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おじいちゃんはマグカップの紅茶の表面に映っているものを見つめるように視線を動かさなかった。
「喜びや悲しみにも、大きさはあると思うかい」
「えっ」私は質問の意味が良くわからなかった。
「ちょっぴり嬉しいとか、とっても嬉しいってこと? だったらあると思うよ」
おじいちゃんは頷いた。
「そうだな。同じものでも、想い出がいろいろ残っているものとそうでないものでは、無くした時の気持ちも違うだろう」
「そうだね」
「だから、自分がたくさん気持ちを通い合わせた物や人を失うってことは、それだけ辛いことになるんだろうな。思い入れが強ければ強いほど、喪失感も大きくなる」
おじいちゃんの表情から、私はその人との別れの時が近づいているのを感じた。
「由佳里だったら、どうするかな。自分の寿命が迫っていると知ったら、残りの時間をどうやって過ごす?」
「えー、わかんない」
記憶している限り、私は身内が無くなった経験も無いので、正直言って「死」というものを現実として考えることは難しかった。しかも自分が近い将来死を迎えるとしたら、どうするだろう。私が答えあぐねていると、おじいちゃんはそれを見越したように話し続けた。
「普通の人は、まず絶望するだろう。そしてそのまま死を迎えてしまう人も居るかもしれない。それより少し強い人は、残された時間になにかをしようとするかもしれない。自分のしたい事や遣り残したことを。それが精一杯だろうな。周囲の人も、それをさせてあげようと思うことがせめて自分達ができることだと信じるだろう」
言われてみれば、私にもそう思えて頷いた。
「でも彼女は私達が考えていたより、はるかに強い人だった」
おじいちゃんは片掌で顔を擦るようにした。まるでなにかを拭い去ろうとしているようだった。
「私や彼女の両親は、彼女の希望を叶えるべくいろいろ提案をした。体調が良いのなら旅行にでも行かないかとか。何か食べに行かないか、とか。しかし、彼女はなにも望まなかった。今のままで十分だと言って。
絵に描いたような『平凡な生活』、それが彼女の望みだった。今ならわかるよ。平凡な生活を送ることが、どれほど難しいことかってことが。でも、その時はなにかをしなければ・・・という気持ちが強すぎた。
好きあったふたりの男女が結ばれて、一緒に生活をする。幸せな毎日。永遠に続くように思われるその時間。だが、終わりの時はどんなものにでもやって来る。そして私達の前に現れた終わりは、あまりにも過酷だった」
おじいちゃんは目をきつく結んで指で押さえつけるようにした。今自分の目の前に再現されている過去に耐え切れない様子にも見えた。なにかきっかけがなければ、話し出すことができないように思えた。
「病気が悪化したの?」
「いや、そうだったら諦めがつく。だが私は、とても耐え切れない悲しみと、とても大きな喜びを一度に受け入れなければならなくなった」
悲しみと喜びを一度にと言われても、私にはぴんと来なかった。
「彼女は妊娠した」
「えっ、子供が生めない身体だったんじゃないの」
「そうだ、彼女の身体は出産に耐えられる状態ではなかった。それは彼女もわかっていた。それでもあえて、彼女はそれを選択したんだ」
「それで・・・」
「その話を聞いて、私も初めての経験だったし、とりあえず彼女の母親に連絡した。お母さんは直ぐに飛んで来た。そして話を聞いているうちに、今回の妊娠は彼女が意図したものであったことがわかった。私には良くわからなかったが、彼女が妊娠を告白したのは既に堕胎できなくなった時期だった。それまで隠していたらしい」
おじいちゃんの言っていることは私にもわかった。早い時期に妊娠を告白すれば、危険を回避するために胎児を処分する可能性があったのだ。おそらく医者はそれを勧めたに違いない。
「もう選択する余地は残っていなかった。このまま胎児が育っていけば、彼女は死を覚悟した出産を迎えなければならなかった。
どうしてそんなことをと私達は思ったが、彼女の言い分は違っていた。自分はどちらにしても死期が近い。でもこのまま死を迎えれば、私をひとり残してしまうことになる。彼女にはそれがなにより耐えがたかった。だからせめて、自分の代わりに子供をこの世に残していこうと考えたんだ」
私は相槌の言葉を失った。そんな考えがどこから浮かんでくるのだろう。自分の命を縮めてまで、残される人のことを想うなんて。
「彼女の体のことを考えて、実家に戻って生活することを提案したが、彼女は頑として動こうとしなかった。ここが自分の居場所だと言って。
仕方なく、お母さんが一日おきくらいにここへやって来てくれた。しばらくは私も仕事どころではなかったが、彼女はそれも嫌がった。いつもと同じように生活をしたいと言った。私が仕事をしている姿を見ているのが彼女とお腹の赤ちゃんにとって一番幸せな時間なのだとね。
