第二章 夏の亡者 4
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図書館での学習計画は三日目までは順調であったが、四日目、五日目
は最悪で、はっきりいって少しも進捗はなかった。そこで香里は実に遺
憾だという顔をしながら宣言した。
「七月中だった宿題終了予定を八月三日まで延長します」武志郎は、も
う少しのばしても?と思ったが、香里の表情を見るととてもいいだせな
かった。彼女はプンプンに激昂してていた。昨日は香里自身が武志郎に
思いの吐露を強要した形であったため、周囲から野次馬的注目を集めて
しまったことは仕方がないとあきらめもついた。しかし今日はどうだ?
武志郎は具合が悪くなってイスから転げ落ちそうになった香里を助けよ
うとしただけだったではないか! どうしてラブホへ行けだなんて中傷
を受けなければならないのか! つまり彼女の主観ではこうなっている
のである。当然、香里の体をのっとっていた紗世が武志郎の胸にしがみ
ついたことなど知るよしもないのである。
「図書館はもうやめにします! なんかムカつくんで。明日は家に
きて、武志郎君」
「はぁ? 昼間、誰もいないんだろ? それマズくね?」
「もう気持ちははっきりしたんですか? 昨日の今日で、考えが変った
んですか?」
「というと?」香里の勢いに押されまくりの武志郎。彼女、こんな一面
もあったんだなぁ、女、こぇーと思ったりもする。
「変わってないのなら、武志郎君は私に手だししないんですよね?」
「あ……はい」
「だったら問題ないですよね?……はぁ、悔しいなぁ。自分たちの責任
じゃないことで突然、予定が狂うのって!」
「なるほど」そういうことか、と武志郎は思った。香里は今も許せない
のだろう。なんの責任もない父や弟が、過去の戦争からのもらい事故で
突然いなくなったことを。
「どうすりゃいいの?」自宅に戻り、冷凍庫からアイスキャンディを出
してくわえながら、ベッドに座りこんだ武志郎は頭をかかえた。公平に
見て、紗世や彦五郎の死にしたって本人にはなんの責任もない、まさに
もらい事故のようなものだろう。だからといってこれ以上、香里の健康
をそこなうようなまねはしたくない。
「幽霊ダイエット? それありかも!」と香里が喜ぶとはとうてい思え
ない。しかし昨日たてたばかりの目標、夏休み中に紗世を成仏させる!
はどうなる? どうしたらいいんだ、俺。武志郎はなにかをしていない
と、おかしくなりそうだった。だからといって遅れている宿題をやる気
にはなれそうもない。宿題をするということも目標の内だったはずなの
であるが……。
「しゃあ!」武志郎はまずノートを開き、今日、メモした紗世の死んだ
日について調べてみることにした。
『京王三年十二月二十五日。昼四つころ』そう武志郎はノー
トに記していた。そのせいでスマホ検索をすると、デパートや鉄道の記
事ばかりが出てきた。画面の端に小さく出ていた『慶応三年十二月
二十五日ではありませんか?』という文字を見つけたとき、うわぁ、と
声を上げ、香里の顔が浮かんだ。はいはい、勉強、必要です。
『江戸薩摩藩邸焼き討ち事件』が紗世の死んだ日、慶応三年十二月二十五日
に江戸で起きていた。武志郎はできるだけ簡略化された記事を選ん
で読みはじめる。なにせ聞いたこともない事件なのだ。詳細よりもまず
は概要を知りたかった。
『大政奉還によって徳川幕府は政権を天皇に返上したものの、新しい
体制を作るには戦争で旧幕府を打倒するしかないと考えた薩摩藩の
西郷隆盛は、幕府を挑発するために配下の藩士や浪士らを
差しむけ、江戸市中の豪商を次々に襲わせた。放火や殺人、強盗などの
テロ活動、いわゆる薩摩御用盗事件を引きおこさせたのである』
ここまで読んだ武志郎は、あ、御用盗が出てきた、と当り前のことに感
心した。紗世は本当に幕末を生きた女なのだなぁとあらためて実感した
のである。
『江戸薩摩藩邸に集められた数百ともいわれる浪士たちは、さらに江戸
城西の丸に放火をし、江戸の治安を取りしまる庄内藩の 屯所のひとつ
に銃撃をくわえた。ここにいたり、業を煮やした庄内藩を中心に旧幕陸軍、
前橋藩、 西尾藩、 上山藩、 松山藩 そして
新徴組が合同で出動し十二月二十五日早朝、三田の薩摩藩邸を取り囲んだ。
そこで犯人の引き渡しを要求したが、薩摩側が拒否したため、大砲による
砲撃、討ち入り、藩邸焼き討ちにおよぶにいたった』
「出たな、新徴組。芋侍って薩摩藩のことだったのか、へぇ……」
しかし、ここまでではなぜタバコ屋の一家が惨殺されたのかがわからない。
紗世の記憶違いだろうか?
