驟雨
木場の妻子の葬儀の日は、未明から降りしきる初夏の雨が路面を濡らして冷え込んでいた。
信号待ちの人々にトラックが突っ込んだという事故で、被害者の数もかなり多く、死傷者数名に重軽傷者十数名と大きく話題になり、TVは連日この事件で持ちきりだったが、さすがに葬式にまでマスコミに出入りされたくはない喪主の希望で、参列者は親族とごくわずかな知人に限定されたために、葬儀はひっそりと行われた。
参列者に機械的に頭を下げていた木場は、目の前に立った者ががくがくと震えているのを見て、相手の顔を見た。血の気が失せた白い顔をした若い男は、目を見開いていながら何も見ておらず、生きながら死んでいるかのような表情だった。くだんの事件の加害者、トラックの運転手だった。事前に、弁護士を挟んで参列してよいのか聞かれており、現場検証で運転手に過失がないのを知った木場は、参列を許したのだった。
運転手は口を開こうとしたが、閉じた。空気が噛みしめた歯の間から漏れる。深々と頭を下げた。隣にいた雇用主の運送会社の社長が支えるようにして腕を掴んでいなければ、その場にへたりこんでいただろう。社長は運転手の肩をがっしりと掴み直し、共に頭を下げた。声の出ない運転手の分も謝罪した。
「この度は……なんとお詫びしていいのか」
「あなた方のせいではありません。……どうぞ、焼香してやってください。妻子も浮かばれます」
二人が再度、一礼し、会場内の席へと向かう。
製造時の設計ミスで、トラックの車軸が折れたのだった。巨大なタイヤが吹っ飛び、制御不能となったトラックは交差点に突っ込んだ。その先の信号を待つ人々に木場の妻がいた。臨月で大きい腹を抱えて。
(そうだ、あの日も雨が降っていた……)
しとしとと降りしきる冷たい雨が、ものを考えないようにしている木場の脳裏に、あざやかに記憶を呼び戻した。
大空襲により焦土と化した東京で、10歳のころ、呆然と立ち尽くしていたことを思い出す。
小さい頃から木場は力が強くて、短気だった。公園の遊具を独り占めにしているような悪ガキがいると、飛びかかっていって殴り合ったものだ。暴力はいけないと親にさんざん叱られるが、暴力でないと解決できない場面が、子供にはたくさんあるのだった。しかし平穏な子供時代は送れなかった。ほどなく戦争が始まり、海軍大将であった父はミッドウェーの海戦で亡くなった。疎開先の親戚に母は再婚を勧められたが、あまり気が進まない様子で、実家に用事があると東京に戻ったところで大空襲に遭い、1歳の妹もろともに行方不明になった。遺体も出てこない。
終戦後、引き取られた親戚に頼みこんで、一回は探しに出たのだったが、あちこちの空き地にはバラックが建てられ、商売が始まり、実家のあった場所には残骸を利用して掘っ立て小屋が作られて別な家族が住んでいて、どうしようもない状況だった。
冷たい雨に降られたあの日の、迷子のような、あてどもない気持ち。いっそ、一緒に行ったら母と妹を守れたのだろうか。たかが10歳の少年に何が出来るわけでもなく、一緒に死んだ確率のほうが高い。それでも二人で行かせるべきではなかったと思う。ついていけばよかった、いや、行くのを止めたらよかったと、ぐるぐると思考は渦をまわり、深く落ち込んでいく。
太平洋の海で亡くなった父の遺体もなく、母と妹の遺体もない。家族の死を信じられず、白昼夢を見ているかのような現実と切り離された感覚で、親切な親戚に世話されて、言われるがままに西日暮里の学校に通った。木場は大柄で体格もよく、因縁をつけられることもあったが、売られた喧嘩はすべて買っていた。胸のうちに燻るものが、喧嘩の相手の登場に、待ってましたと燃え上がるのだった。あるいは、それは八つ当たりであったかもしれない。しかし、腕力もあり度胸もあって体格もいい木場は、おおよそ勝つことが出来た。勝てば舎弟になりたいと頼み込まれる。知らないうちに周囲に使い走りが増える。中学では札付きと恐れられ、教師には疎まれた。しかし、有名になりたい不良に喧嘩を売られ、売られた喧嘩は買わねば男がすたる。そんな訳で悪名ばかりが轟き、舎弟が増えていった。
