第二章 夏の亡者 6
6
「今日、朝飯は食べた?」夏休み七日目、昨日同様、香里の部屋を
訪れた武志郎は、朝一で彼女に質問した。体力が落ちきった状態で紗世
を出すのは危険だと考えたのである。
「ちゃんと食べました」にっこりと微笑む香里。昨日よりは顔色がいいようだ。
「よかった」もし抜いていたら昼食後にするつもりであった。
「でもどうしてバレたのかな? ダイエットしてたの」
「そりゃわかるさ、見てれば」本当は紗世に聞いたのであるが。
「見てるんだ?」香里はなんだか嬉しそうである。武志郎は騙しているようで
心が苦しくなった。
「ああ、そうだ。感想文用の本、なんかいいのない? できれば幕末あたりの小説で」
「あ、いいのあります! ちょっと待って」書棚をじぃっとのぞき込む香里。
「できれば薄い本で……」好意を持たれているのは承知している、そんな女子
をこれからまた苦しめなければならないのだ。当然、いい気分ではない。
『幕末志士義烈譚』という文庫本を借り、宿題を始めて一時間ほど様子を見て
いた武志郎は、消しゴムのカスを払うフリをして英語の問題集に集中
している香里の腕に自分の手をあてた。
「紗世か?」右目を押さえつつ武志郎がたずねた。
「おう。目、痛そうじゃねぇな、慣れたのかい?」
「痛ぇよ。慣れねぇよ」
「け、ざまあみやがれ」
「出てくるなり、なんだよお前」
「はん、おめぇこそなんでぇ! 昨夜、おかしなもん見てやがったろが」
「は?」──エロ本? み、見てねぇぞ! 最近はずっと!
「のぞきなんかしやがってよ」紗世はチラリと部屋の片隅にある猫の
ぬいぐるみを見た。
「ああ。紗世、かわいかったぜ、女の子みたいだった」
「おめぇ、なぐられてぇのか?」顔を赤くして拳を固める紗世。
「まあまあ、ひとつ聞いていいか?」
「なんでぇ? のぞき見野郎」
「紗世こそ俺を毎日のぞいてるじゃねぇか?」
「見たくて見てるんじゃねぇや、たまさかこうなっただけだ。で、
なにを聞きてぇ?」
「……俺に取り憑くまで紗世はどうしてたんだ?」
「あん? そうさなぁ、あのあたりでずっとフワフワしてた。どっか
に行きたくても身動きが取れねぇ。真っ暗闇の中で声も出ねぇ、なに
も見えねぇ、聞こえねぇ、なにも触れねぇってところだったのよ。ああ
思い出したくもねぇや、つらかったんだぜ、長ぇこと。本当によ」
紗世は泣きそうな顔で自分の両腕をいだき、身震いした。
「それって地縛霊ってヤツ?」一五〇年も意識だけがあって
暗闇の中にいた!? 気が狂うだろ? 地獄だろ? ひどすぎるだろ?
「あん? ジバクレェ? なんでぇそりゃ。ま、だから、おめぇに取り憑け
て本当、助かったんだぜ。秋にゃ京都や奈良に行くんだろ? わっちぁ楽し
みにしてんだ」
「はい?」
「旅なんぞ生まれてこの方したことねぇからよ。京っちゃあ、天子様の都だろ?
そりゃあ行ってみてぇや」
「あ、そう」またまた心苦しい。修学旅行のころまで紗世といるつもりはないのだ。
「悪ぃな、横道にそれちまった。それがどうした?」
「いや、もういい」紗世をそんな地獄に戻す気にはとてもなれない。いい
考えだと思ったのだが。香里を守る方法のひとつが消えた。
「そうけ? なら、わっちもひとつ聞いていいか?」
「なに?」
「おめぇ、わっちの死んだ日のこと、なんやかんや、探ってくれてたよな?」
「ああ、まあ」
「ありゃあ、どんな騒動だったんだ? 聞かせてくれねぇか?」
「わかった」武志郎は『江戸薩摩藩邸焼き討ち事件』のてん末を引っかかり
引っかかり説明した。にわか知識であるため香里のように流ちょうには
とてもいかない。それでも紗世は腕組みをしながらじっと耳をかたむけていた。
「──なるほど、そういうことかい。 薩摩の西郷隆盛か! 西郷の
仕組んだ謀、こん畜生が、芋野郎!」バーン!とテーブル
を叩く紗世。顔を真っ赤にして激昂している。
「あんまり興奮するな、香里がよけい弱るんじゃないか?」
「はぁあ! これが怒らずにいられるか! 芋が! 奸賊が!」
「一応、幕末の英雄だよ。西郷は銅像だってたってるし」
「はぁ! 英雄? そんなもんが火付け、押し込みやるのかい? お天道様
が西から昇らぁ! 西郷、ぶんなぐってやりてぇ!」
「いやいや薩摩だけじゃないから。長州の桂小五郎なんかもさ──」
「はぁ? 芋だけじゃねぇ? おはぎもか! 田舎者は田舎にすっこん
でろってんだ!」
「でも、その人たちの活躍で、将軍家が倒れて明治になったんだ。今の
日本があるのもそのおかげなんだよ」──おはぎ? 長州藩のことかな?