彼女はいつも私の仕事を見ながら子供に話しかけていた。それは本来ならば生まれてきてから行うことなのだろうが、彼女はそれができない時のために母親としてできることを伝えているようにも見えた。赤ちゃんが生まれる前から、彼女は既に母親をしていた」
私は時々頷きながら、膨らんだお腹を優しく撫でながら話しかける女性の姿をイメージしていた。
「臨月に入っても、彼女はここから動こうとしなかった。さすがに彼女の両親も心配して、お母さんはここに泊まることになって、何かあった時のために直ぐに車を呼べる手はずを整えてくれた。検診の回数を重ねお腹が大きくなるに連れて、私には子供が生まれる喜びよりも、彼女との別れが現実に近づいてくることが実感された。
最後の検診の時、医者が危険をできるだけ回避するために、帝王切開を勧めたが、彼女は頑なに自然分娩を望んだ。医者は自然分娩では命を危険にさらす可能性が高すぎると繰り返し忠告したが、彼女は同意しなかった。
ほとんどの親が一番ワクワクするであろう出産直前の一時期を、私は本当に命が擦り切れそうになる思いで過ごした。そしていよいよその時は訪れた。
いつものように庭で仕事をしていた私のところにお母さんが大声を出しながらやって来た。陣痛が始まったということだった。私はなにをしたら良いか思い浮かべることもできず、『車を』と言われて、慌てて車を呼びに電話へ向かった。
私は良くわかっていなかったから、今直ぐにでも生まれるのではないかと心配したが、お母さんが陣痛の間隔がまだ開いているから大丈夫と言ってくれた。
病院まで行く車の中で私は彼女の手を握りながら、時折苦しそうに顔をゆがめる姿を見ながら『頑張れ、もう少しだ』と言い続けていたが、それは自分たちの時間も終わりに近づいているということだった」
普通の出産でも無事に赤ちゃんが生まれるまでは心配なのだろうが、母子ふたりの命を危険にさらすかもしれない出産は、一緒にいる家族にとっても辛いものだったに違いない。
「それで、病院に着いて・・・」
「まだ直ぐに生まれる状態ではないと言われて、彼女は一度病室に入った。着替えや準備をしている間に、私と彼女の両親は担当医に呼ばれて話をした。医師は、通常分娩はリスクが高すぎるから帝王切開をすることを提案した。帝王切開なら大丈夫というわけではないが彼女の両親も同意して、私も従わざるを得なかった。彼女が嫌がっていることを内緒でやるのはどうしても気が引けたので、もう一度説得してみることにした。
徐々に陣痛が強まってきた彼女の傍で、私は『君も赤ん坊もどちらも失いたくないから、先生の言うとおりにしてくれ』と頼んだ。彼女も最後には、私の決めたとおりにすると言ってくれた。
看護婦さん、あ、今は看護師っていうんだな。看護師さんと習っていた呼吸法を始めると、その時は目前に近づいていた。点滴になにか薬を注入すると、次第に苦しそうな様子も消えていったが、意識がもうろうとし始めた。彼女は何か言おうとしていた。私が聞き取ろうとして、口元に耳を近づけると『ありがとう、最後まで一緒にいてくれて・・、それなのに私はあなたの傍に居られなくてごめんなさい』という言葉が聞こえた。
私もありがとうと言いたかったが、それを言うことは別れを意味するようで、言えなかった。『待っているからな』と言うのが精一杯だった」
おじいちゃんは放心したように一点を見つめたまま、まるで今まで自分が話をしていたのを忘れたようだった。私は恐る恐る訊いてみた。
「赤ちゃんは、どうしたの?」
「赤ちゃん? うん、生まれたよ。女の子だ」
そう言っておじいちゃんは私の顔を見た。
「良かった、それで、その人は?」
「彼女は赤ちゃんが生まれて間もなく、麻酔の中でその産声を聞いたかどうかわからないが、心臓が止まってしまい、それっきり動くことはなかった」
私は口からこぼれそうになる言葉を必死でこらえたが、流れ出る涙は止めることができなかった。
「その時生まれた赤ちゃんが、由佳里のお母さんだよ」
「えっ」
はるか昔の話を聞いていたつもりだったので、おじいちゃんの話が自分の母親につながるとは思ってもいなかった。
「それじゃあ、その人って私のおばあちゃん?」
おじいちゃんは頷いた。おばあちゃんのことは母からも詳しく聞いたことがなかった。母が生まれて間もなく亡くなったということくらいしか知らなかった。でも、今日話を聞けたお陰で、これまで疑問だったことがいくつか解けた。
「彼女は自分の命を掛けて、私に由佳里や由佳里のお母さんを残していってくれた」
私は涙を手で拭いながら頷いた。
「ねえ、おばあちゃんの写真ある?」
おじいちゃんはちょっと驚いた様子だったが、立ち上がって寝室へ入っていった。しばらくすると、二つ折りの写真入れを手に戻って来た。おじいちゃんから手渡されて開くと、そこには一枚のモノクロ写真が貼られていた。おばあちゃんとは呼べない、私の母より若い女性が写っていた。写真屋さんで撮ったものだろうか、椅子に座ってなにも無い背景の中に白っぽいワンピースを着て、長い髪を肩の後ろまで下ろしている。その顔は自分の写真を見ているように、私とそっくりだった。