困った親戚は知人に頼んだらしく、ある日、警官に声をかけられた。
「おう、お前、なかなかやるらしいな。ちょっと来い」
見るからにがっしりと横幅の広い、鍛えられて自信のありそうな男の様子に、うるさいおまわりがと思ったものの、どれだけ強いのか好奇心にかられて、ついていった。行った先は柔道場で、現役の警官たちが稽古に励んでいた。
「おっ、若い子だ! 村山さん、活きの良さそうなの連れてきたな~!」
「どうかな、10分持つか?」
村山と呼ばれた男は、木場に古びた道着を貸した。
その日、こてんぱんにやられた木場は柔道の面白さに目覚めて、道場に通うようになり、喧嘩を買わなくなり、村山に懐いて色々と奢ってもらったり、そののちは導かれるように警官になった。村山の強さ、懐の広さに憧れたのだった。
村山は機動隊に所属していたが、子供好きなのか、道をそれそうな子供がいると声をかけたりするのが得意で、いろんな知り合いがたくさんいた。村山のおかげでやくざにならずに警官になったという者も大勢いたのだった。村山は慕われていて、忙しい合間の飲み会では大勢に囲まれていた。
木場は力の余ってしょうがなかった若い頃、道を誤らずにいられたのは村山のおかげだと感謝していた。
そして警官になってからは職務に精励して、いつか機動隊に行って村山の下につけたらと思っていたものの、そんな矢先に出会ったのが、のちの妻だった。
妻は、夜の蝶だった。煌びやかな衣装で胸元や足を見せて男を釣り、飲ませるだけ飲ませて金を巻き上げる、夜の女だった。
客の少ないときは通りに出て客引きをしていた。木場と目が合うと、「何見てんだよポリ公が」と悪態をついた。はすっぱで性悪な女に見えた。相棒の後輩は、関わらないほうがいいですよと言った。
とはいえ、繁華街を見回ると、顔見知りになってしまう。客を見送っていた彼女が客にタクシーに引きずりこまれそうになり、たまたま非番で居合わせた木場が助けたのだった。
「お前に何の関係があるんだよ!」
男は憤ったが、黒服が駆けつけてきて、渋々と引き、逃げるようにタクシーで走り去った。黒服は木場に礼を言った。市民を守るのは警察の仕事だから、と木場は言い捨てて去った。同僚に見つかったら、何を言われるか。妻となる女は無言で見送り、何も言わなかった。が、次からは悪態をつくことはなくなり、あら刑事さん。えっまだ刑事じゃないの。じゃあ、おまわりさんか。などと、会話が増えていった。構えずに気取らない笑顔を見せるようになった。
ある雨の夜に、公園のベンチでひっそりと座る彼女を見かけて、声をかけた。
「何やってんだ、傘も差さないで。冷えるぞ。……何かあったのか」
「……」
彼女は黙っていた。店の派手な衣装ではなく、普段着だった。ジーパンにトレーナーという簡素な服装だったが、ぐっしょりと雨に濡れていた。
とにかくどこか雨宿りを、と思ったものの、自宅のアパートに連れていくしかなかった。男の一人暮らしで寝に帰るだけなので、掃除もろくにしていない。万年床とほこりっぽい室内を、彼女は嫌そうに眺め回した。
「きったない部屋……」
「文句いうな。これタオルと着替えな。とっとと着替えな、風邪ひくだろ」
一式を渡して、部屋の外で待つ。六畳一間のアパートは、玄関とトイレは共同、風呂なしという物件で、当時は珍しくもないつくりだった。
濡れた長い黒髪を拭きながら、彼女が不満そうに顔をのぞかせた。着替えは済ませたらしく、木場の貸したシャツとジーパンはだぼだぼだった。
「ベルトないの?」
「ほらよ」
タンスの奥に眠っていたやつを探り当てて渡す。
「じゃあ行くか」
と玄関の共同の傘立てから傘をもう一本抜き出して渡し、二人で銭湯に行った。
下駄箱に靴を入れて上がると、まず休憩所になっている。TVとソファがいくつか置かれていて、自由に使えた。有料のマッサージ椅子などもある。