『迎えうつ薩摩側も奮闘したが、多勢に無勢。戦闘開始から三時間が過ぎ
たころ、火災につつまれる邸内から逃げ出した浪士たちは品川沖に停泊す
る薩摩藩の運搬船、翔凰丸を目ざした。追跡の目をかく乱するため
に道筋の民家の多くに火を放ちながらの逃亡であった』
「これか……」店に放火しているとき、止めようとした一家を惨殺したと
いう筋書きだろうか? 確かに悪党である。山賀乙に斬られても仕方がな
いのかもしれない。「……嫌だけど」
『西郷隆盛の狙い通り、この事件が引き金となり鳥羽伏見の戦いをはじめ
とする戊辰戦争が勃発。その結果、維新がなり、近代国家たる明治新政府
の誕生へとつながっていった』
「ふうん。この事件がなかったら文明開化はなかったってことか」
よく知りもしないくせに知ったかぶりをいいながら、武志郎はスマホに
マップを出してみる。三田の薩摩藩邸跡から品川へ向かうには田町方面を
経由して国道15号あたりを行くのが正解だろう。その途上に不発弾爆発
の現場もある。
「江戸時代は芋侍の放火で焼けて、昭和は戦争で焼けて、平成じゃ爆発か……」
武志郎は、歴史の重みというものを初めて感じたような気がした。
がらじゃないな、と思いながら。
「マジか!」武志郎は目を剥いた。慶応三年十二月二十五日が現在の暦
では一八六八年一月十九日であることを知り、その約一カ月の違いにふと疑問
を持ったのである。そして江戸時代の年齢の数え方は生まれた年を一歳とする
のだということもわかった。そして女性の適齢期が十四歳から十六歳であっ
た事実も。ということは、紗世は結婚適齢期の十五歳? 念のため紗世の生
まれ年である嘉永六年を調べてみると黒船来航の年らしい。そして
西暦は一八五三年。やはり彼女は十五歳であった。
「年下じゃねぇか、ナメやがって」そして七月生まれだと紗世はいったが、
これはほぼ現在の八月だといえる。「来月が誕生日か、あいつ……獅子座か
乙女座ね。どっちも紗世らしいや」獰猛でツンデレなところが。武志郎は再
びノートを開いて、漢字が読めないらしい紗世に向けてメッセージを書き込
んだ。見てるんだろ?と思いながら。
『さよへ ほんとうはとししたのくせになまいきだぞ すこしはひかえおろう』
──なんだか時代劇調のいいまわしになってしまったが、まあいいだろう。
相手は本物の時代劇だし。ふふ、と笑う武志郎。これを見て、紗世、怒って
るだろうな、弟分のくせしやがって! なんて……。
『かおりがよわってる おまえのせいか おまえのせいならやめてくれ
さよだってかおりをしなせたくないよな おれはそうしんじてる おまえが
いいやつだとしんじてる あしたでおうせはさいごにしよう ぶしろう』
書き終えた武志郎は、なんだか泣きたい気分になった。
(つづく)