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未来創造社シリーズ

安眠枕

それは静かな空間とも言えた。何もない場所とも言えた。この世界に確かにその空間があって、知っているけれど良くは知らない人がその近くに住んでいるという事は、意識はしないけれど、確かめてみるまでもない事だった。




アパートの中には今朝出し忘れたゴミの袋が残っている。金曜日の彼はどこかしら抜けている。というのも、前日の木曜は深夜までのバイトで、朝は起きようと思っても身体が動かない程に疲労しているからである。冴えない頭で、今が何時なのかを確かめると既に時計は10時を周っている。今更ゴミを出し忘れたことについて残念がるわけでもなく、ただ淡々と「そろそろ起きるか」と思うけれど、そう思っているうちに再び寝入ってしまう。



そのまま時が過ぎればいつもと同じ金曜日である。「今日」がいつもと違うのは…



「すいませ~ん!!」



彼はドアの方から突然響いてきた声に驚いて目を覚ます。「誰だ?こんな時間に…」と思ったが、「こんな時間に」というほど変な時間帯ではないので、心の中で「あ、そっか」と言い直してから急いで玄関に向かった。



「はい。何でしょうか?」



彼がドアを開けるとそこにはいかにもセールスだろうという紅い服を着た女性が、これまたいかにもという感じの大袈裟な鞄を持って、これぞ営業スマイルの見本という顔で立っていた。彼は既にどうやって断ろうか考える前から



「あ…うち、間に合ってますので…」



と女性にとってはクリティカルヒットになるであろう答えを与えた。それを聞いて女性は『ニヤリ』と笑ったような気がした。



「あ、ちょっと待って。今日はそういうんじゃないの。実は私こういう者です」



と言って、無理矢理渡されたのはごく普通に見える名刺。そこには「安心と笑顔をお届けする未来創造社 営業 小松タヨ」と印字されている。



「…小松さん?営業ですよね」



「ええ。営業です」



やはり騙されたと思った。そういうんじゃないのって言っているくせに、売りつけようとする、だから嫌になるのである。彼は何とか断ろうとする。



「もういいですから…ほんと」



「まあまあ、とにかく話を聞いてみてから」



「マジ、今ちょっと疲れてるんです」



こう言われたら、流石にこれ以上攻めないだろうと思うのだが、女性は違った。



「あらそう。だったら丁度良いわ。今日紹介しようと思ったのは、疲れた時にぴったりの安眠枕なのよ」



「は?安眠枕?」



「そう。これを使えば…」





という感じで完全に押し切られ、買わされたのは普通の枕だった。試してみたけれど、確かに気持ちいいが特にこれと言った効果もない、ごくごく普通の枕である。してやられたと思ったわけではないが、あの訪問で貴重な睡眠時間を奪われたかと思うと少し腹が立った。だが、彼自身、そういう感じで押し切られてしまう事が良くあるから、しかたないかと諦めてしまう。



「はあ…寝るか」



と面倒くさいのでその枕で眠ろうとした昼の事だった。



「ちょっと!!居ますか!!」



ドアをどんどん叩く音が聞こえる。何だろうと思って向かうと、叩く音がどんどん大きくなってゆく。



「は、はい。なんでしょう?」



「あなた…」



そこには知らない女性が毛を逆立てて、凄い表情で立っていた。比喩ではなく、本当に寝癖なのか髪が一部はねて目は腫れて、充血している。



「ひぃっ!!」



流石の彼もびっくりした。だが女性はイライラした調子でしゃべり出す。



「あなた、枕買いましたよね。安眠枕」



「は、はい。それがどうしました?」



「どうした?じゃないわよ。あれ、全然効果ないじゃない…。でしょ?」



「えっ、ええ。効果なかったです。普通の枕です」



「あなたのせいよ…」



「な…何が?」



「私のとこにもあの女が来て、『お隣のあなたが買いましたよ』って言うから効くと思って買っちゃったの…どうしてくれるの?」



「え、、、あ、それはご愁傷様です…」



彼は何となく申し訳ない気分になったが、彼もまた同じ目に遭っているわけで、彼には非が無い。そこで申し訳なく思ってしまうのが彼らしさである。



「あ。そういえばお隣さんなんですね。初めまして…」



「あ、そういえばそうだったわね。始めまして山田と言います」



「あ、僕も山田です…」



「同じ苗字なんだ。まあ珍しくないからね」



「気付きませんでした」



「山田さん。下の名前は?」



「修平です…」



「…」



「…」


一瞬の沈黙が訪れたが、堪えきれなくなって山田と名乗る女性は言った。




「何で訊かないの?」



「へ?」



「だから、あたしの名前」



「いや…苗字で良いかなと思って。名前で呼ぶの得意じゃないから…」



「不平等よ。陽子です。修平さん、名前で呼んでください」



「…」



この流れは一体何なんだろうと思ったが、気を取り直して、修平はとにかく喋る事にした。



「陽子さん。あの…なんかすいません、僕が買わなければ良かったんですよね」



「あたしね、眠れないの。だから枕買ったの。でも眠れないの。どうしてか分かる?」



「そ、それは枕が普通の枕だからj…」



「違うの!!あたしは、昨日彼氏にフラれたばっかりなの。だから悲しくて眠れないの!!」



「は…はぁ。そうだったんですか。それはご愁傷様です…」



修平は、何だかよく分からなくなってきた。



「責任とって、今日一日、私の部屋で話聞いてくれませんか?誰も聞いてくれる人居ないんです…」



すると陽子は目に涙を浮かべて泣きはじめた。ご近所迷惑になりそうだと思ったので、彼女の言うことを聞くことにした。作りが全く同じだけれど、飾りが全く違う部屋で聞かされた話は、とにかく彼氏に未練が残っていてどうしようもないというような内容で、そういう事があまり得意でない修平は、とにかく耐えた。話疲れて、両者ともウトウトし始めた頃になって、修平が「そろそろお暇しますね」と言うと、大分落ち着いた陽子は意外とあっさり彼を解放した。




特にそれ以降、何かがあるわけではないが、朝顔を合わせると「あ…どうも」と互いに挨拶するくらいの関係になったらしい。未だに両者とも、あの効果のない安眠枕を使っているが、不思議と前よりも眠れるようになったそうである。

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