「将軍家が倒れた? なんでぇそりゃ! めったなこというもんじゃねぇよ!」
「いや史実だし。史実は難しいか、もう起っちゃったことだから」
「じゃなにかい? 今、国を治めてるのは公方様じゃねぇって
のかい? 御用盗みてぇな非道をした悪党どもだってのかい!
そんなべらぼうな話があるか!」
「幕府のせいでに日本は外国に遅れをとってたんだ。国が変わるために
は仕方がなかったんじゃねぇの?」
「……仕方がねぇだと?」
「ああ」
「わっちらがなにをした?」紗世はこれまで一度も見せたことがないよう
な険しい瞳を武志郎に向けてきた。「お国のためだかなんだか知らねぇが、
わっちら、斬られなきゃなんねぇようなことしたのかい! え? ブシローさんよ!」
紗世は武志郎のポロシャツの襟首を両手でつかみ、絞めあげる。
「旦那さんもおかみさんも公方様のお膝元でまっとうな商い
してただけじゃねぇか! わっちらがお国になにした! え? たった
九つの坊ちゃんがお国にどんな災いをまくって──」
火の手が上がっていた。すでに血のついた日本刀を握っている、
どの時点なんだ!?
「ぅがあああ」甲高い声が煙と炎の中から聞こえた! きた! 武志郎は
反射的に刀を振っていた、みずからも悲鳴を上げながら! おぞましいほど
の哀しい絶叫が響き、血しぶきが武志郎の顔にふりかかる。目の前に粗末
な和服を着た娘が倒れていた。首、そして胴体がほとんど離れている血ま
みれの状態で。そしていつものように顔はみえなかったが──。
「紗世か!? 嘘だろ! くっそぉお!」刀を床に叩きつける武志郎。
「紗世、くそぉ!」その場にへたり込んで板の間をなぐる武志郎。
「この悪党!」山賀乙がきた。座りこんでいた武志郎は、なすすべもなく
背中から袈裟斬りにされた。
「ブシロー、すまなかった」戻るなり紗世が、ラグマットに額をこすり
つけて謝ってきた、あぐらの状態で。「つい、おめぇに当っちまった。
本当にすまねぇ」
「いいよ、別に」それどころではない、どうしてなのか一回目、三回目
よりも少し前の時間に跳べたのだ。寸前が直前に変わったていどではあるが。
「だがよ……」
「だいたい、こういうときは正座でしょ? 江戸時代の人のくせに礼儀
がなってない」
「正座? かしこまるけぇ? お武家様じゃあるめぇし、わっちら、
あんな座り方しねぇぜ」
「そうなの? ま、どうでもいいや。紗世も見ただろ?」
「ああ? おう、また斬りやがって。何度見ても自分が死ぬのは胸糞
悪ぃや」
「俺だって一緒だろ! そうじゃない! 少し前に跳べたんだ」
「そうか? おめぇ、いきなり斬ってたじゃねぇか」
「…………」武志郎は額をコツコツと叩く。おそらく、紗世にはいつも
と変わらないように見えたのだろう。つまり、当人にしかわからない
ほどささいな時間差だったということだ。それでも、希望が見えてきた
のではないだろうか? なにかをつかみかけたのではないか?
「どうしたぃ?」
「なあ紗世、今回と前回でなにか違ったことはなかったか?」
「どういうこった?」
「俺を跳ばすときだよ。いつもと違うことしなかったか?」
「してねぇな」
「ちゃんと考えろ!」
「わぁったよ! ……ああ、そうさな。わっち、えれぇ腹が立ってたからよ、
勢いってか、なりゆきでおめぇを跳ばしちまったな。いや勝手に跳んで
っちまったっていうか……」
「あのとき俺を跳ばすつもりはなかった?」
「ああ、一発かますところだったからよ」
「あ、そう。となると無意識か? 紗世の無意識が時間差に関係するってことか?」
「なにか仕組みを思いついたのかい?」
「いや……同じことまたできると思うか?」
「あん? なりゆきでおめぇを跳ばすことをか? どうだろな? わかんねぇ」
「でも、試してみる価値はある。明日、試してみよう」
「また、わっちを怒らせるのかい? あまりいい趣向たぁ思えねぇな」
「俺だって一発かまされるのは嫌だけど、ほかに方法、やり方があるか?」
「先刻は思わず我を忘れちまったが、さしずめおめぇにゃ恩を感じてるんだ。
そうそう怒れやしねぇぞ」
「恩ね、そりゃどうも。怒る以外に我を忘れる方法、考えてみるよ。紗世
も考えとけ、宿題な」
「しゅくでぇ? わっち学問は苦手だといってんだろ? おっと、そろそろ
消えるぜ。おめぇのヘタクソな芋話が長ぇから香里が弱ってきやがった」
「紗世が死んだ日の話を聞きたがったんじゃねぇか? おう、消えろ、消えろ」
「へへ、ブシロー」
「なんだよ?」
「国が変わるためにゃあ、わっちら町人は死んでも仕方ねぇのかい?
