お化けと幽霊
何故なのか、定時で仕事を終えて帰宅しても出会うことはないのに、いつの日からか、残業をした日の真夜中には、必ず出会う住人が一人だけ、それも同じ住人がいた。
その住人に初めてあったのは、あれは、桜の季節から躑躅の季節に衣替えになった頃の事だった。いつものように残業の仕事を終え、いつものように最終の電車に揺られて、最寄駅で降車した。
駅舎を出て、、人通りもネオンの輝きも疎らになった繁華街を抜けて徒歩で10分。裏通りの閑静な住宅街の一角にある、築の古い13階建てのマンションの玄関ロビーの中に入り、いつものようにエレベーターを待っていた。ぼんやりと突っ立っていると、
チン!
エレベーターの停止音がして、扉が開いた。
ゲージに足を一歩踏み入れたその瞬間、ハッとして、慌てて踏み入れた一歩の足を下げて、元の位置に戻して足を床に着いた。
ゲージの奥角に、白い服を着た長い髪の住人がそこにいることに、その時に気が付いたのだった。咄嗟に、扉が閉まらぬように、上階のボタンを押した。
住人は、エレベーターから降りる際に、軽く会釈した。だが、両眼を覆い尽くすほどに伸びた前髪のせいで、どんな顔付きなのかまでは見分けがつかなかった。
「こんばんは」
と挨拶すると、住人は両腕を胸の辺りまで掲げてブランと下げた両手を重ねて、腰を低く曲げ
「こんばんは」
と、蚊の鳴くようなか細い声で返してきた。その声を耳にした途端、背中にゾッとするような悪寒が走った。
そんな事が合って以来、残業の夜にはいつものようにその住人と出会うようになってしまった。
偶然の出会いは、度重なっていくうちに、当然となり、それが更に重なると必然となる。そして、いつしか気になる存在へと変化していく。
蚊の鳴くようなか細いその声もまた、積み重なるうちに、ウグイスのような耳障りのよい、心地良い声へと変化していき、いつしか、出会いと同様にその蚊の鳴くような声もまた楽しむようになっていった。
そんな日が続いてから二ヶ月が過ぎた。その日も残業だった。いつものように最終の電車に揺られて最寄駅で降車し、繁華街を抜けて帰路についた。だが、あの住人に会えるのだと思うと、道を歩く足取りはいつになく軽やかだった。
そしてそれは、エレベーターを待つ身もまた足取りと同じであった。その心身は疲労感よりもワクワク感に満たされていた。
チン!
エレベーターの停止音が鳴って、ドアが開いた。しかし、その夜のゲージには、誰も乗っていなかった。空っぽだった。その日を境にして住人と出会うことはなくなってしまった。
会うことが常であり、当たり前のことであったのに、その常が当たり前が、常ではなくなり、当たり前でなくなると、何故か味わった事のない寂寞と、ぽっかりと心に穴が空いたような空虚さを感じるようになった。
それが度重なっていくと、不安になり心配になってくる。病気でもしたのか、それとも、事情があって引っ越しでもしてしまったのか。
「それならそれで、言ってくれれば」
挙句の果てに、身勝手なことまで発想してしまう。これが人間の性というものなのであろう。
ゲージに足を踏み入れてから、ふと、急に思い立った。気になるのなら部屋探しをしようではないか。
チン!
と音がして停止し、エレベーターのドアが開いた。
片脚を上げてゲージの外にその足を出したが、床に着地することを躊躇した。と言うのも、勢いで部屋探しをしようと思いついてはみたものの、部屋のチャイムを鳴らして、
「残業の夜に出会ってませんか?」
と住人に聞きながら、一部屋一部屋見て廻るのも可笑しな話だし相手は快くは思わないだろう。
同じマンションの住人であるのは確かだが、その事以外に何も知らなかったことに、その日になって漸く、やっと気が付いたのだった。尻尾を垂れた哀れな犬のようにゲージに戻り、ドアを閉めた。
あれ程までに気にかけていたのに、日増しに出会わない日が増えてくると、何故か、それに合わせるように日増しに、気にかけていたことさえも忘れてしまっていった。
それから数週間がアッという間に流れ去り、盆休みがやってきて、溜りに溜まった有給休暇とを合わせて長期の休みをとった。
休みになっても、暫くの間は早朝起床のクセから抜け出せずにいた。だがこれもまた、慣れればすぐに、そのクセから抜け出してしまった。
その日は昼過ぎに起床して、軽く朝昼兼用の食事を済ませて、外出をした。行く当てもなく、行きたい場所もないままに電車に乗り込んだ。
ゴットンガッタン、ガッタンゴットン、電車の揺れに身を委ねて、うつらうつらしながら薄ぼんやりと、窓の外を流れる街並みの風景を眺めていると、突如、天高く聳え立つビッグな、空をも覆い尽くしてしまそうな大きな観覧車が眼に飛び込んできた。
惹き付けられるように電車を降りて、観覧車のある遊園地へとむかった。
遊園地の中をブラブラとあるいていると、突然にお化け屋敷の看板が眼に飛び込んできた。ここでもまた、惹き付けられるようにお化け屋敷の中に足を踏み入れた。
薄暗い通路を手探りで歩いていると、またまた突如、今度は、なんと、お化けそのものが眼に飛び込んできた。
長い髪、額に当てられた白い天冠、白い着物姿で目の前に突っ立っているお化けは、両腕を胸の辺りまで掲げて、両手をブランと下げたまま
「うらめしや」
ではなく、
「こんばんは」
と、ウグイスのような耳に心地好い声で言った。
「こんばんは」
と、さり気なく口元に笑みを浮かべて返した。
お化け屋敷のお化けは、残業の夜だけ出会っていた同じマンションの住人だった。
「そうですか、あなたは、お化け屋敷のお化けだったのですか」
「はい」
「だから、あなただけにはこの姿が見えたのですね」
「え?」
同じマンションの住人が出会っていたのは、楽しさを求めてさ迷い続けている幽霊だったのだ。