方、後ろから袈裟斬りの上、腹

を斬られた』




紗世を「斬る」と書いたはずの文字がにじんだように消えていた。二回目、三回目


の書き込みも同様である。今、過去は紗世の死に方が斬死(ざんし)か焼死かで揺れている


のだ。どちらかに確定した時点で曖昧になりかけている記憶も一方に定まるのかも


しれない。


「──怖いね」遠慮がちにノートをのぞき込んだ香里がいった。


「ああ、怖いな」武志郎はノートを閉じたが、感想文は一向に進まなかった。


(つづく)


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