「男」「女」と書かれたのれんの奥が、それぞれ男女の脱衣所に分かれている。入ったすぐが番台で、一段高いところにあり、番台ごしに覗けないようになっているが、声は届く。
「払っとくから、ゆっくりあったまれよ」
「えっでも……」
「いいから。風邪ひくだろ」
「…………わかった」
番台の店主に、彼女のぶんも木場が支払い、風呂に入って汗を流した。
女の風呂は長いというから、入り口にある休憩所で待ったが、そう遅れずに彼女は出てきた。派手な化粧を落とした彼女は、年相応に若くあどけなく見えた。
「お金返す……」
「いいよ、はした金だ。何か飲むか」
「じゃあ、フルーツ牛乳」
冷蔵ケースから瓶のフルーツ牛乳と缶ビールを取り、番台に金を渡す。
「ほらよ、奢りだ」
「ありがと」
休憩所では、風呂上がりにだらだらとTVの野球中継など見ながら連れを待ったり、常連客同士で会話を楽しむ者もいた。この時代、各家庭に風呂は作られるようにはなってきたが、アパートなどは風呂なしが基本で、まだまだ贅沢品だった。独身者には銭湯が頼りで、家庭もちにはたまの贅沢で、子供たちには遊園地のようなものだ。早い時間は交流を楽しむ老人が多く、遅い時間は独身者、たまの広い風呂を楽しむ家族連れなどもいた。土日などは同級生たちと銭湯を楽しむ小中学生も多かった。
ソファに身を沈めて、並んで風呂上がりの一杯を楽しんでいると、フルーツ牛乳を一気飲みした彼女が、ほっとしたように、ぽつりと話した。
「今日はありがと。なんでこんなに親切にしてくれんの? 気色悪っ、とも思ったけど……」
「下心はねぇよ。俺はおまわりさんだ」
「誰にでも、こうなんでしょ。ほんと、これだからね」
呆れたように笑う彼女には夜の公園で思い詰めていたときの名残はなく、問い詰めるのもどうかと思った木場はそれには触れず、ややあって銭湯を出た。
雨は止んでいて、彼女のアパートへ送る旨を申し出た。
「物騒だしな。こないだも、裏通りでひったくりが出たし」
「じゃあ……頼むか」
並んで夜道を歩く。彼女の洗い立ての長い髪がなびいて、シャンプーの香りが漂った。
「あたしさ、妊娠しちゃったみたいなんだよね。どうしようって思ってたけど……産もうかなって」
さらりと、何でもないような調子で、彼女が言う。
「父親は?」
「誰か分からない。誰とでも寝る女じゃないけど……まぁ、色々あんのよ。妊娠が分かったときは堕ろすしかないかって思ったけど。やっぱりなんか……産もうかなって。父なし子なんて苦労しかしないのにね。なんでかな……」
「…………」
よくある話だった。夜の女が妊娠して産む。子供は私生児で苦労する。吐いて捨てるほど、よくある話だ。ただ、なんだか木場は、胸の内側を釘でひっかかれたような気持ちになったのだった。しかし、口では「そうか頑張れよ」と月並みな返事をした。
「まぁなんか……色々ありがと。またね、おまわりさん」
ここが自宅だと、彼女は二階建てのアパートの鉄の階段を慎重に上がり、てっぺんで手を振った。
「早く寝ろよ」
木場は声をかけて、帰路についた。
それからは何をしていても、彼女はどうしたろうか、お腹は大丈夫なのか、仕事は続けるのか、それとも辞めるのか、頼る人はいるのかなどと、仕事中も気になって、気もそぞろだった。
警邏で彼女と出くわすと、ぎくしゃくする。相棒の後輩は目ざとく気づいて、「ははぁ~なるほどね、でもねぇ……どうかなぁ」とにやにや笑った。
「そんなんじゃねえよ」と言ったものの、気持ちは収まらない。
そのうち、彼女は勤めを辞めた。見かけなくなって、スナックの店主に聞いたら、辞めたというのだ。
木場は仕事を終えてすぐ、彼女のアパートに行った。呼び鈴を鳴らすと、しばらくして薄いベニヤ板のようなドアが開いた。
「あー、おまわり……さん。ちょっと入って」
彼女のアパートは六畳一間のトイレつきだった。木場を玄関に立たせたまま、トイレに入って、水を流した。嘔吐する音がした。