わっちら虫けらかい? おめぇ本当にそんな考えなのかい? だったら、
わっちぁ悲しいな」紗世はそういうと武志郎の手を取り、彼の中へと
戻っていった。
「……紗世」右目の痛みをこらえつつ、武志郎はつぶやいていた。
「ごめん」と。ここで香里が目を覚ました、いつものように頭をかかえ
ながら。よほど苦しいのか、簡易テーブルに落とした目をなかなか上げ
ようとしない。今日はひと悶着あったから、とくに脳神経の
疲弊が激しいのだろうか。やはり紗世を怒らせて無意識を引きだす
作戦は自重するべきかもしれない。
「武志郎君……」
「うん? 大丈夫か?」
「なにしたの?」顔を上げた香里は射るような目で武志郎をにらみつけた。
「え?」
「私になにしたの?」
「なにって……どういうこと?」
「今日、時計見ながら問題集やってたの。ニ十分以上、次の問題に進んでない」
香里はテーブル上の冊子をイライラと指さす。「どういうこと? そのニ十分、
武志郎君、なにしてたの? 私になにしたの? なんでこんなに頭が痛いの?」
「…………」
「答えて」
「…………」
「答えてよ! いやらしい!」紗世なみの迫力でバーンと天板をひっぱたく香里。
「へ?」
「こんなことしなくたって、いってくれれば私!」
「ち、ちょっと待て! 変なことしてない、変なことしてない!
エッチぃことなんてしてない!」エッチどころではない変なことはしているが。
「嘘よ! だから図書館でもラブホ行けとかいわれたんでしょ!?
そんな人だと思わなかった!」立ち上がった香里は武志郎の頬を一発平手打ち、
そしてそのままベッドに顔を埋めて泣きはじめた。紗世ではなく香里に一発
かまされた武志郎も泣きたい気分であった。香里の思慕の情を利用し、裏切っ
ていたことを強く感じた。だからといって安易に話せるわけもない。本当の
ことを喋ったら狂人あつかいされるだろう。
「なんで俺ばっかり……」──俺だって夏休みの宿題、まじめに取り組む
つもりだったのに。俺だって香里と紗世を助けるためにがんばってるのに。
なんで俺ばっかり責められなくちゃならねぇんだ。なんで俺ばっかり……。
「私、もうヴァージンじゃないの?」泣きながら香里がいった。
「はぁ?」武志郎は呆れるより腹が立った。
「ひどい、こんなのひどいよ!」
「…………」腹が立って、もうどうでもいいや、という気になってしまった。
あっちもこっちもどうでもいいやという気持ちに。だからスマホの録画再生
ボタンを押して、香里の前に差しだした。「見てみぃ、俺のしたこと」
「盗撮!」香里の泣き顔が恐怖に変り、凍りついた。それはそうだろう、白馬
の若殿様が悪魔の変質者に変貌したのだから。
「いいから見ろよ! 見てくれよ!」悲鳴のような声を上げた武志郎は、脅す
ように拳を振りあげてみせる。香里はおびえと恐れで震え、視点の
定まらない目を仕方なくスマホの画面に向けた。いうことをきかなければ
なにをされるかわからないと思ったに違いない。しかし見たくはないだろう、
昏睡状態の自分が汚される姿など。
「なに……これ?」動画を見ている香里は、先とは別の意味で戦慄していた。
顔から血の気が引いていた。「これ、私?」
「ああ」いまさらながら武志郎は後悔しはじめていた。腹立ちまぎれにして
いいことではなかったと。ほかの方法を探るべきだったと。もちろんあとの
祭りである。
「嘘! 嘘よ、なにこれ!」上下の歯をカチカチと鳴らしながら、香里は
武志郎を見上げた。「私、多重人格者なの? 病気なの?」
「とりあえず、エッチなことはしてない。それは信じてもらえた?」
「それは、でも、抱きついてたじゃない!」
「いや、ああ、そうだった。あれは面積の実験で……で、でも、それ以上
はなにも──」
「実験!? 実験!」実験という言葉に香里は心底、打ちのめされたようだ。
「いや、あの、香里」
「その実験のせいで私、あんなことになったの?」
「違う、違う、聞いてくれ香里!」
「うるさい! サイコ野郎! 私の病気治して! あんなのやだ!」武志郎
の足をバンバン叩きながら、香里はなりふりかまわず号泣していた。
「香里……病気じゃない、と俺は思ってる。だから落ち着いて聞いてくれ!」
本当のことを打ち明けるしかないと武志郎は思った。昏睡レイプ魔と思われ
た時点で、すでに香里との関係は終わっているのだ。その疑いは晴れたに
しても、解離性同一性障害だと思わせたままサヨナラでは
あまりにもかわいそうである。
香里が紗世の存在を信じようと信じまいと。
(つづく)