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「仕事場に戻った私は、それまで以上に仕事に没頭した。

 わずかな時間でもあると、彼女のことを思い出してしまう。だから疲れきって、布団に入った途端に眠ってしまえるまで身体を酷使した。それが彼女を忘れる最短距離に思えた。

 でも、簡単には忘れられないものだな」

「その人から、連絡は無かったの」

「ああ、時々実家に連絡が来ていないか確認したが、電話も手紙も無かった」

 おじいちゃんはカップに紅茶が無くなって、新しいティー・バッグを手にした。

「由佳里は、良いか」

「うん、まだ残っている」

 お湯を注いでティー・バッグを泳がせるように動かしているおじいちゃんの横顔を見ながら、私は冷たくなってしまった紅茶を一口飲んだ。

「そういうの、駆け落ちっていうんでしょ」

 私の言葉に、おじいちゃんは驚いたようだった。

「そんな言葉、知ってるのか」そして直ぐ笑い出した。

「子供だと思っていたけど、由佳里も中学生だもんな」

「駆け落ちまでしようとしたのに、なにも連絡をくれないって、変だよね」

「そうかな、私はそれで仕方がないと思ったよ。両親に説得させられて、家を出られなくなったら、後はもう父親の言うとおりにするしかない。それを私に詫びても、私も惨めになるだけだ」

「そうかあ」

 正直なところ、私にはその辺のことはよくわからなかった。

「忘れることはできなかったけど、思い出さないようにして私は仕事に精を出した。少しずつ自分で作った品物も売りに出せるようになって、それから二年ほどして私は独立することにした。私が作るものは芸術作品ではなくて日常使うような物だったけど、学生時代に伝票運びをしていた叔父さんが商売関係で知り合いの料理屋さんとかを紹介してくれたから、固定客も少しずつ増えてくれた。その頃、ここに移ってきたんだ。

 元は近くの農家の人が、息子に嫁をもらった時に建てたんだが、こんな辺ぴなところじゃ若い者は住みたがらないな。結局街に引っ越してしまって、空き家になっていたんだ。それを人づてに聞いて私が借りることにした。周囲も大家さんの土地だったから、庭に窯を作ることも了解してもらったし、私にしてみれば、最高の場所だった。ここで新しい生活がスタートした」

「そうだったんだ、そんなに前からここに住んでいたんだ」

 私には初めて聞く話だった。

「時間に制約を受けることもなく、好きな時に好きなだけやりたいことができた。仕事も順調で、新しいイメージやアイデアもいろいろ生まれた。私の仕事が一番伸びた時期かもしれない」

「ふーん」

 失恋の痛手を負ったおじいちゃんが仕事に励む姿が目に浮かぶようだった。

「なんか、由佳里にこんな話をするのは変だな」

「そんなことないよ」おじいちゃんは照れてそう言ったのだと思った。

「お母さんからも聞いたことのない話が聞けて、良かった」

 私が微笑みかけるとおじいちゃんは更に照れくさそうな顔をした。

「そうか、由佳里のお母さんにも話していないことも言ったかもしれないな」

「そうなんだ」

 私が物心ついてからは、もちろんおじいちゃんは一人暮らしをしていたから、母とそんな話をしたことがなくても不思議ではなかった。母親と娘なら話す機会もあるかもしれないが、父親と娘では・・・、自分の父親とだってこんなにじっくり話をしたことはなかった。

「話のついでに、おばあちゃんとのことも話してよ。私、おばあちゃんのこともよく知らないから」

 おじいちゃんは目を見開いて私をじっと見据えた。私はまずいことを口にしてしまったのかと思った。

「いけないこと言った?」

「いや」おじいちゃんは驚きを隠すように、私から目をそらした。

 初恋の人の話をした後、直ぐにおばあちゃんの話を訊きたがったのがいけなかったのだろうか。しばらく気まずい沈黙があったが、おじいちゃんは髭を触りながら話し始めた。

「ここに来てから、半年くらい経った十一月の初め頃だった。庭で窯の火加減を見ていると、背後に人の気配を感じた。その頃、近くの爺さんが私の仕事に興味を持って時々覘きに来ていたから、またその人だと思って振り返った。