「お待たせ……なんの用」
彼女は髪もぼさぼさで、適当に一まとめにしていて、化粧っけもなく、目の下には隈があって、ぐったりしていた。
「悪阻か。ひどいのか」
「まぁねぇ。なんか、こないだから……」
言うが矢先に、またトイレに飛び込む。吐いている。水を流す。そしてぐったりした顔で出てくる。その場にうずくまった。
「……大丈夫かよ?」
「これが大丈夫に見えたら目がおかしいでしょ……」
それで何の用なの、と呟く。
「仕事辞めたっていうからさ。その後どうすんだよ」
「どうもこうも、こんなじゃ働けないって。どうすると言われても……生まれるまでは貯金で、なんとか頑張るしかないじゃん」
「…………」
木場は余計なおせっかいだろうか、と考えた。考えながらも、言葉が先に出てしまった。
「……余計なお節介かもしれねぇけどよ」
「なに?」
うるさいな、という顔で彼女は木場を見た。
「よかったら結婚しねぇ?」
「…………はっ??」
目を丸くして、彼女は上体をなんとか起こし、木場を睨みつけた。
「からかってんの?」
「いや……前から思ってたけど。なんか気になるんだよな。ほっとけねぇ。このまま見ないふりするのは簡単だけど、お前がどこで何していつ子供産んで、その後どうするのかとか考えると気になって気になって、だいたいもうちゃんと産院とかかかりつけとかあるのかよとか」
「そりゃ、産む産院くらいは決めてるけど……」
彼女は首を傾げた。
「誰にでもそんななの?」
「会う女全員に結婚申し込んでたら体が足りないだろ」
「……同情なの?」
「同情で結婚してたら体がいくつあっても足りないだろ」
「つまり……結婚したいほど、あたしが気になる?」
「最初からそう言ってるだろ」
「うーん……」
腕組みをして眉根を寄せて彼女は考えこみ、一時、悪阻を忘れたようだ。
「そうだ、とりあえずメロン。メロン食べたい。安いのでいいの。買ってきて」
「分かった」
この時期にメロンはなかなかなくて、銀座の百貨店にまで行って買う羽目になった。
メロンを持ってきた木場に、彼女は「やったぁ!」と喜ぶだけで結婚の承諾もなにもなかったが、彼女の世話をするために彼女のアパートに通うようになり、そのうち一緒に住むことになり、結婚するかという話になり、けっきょくは結婚したのだった。
「…………」
結婚の報告をしたときの恩師、村山の顔を思い出す。
「案外、お似合いじゃないか」
夜の蝶といえば性悪な女が多いので、反対されるかと思っていたが、悪阻も落ち着いてきた彼女はにこにこと愛想よく振る舞い、周囲の受けはよかった。親戚の養父母も、妊娠させてから結婚だなんて……と言いつつも、しょうがないなと笑っていた。割合、あたたかく受け入れてくれたのだった。腹の子が木場の子でないことを知るものは少なかったが、村山には話しておいた。村山は、「お前は本当にそういうやつだよ」とため息をついて苦笑していた。
腹が目立つ前にと結婚式を挙げ、披露宴はごくひっそりと、わずかな知人や親戚、同僚を招いた。周囲は木場が真面目なのを知っていたから、「お前ができ婚するとはねぇ」と意外さに笑いつつも、祝福したのだった。
妻が水商売の女だったというのも噂で知れ渡っていたろうが、面と向かって揶揄する者はおらず、結婚後は木場の養父母と住み、貯金して、いずれは別に家を建てようということになっていた。
あたたかい家庭を知らないという妻は、養母が親切なので嬉しかったようだ。養父母も娘が出来たと喜んでいた。妻と養母が一緒に台所に立ち、料理など教わる様子を見ていても、楽し気だった。
妻は木場に生い立ちを語り、母親は女手ひとつで育ててくれたけど家に男を引っ張り込むような女で、娘に冷淡で、ああはなりたくないと思っていたけど、結局は水商売の道に進み、親子って似るのね……とため息をついた。木場が「お前と母親は違うだろ」と言うと、そうかもねとは言うが浮かない顔だった。
「子供の父親とか気にするなよ。どうせ人類は遡れば一組の夫婦に行きつくんだろ。人類皆兄弟だ」
と木場が励ますと噴き出し、「そうかもね」と少し明るい顔をしたのだった。
いよいよ臨月に入り、妻はしんどそうだった。養母は運動も大事だけど、無理はするなと心配げだった。養父はおろおろしている。
悪阻も落ち着いて、妻は牛馬のように食べている。食べ過ぎるなと医師には注意されるらしいが、養母も妻も気にしていない。「二人分食べないといけないんだから」と当然の様子だった。
(子供が生まれるのか……)
教養には自信のない木場と妻は相談して、名付け親を村山に頼んだ。いちおう養父母の顔を立てるべきかと先に聞いてみたが、自分たちで考えたほうがいいというので、考えあぐね、家族全員で相談のうえ、そうすることにしたのだった。
村山も最初は遠慮したが、二言目で引き受けた。「いい名をつけないとな」腹の子はもう娘と分かっているが、いちおう男女両方の名前を考えておくから、生まれたら教えてくれとのことだった。
ふわふわした気持ちだった。これが幸せというのだろうか。
そんな矢先の事件だった。
帰宅すると、養母が玄関先で腰を抜かしていた。
「母さん、どうした」
「お、お、おち……落ち着いて聞いて」
養母のほうが落ち着いていない。とりあえず支えて、居間に落ち着かせた。養父はまだ勤め先のようで不在だった。
「今、電話があって……」
妻が交通事故に巻き込まれた、という。急いで病院に行かなければと思ったが、腰が抜けて立てないらしかった。
「分かった」
木場は病院名を聞いて、すぐにタクシーを捕まえた。
「この度はご愁傷様です」
機械的な医師の言葉は聞いていなかった。
トラックが歩道に突っ込んだだの、信号待ちの人々のなかに妻がいただの、なんだか色々聞いた気もする。
解剖台の上の妻は、まだほんのりと体温が残っていた。腹の子も一緒に死んでいた。失血死らしいが、この後、解剖して調査するという。葬儀は数日後になるらしい。
6月、初夏にしては梅雨寒で冷えた夕方だった。
大勢が事故に巻き込まれ、ほかの部屋でも遺体の面通しを行っているらしく、廊下から遺族の号泣が響いてくる。
木場はどうも現実感がなくて、妻の遺体を前にしても涙は出てこなかった。
帰宅して事の次第を伝えると、養父母は泣き崩れた。養母は耐えきれないという風にハンカチで目を押さえていた。養父は俯いていた。木場は黙っていた。事務的に、遺体の引き取りのスケジュールを伝えた。葬儀の次第を伝えた。葬儀社の手配をした。
葬儀社の担当に、赤子用の棺について聞かれて、そうか、お腹の子は死産という形になるんだな。生まれなかったけど、ひとりの人間として扱われるんだと思った。
景色と感情に薄膜が張っているようだった。ぼやっとしていた。
通夜にお悔やみに来た村山は沈痛な表情で、ただ木場の肩を叩いて、黙って線香をあげた。職場の先輩も同僚も部下たちも来てくれたが、誰ひとり何と言っていいのか分からない様子で、ただ形通りのお悔やみを口にして、困った顔で頭を下げて、帰っていった。木場は皆の気遣いをありがたいと思わなければ、と思ったが、感情は麻痺していた。
いろんな情報が入ってきていて、トラックの運転手はまったく悪くないことが分かっていた。だから弁護士から連絡が来て、本人が社長とともに葬儀に参列したい、お詫びしたいというのを、受け入れたのだった。運転手は運が悪かっただけで悪くない。では悪いのはトラックの製造元かというと、そうだろうが、目の前にいなかった。木場は拳を握りしめた。
マスコミ関係はシャットアウトしていたつもりだったが、本葬にとある雑誌社の編集とカメラマンが来ていた。雑誌社所属のカメラマンが偶然、あの事故当日に現場に居合わせたので、これも何かの縁と思い……と粘られ、押し問答も面倒だったので木場は取材や撮影しないことを条件に参列を許した。熟年女性の記者は大人しかったが、若い男性カメラマンは落ち着きがなく、好奇心もあからさまにきょろきょろ見回して、編集者にひじで一撃を入れられていて、浮いていた。