 でも、そこに立っていたのは爺さんじゃなかった」

 おじいちゃんはこちらへ顔を向け、私の目を凝視した。初恋の人との話はまだ続きがあったのだ。

「立っていたのは、彼女だった」

「えー!」

 大きな声を出してしまい、私は両手で口を押さえた。

「あの人が会いに来たの?」

 おじいちゃんは頷いた。

「私は手に持っていた物をその場に落とした。なにを手にしていたか覚えていないけど・・・。体中から力が抜けて、その場に崩れ落ちそうだった。

 ワンピースに帽子を被った彼女が立っていた。私は幻を見ているのではないかと思った。心のどこかで彼女に会いたいと思っていた自分が、幻を見せているのではないかと。でも、それを打ち消すように彼女が声を発した。

『お元気そうですね』

 そう言って微笑んだ姿は幻ではなく、私の目の前に居るのは紛いもなく彼女だった。

『ど、どうしてここを』

 訊きたいことは山ほどあったが、最初に口を衝いて出たのはそんな言葉だった。でもふたりが庭で立ったままだったことに思い至り質問を変えた。

『ああ、散らかってますが中に入って座りますか』

『お仕事中でいらしたんでしょう、お邪魔をしては申し訳ないですから、よろしければそこに腰掛けてもよろしいですか』

 彼女が視線を向けた先には私が作ったベンチがあった。

『ええ、どうぞ』

 私は傍にあった布でベンチを拭いた。雨ざらしになっているので、拭いたところで綺麗にはならないが、洋服を汚すことはないだろうと思った。

 彼女が座ると、私は少し離れた薪の束に腰を下ろした。ふたりが座れないベンチではなかったが、隣に座るのは気が引けた。

『静かなところですね』

 空を見回しながら彼女は言った。この時期、音を立てるのは鳥くらいしかいなかった。

『仕事をするには最高の環境ですよ』

『寂しくありませんか』

 あなたを失った時のことを思えば今は寂しくなどないと思ったが、口にはしないで苦笑した。

『こちらのことは、ご実家に電話をして訊きました』

『え、家に・・・』

『ごめんなさい。それしか方法が無くって。私が電話をしたら、お母様がびっくりなさってましたわ。でも、私のこと覚えていてくださって・・・』

 母には彼女が家を出て一緒に行くと言った話をした。翌日彼女が来なかったと電話した時、母はそれで良かったんだと諭すように言った。あれから三年近く過ぎていた。

『修一さん、奥様は?』

『奥様? あ、私はまだ独り者です。こんな所に嫁に来てくれる人なんていませんよ』

『そうなんですか』

 私は口にして良いものか迷ったが、このタイミングしかないと思って尋ねた。

『あなたはあの後、結婚して・・・』

 彼女は表情を変えることなく私の顔をじっと見ていた。訊いてしまったことを後悔し始めた頃、彼女は口を開いた。

『きっと修一さんは私を嘘つき女と軽蔑しているでしょうね』

『嘘つきなんて、そんな・・・』

 彼女は頭を振った。

『そう思われても仕方がありません。あの日、私はバスに乗らなかったんですから』

 あの日の自分の姿が蘇った。小さなバス待ちの小屋の中で、私は彼女を待ち続けていた。

『私は約束どおり一緒のバスに乗るために、前の晩から荷物をまとめて準備していました。でも、母にはばれていました。母は父に言ってお見合いを止めさせるから、家を出るのだけは考え直してくれと言いましたが、父が聞き入れるはずがないことはわかっていました。