記者が座席に名刺入れを忘れていたので、今出ていったばかりだから走れば間に合うかと追いかけたら、斎場を出てすぐの角を曲がったあたりで、大爆笑が聞こえてきた。
「いやほんと……超! ラッキー!! でしたよねぇ、俺ぇ! 目の前で、ぎゅわっとトラックが急カーブ描いて歩道につっこんで、思わずシャッター連写しちゃったもん。一部ぶれてたけど、あとはばっちり撮れててほんと! めちゃくちゃラッキーでしたよ! こんなもん一生に一度の運じゃないっすか!? これマジ、ピュリッツァーも夢じゃないって! ほんっと感謝感謝、いい写真撮れちゃって。マジ大感謝、感謝感激雨あられっスよぉ」
はしゃぐ若い男性カメラマンと、熟年の女性記者の声だった。
「あのねー、喜ぶのはいいけど、こんな場所でダメだって! 被害者は全員このへんの地元の人だし、どこでどう聞こえるか分からないの。社に戻るまで我慢してよ」
たしなめた女性記者は、すぐに背後の気配に気付いて振り返り、顔がひきつった。
「あっ、あっ……あの、あの、……」
詫びを言おうとしているようだが、動揺のあまり言葉にならないらしい。
となりの女性の様子に、けげんそうに背後を振り返った若い男性カメラマンは木場を見て、にやけ顔が強張った。ひゅっ、と喉が鳴る。
「お二人さんよ。俺は今、とても嬉しい。感謝している。忘れ物をしてくれたおかげで、こんな本音が聞けるなんて。どういう偶然なんだろう? ……とにかく、ありがとう。ほら、忘れ物だ」
名刺入れを渡すと、女性記者は狼狽のあまり、取り落としそうになって、お手玉をした。
木場はぼきぼきと指を鳴らし、腕を回して、筋肉の様子を見た。日頃、トレーニングは欠かさない。しかし、妻子が不慮の事故に巻き込まれた事件以降、通夜に本葬の準備で忙しく、運動ができていなかった。少し鈍っているかもしれない。
「トラックの運転手も悪くなくて、トラックの製造元はでかすぎる敵で手が届かなくて、じゃあ俺は、この拳を誰に叩きつけたらいいんだ? ……って、困っていたんだが、ちょうどよかった。お前なら……たぶん、誰もが納得できるよな?」
木場は微笑して、自分よりは頭ひとつ小柄なカメラマンの肩に手を置いた。薄い肩だった。まるで鍛えてなさそうだ。日々、訓練に励む同僚たちとは全然違う。
カメラマンは蒼白になって木場を見上げていた。女性記者はおろおろとカメラマンと木場を見比べていたが、その目が真ん丸に見開かれ、小さく開いた口からは、「あ、あ、あ……」と意味をなさない言葉が呟かれた。
妻子を失った理不尽への怒りと嘆き、悲しみが腹のなかで渦を巻き、どこにも出しようのなかったそれが、今、相手を得て、歓喜して噴出していた。足元から頭のてっぺんまでに焼け石を詰め込んだかのような、腹の中の熱いものが沸騰して脳天を突き、目から飛び出すような感触だった。実際に目から何かが噴き出していた。触れると、ねっとりとべたつく何かが指先についた。見ると、赤い。血だった。目の毛細血管が破裂したのだった。
木場は哄笑とともにカメラマンの頭を両手でがっしりと掴んだ。この男なら、人の死をなんとも思わない外道なら、怒りにまかせて引きちぎっても、潰しても、殴り殺しても、そうされるだけのことはあったのだと認めてもらえるだろう。そして、すべての理不尽への怒りをぶつけるべく、木場は手に力をこめた。頭蓋を潰すのは、二個握ったくるみを潰すより容易かった。バキッ、と潰れたカメラマンの頭部からの血しぶきを浴びた女性編集者は引き絞るような絶叫をあげた。
※ ※ ※
気が付くと、どこかの病室だった。首も手足も拘束され、身動きがとれない。ピッピッ、という規則正しい機器の音と、シュゴーというコンプレッサーらしき排気音が響く。身じろぎして分かったのは、病院の寝間着のようなものは一応着せられていて、腕には点滴、足は機械でくるまれて、寝たきりのような状態だった。頭部にも色々ついていて、起き上がることすら出来ない。
木場が意識を取り戻したことはすぐに機械からの情報で分かったのか、男性の看護師らしき者がすぐに来て、中を覗き、すぐに出ていった。
とっさに呼び止めようとしたが声が出なかった。おーい! と言おうとしたものの、喉からはひゅうひゅうと風が鳴るだけだった。
何度か声を出そうと試みる。かすれた小さな声は出る。長時間、話していなかったかのようだった。ごほごほ、と咳き込む。喉が渇いた。水が欲しい。
ナースコールが視界にあったが、手首も固定されていて、そこまで届かない。
ここはいったい、何なのか。自分はどうして、ここにいるのか。
木場が苛立ちを感じていると、しばらくして、何者かの足音が近づいてきた。とくに怯えも躊躇いもなく、大股に歩く足音だった。
「ようやくお目覚めか。遅かったな」
目の前に立ったのは、まだ若い男だった。高そうなスーツを着て、実験動物を見る研究者か、官僚のような冷たい目をしている。
声の出ない木場が目で問うと、男は頷いた。
「一週間も寝たきりだったんだ、そりゃ多少は衰えるだろう。声はそのうち出る。水はあとで看護師が飲ませる。まぁ黙って聞いていればいい。お前の言いたいことは分かっている。ここはどこだ、あれからどうなった、というんだろう」
はぁ、と男はため息をついた。
「説明が面倒くさい。他の者にやらせとくんだったな。……とりあえず手短に言うと、お前は、一丁ぶんの人間を全員惨殺した。……何人だったかな? 数百人ってところか」
「……?」
数百人、という規模が頭に入らなかった。
男はうんざりしたように腕組みした。
「お前の先祖に狼がいたんだよ。狼……人狼という。狼男のことではない。我々の言葉で、特殊な能力をもつ者。しかし、まぁ似たようなもんかな。お前は虎に似たものに変身し、周辺の住民をすべて殺した。……ほんとさ、後始末をする者の身にもなってほしい。妻子を亡くした事件を特ダネを喜ばれたからって……」
カメラマンとのやり取りを知っている様子だった。なぜそれを、と驚いた。
「お前自身に聞き取り調査をした。催眠暗示の得意なものがいるんだよ。……それはおいといて。自分の立場が分かっているのか?」
立場? と木場は疑問を浮かべる。
「虐殺の犯人として、テロリストとして突き出してもいいが。……もう後始末をしてしまった。身代わりの犯人が逮捕された。かなりセンセーションな事件として、しばらく巷を騒がせるだろうな」
(虐殺……?)
「他人事のような顔をしているが、お前が殺したんだぞ。カメラマン、記者、養父母、恩師、あと上司に先輩に同僚に、親戚の弔問客、近隣の住民……」
(養父母……って、そんなまさか)
カメラマンの頭を潰した瞬間を覚えている。怒りのあまりに目から何かが噴き出していた。涙ではなかった。目の前が真っ赤に染まった。ぱぁん、と軽く潰れた頭部はトマトよりは固くて、くるみのような感触だった。二個を手のひらに握りしめて、割る。あんな要領だ。握りしめた手はもはや人の手ではなかった。獣の手だった。女性記者が悲鳴をあげた。女性記者に手を伸ばした。手には爪があって、バターに切り込むようになめらかに人体に吸い込まれた。血しぶきが何度か上がって、記者はぼろ雑巾のようになった。首筋に噛みついて喉笛を引き裂いた。咆哮した。その先は……。
木場は押し寄せる記憶に、目を閉じた。
「恩師である、なんだっけ……村山。そう、警察関係の。現在は署長だったな。それまで殺すなんて、お前は恩と言うものを知らないんだな」
ぐわん、と衝撃で脳みそが揺さぶられる。
嘘だ! と叫びたかった。
まっとうに生きろ、という村山。一緒に組んでいる後輩。気のいい同僚たち。地元を愛して、盛り上げて守っていこうとしていた人々。そして養父母と地域の人々。向こう三軒両隣のご近所、下町で人なつっこくてお節介でうるさくて、でも親切な人々。商店街の店主たち。おまわりさん、と懐く子供たち。うるさいが憎めない悪ガキたち。