 私は母に侘びて家を出ようとしましたが、父がそこに戻って来て言い争いになってしまいました。時間が無かった私は、必死でふたりを振り切って家を出ようとしましたが力ではかなわなくて、更に悪いことには、もみ合っているうちに発作を起してしまったんです。そのまま車で病院に運ばれて、私は丸一日意識を失っていました

 それから半年近く入院しました。私の心臓は以前より悪くなっていました。一ヶ月以上ベッドから起き上がれませんでした。修一さんに連絡をしたかったけれどできなくて、でもベッドの中で思ったんです。こんな私が付いていっても、修一さんに迷惑をかけるだけだったと。

 退院できてもずっと迷っていました。こんな身体の私には、人を好きになる資格なんて無いんじゃないかって・・』

 そこまで話を聞いて、私は自分が勘違いしていたことを知った。

『私はあなたを嘘つきだなんて思ったことはなかった。あの時の自分にはあなたを支えることなんてできなかった。もし、約束どおりあなたが来てくれても、私はなにもしてあげられなかったに違いない。でもあなたのことを忘れた日はなかった。できることならもう一度だけでも会いたいと、それだけを願っていた』

 彼女と一緒に私は立ち上がり、彼女をその腕に抱き寄せた」

 穏やかな微笑を浮かべるおじいちゃんの顔を見ながら、私はうるうるしていた。

「再会できたんだ。良かった・・・」

 私は自分の事のように嬉しかった。

「それからその人はおじいちゃんの所へやって来たの?」

「直ぐには無理だったけど、私が何度か彼女の実家へ足を運んで、彼女の両親を説得した」

「よくゆるしてくれたね」

 私と同じように嬉しそうにしていたおじいちゃんの表情に影が差した。

「その頃には彼女の両親もあきらめていたんだ」

「あきらめるって?」

「彼女の病状は以前より悪化していた。もう少し後から聞かされたが、彼女の寿命はそんなに長くないということだった」

「えー」私はテーブルに両肘を付いて身を乗り出した。

「手術すれば良くなるって、言ってたじゃない」

「それはあくまで彼女に希望を持たせるための話だったんだ。その頃の病状は医者にも予想がつかない状態だった。だから、父親も無理に結婚させることはやめて、彼女の好きなようにさせてやりたいと考えていたそうだ」

「そんなあ、それじゃあ、おじいちゃんとも一緒に居られなかったの」

 私は問い詰めるように言った。

「何度か彼女の実家に行くうちに、父親に呼ばれてふたりだけで話をすることがあった。その時初めて彼女の本当の病状を聞かされた。心臓に負担がかからない生活をしていれば、何年かは生きられるかもしれない。それがいつまでかは、誰にもわからないということだった。父親はそれでもかまわないのかと訊いた。

 言いたいことはわかった。一緒になっても、彼女は長くは生きられない。そうなった時に辛い想いをするのは自分だぞ、ということだった。でも私はそれでもかまわないと思った。

もしも彼女の人生が人より短いのなら、その短い時間を一緒に過ごすことで、豊かな人生を過ごさせてあげたい。そう思った」

「おじいちゃんが思ったこと、私にもわかる気がする」

 私がそう言うと、おじいちゃんは満足そうにゆっくり二度頷いた。

「それからの一年間は夢のような時間だった。病気のことなど忘れるくらい彼女は生き生きとしていた。今から考えれば、決して楽な暮らしではなかったが、ふたりの間にはそれを埋めても余りあるものがあった。彼女の実家の協力もあって私の得意先も増え、なにもかも順調に思えた。でもな、本当に幸と不幸は背中合わせ。幸せの中に身を置いていると、直ぐ傍に穴が開いていることも見えなくなってしまうんだな」

「病気が悪化したの?」

「それならまだ良かったかもしれない」おじいちゃんはまた髭に手を当て始めた。

「こんなふうに思うのは、残されたものの宿命かもしれないが、今考えても私がもっと彼女に気を配るべきだった。私の人生で唯一、やり直しがきくのならやり直したいと思う時間だよ」


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