それらを全部、この手で握り潰したというのだろうか。そんなの嘘に決まってる。
嘘だ! 嘘だ! と頭の中で叫ぶ。
「まぁ……覚えていないなら、しょうがないか。ところで面倒くさい話は抜きにして、取引しよう。とっとと先に進めよう。何が欲しい?」
思わぬ話の流れに、木場は目を開けて、まじまじと相手を見た。
育ちの良さそうな、端正な顔の男は、力仕事など一つもしたことがなさそうだ。箸より重いものは持ったことがないに違いない。
「仮に私が悪魔で、契約するなら何でも与えられるとすれば……どうする。お前の一番欲しいものはなんだろうな。……妻子か?」
「…………!」
妻子。しかしそれはとうに失われて、絶対に戻らないはずのものだった。そう、悪魔と契約したにしても。
「やはりそうか。……人ってやつはないものねだりだよな。でも私なら与えられる。……ほら」
ぱちん、と指を鳴らす。
すると、病室のドアから妻が現れた。薄手のワンピース姿で、黒髪はきっちりまとめて、初夏の装いで。両腕には赤子を抱いていた。
「あらら! 大丈夫なの!? 意識が戻ったんだって?」
驚きのあまり起き上がろうとすると、普通に起き上がれた。首にも手足にも拘束があったはずなのに、なくなっている。普通のパジャマを着ていた。
木場が上体を起こすのを妻は助けて、微笑んだ。
「ほら、入院している間に生まれちゃったんだから。抱いてあげてよ」
おっかなびっくり抱くと、赤子はじっと木場を見上げて、穴の開くまで見つめていた。可愛らしい赤子だった。
「女の子……だったかな?」
今では、声も普通に出る。妻は笑った。
「そうそう。たまに医者もうっかり間違えるみたいだけどね。ちゃんと女の子だから。村山さんにも名前つけてもらって、もう出生届、出してきちゃった」
「…………そりゃ、よかった」
なんだろう、何か忘れている気がする。頭の芯がぼんやりとしていて、掴みきれない。しかし、心のどこかが、それでいいんだと囁いていた。
妻はベッドサイドの反対側に立つ男にはまったく気を払わず、気がつかない様子で、ひとしきり木場と話すと、また来るね、と赤子を抱き抱えて、出て行った。そよ風のように。……幻影のように。
木場は、妻子の出ていったドアを、じっと見つめた。
「これは……まぼろしか? 俺の頭がおかしくなったのか?」
「脳神経に作用させれば、人はどんな妄想でも現実と思えるんだ」
と、男が答える。
「妄想」
「願望ともいうか。……これを続けるには代償が必要だ」
「代償?」
「私の配下になれ。お前はいい人狼になりそうだ。こき使ってやる。代わりに魂の安寧をやろう」
「奴隷か……」
嫌だな、と思う。けれど、もう気持ちでは納得していて、否も応もないのだった。拒否したら妻子が消えてしまう。
「分かったよ、何でもやればいいんだろう」
「よし、契約成立だな」
男は枕元のテーブルにあるコップの上に手をかざすと、手刀で手首を切って血で満たした。
「これを飲め。お前はより強く、そして痛みは忘れられる」
「…………」
木場はこの手で殺したという数百の人々を思い、忘れていいのかと自身に問う。しかし、もう答えは決まっていた。真実には耐えられない。
「人って案外、脆いもんだよな……。心までは鍛えられない」
皮肉に呟くと、コップの中身をひと息に飲み干した。
「そう、人の心は脆い。心を鍛えるのは、どんな英雄であろうと不可能なんだよ」
男は頷き、自己紹介した。
「私のことは桜庭と呼ぶといい。……以後、よろしく」
その後、木場は単身赴任になった。
桜庭にこき使われて、日本中、あっちこっちにやられて働いている。
狭苦しい木造のアパートに帰宅すると、タイミングよく黒電話が鳴る。
「お帰りなさい。今日もお疲れ様」
妻が笑んだ声でねぎらう。
「ただいま」
木場が笑って答える。
夫妻はしばし、日常のあれこれを語り合う。
ひとしきり語らって、おやすみと言って電話を切る。
その電話の電話線は繋がっていない。
END




