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それからは毎週のようにおじいちゃんは彼女の家へ遊びに行ったという。
「勉強は平気だったの?」私の質問におじいちゃんは苦笑した。
「当時は大学に行く人なんてあまり居なかったから、高三でも受験勉強している人はわずかだった。私も進学する気は無かったしね」
「その人の病気は良くなったの?」
「ああ、徐々に快方へ向かって、三学期には少しずつ学校へも行けるようになった。
天気の良い日には、二人で散歩に行ったりした。家の裏手に小高い山があって、体力をつけるためにも、体調の良い日には運動をした方が良いと言われていた。山の上からは市内が一望できた。久しぶりに坂道を登る彼女は息も荒く足元もおぼつかない様子だったから、私はそれにかこつけて彼女の手を取った。最初は驚いた表情をしたが、直ぐに嬉しそうにしているのがわかった。
それからは天気が良くて彼女の体調が良い日は、誰も居ない裏山に手をつないで登ることが決まり事のようになった。本当に気持ちの良い場所だった。家の中に居る時とは彼女の表情も違って、生き生きとしていた。
『卒業したら、こんなふうには会えなくなりますね』
山の上から町を見下ろしながら、彼女が寂しそうに言った。卒業したら私は陶芸の勉強をしに、住み込みで働くことが決まっていた。日曜だからといって休みではないし、そこからは距離もあり、これまでのように毎週会いに来たりはできなかった。
『でも、きっと会いに来るよ』
私はできるかどうかもわからないまま約束した。それは私の願望に他ならなかった。彼女もそれは薄々感じていたようだ。彼女には高校生活がもう一年残っていたが、その後のことはまだ決めていないようだった。卒業式前には授業もほとんど無く、連日彼女の家を訪れていたが、それはその後に待ち構えている長い不在の日々を埋め合わせるにはあまりに短い時間だった。
卒業式が終わった後にも、私は彼女の家に居た。明日からは町を離れることが決まっていたからだ。彼女の母親はそれまでにも増して、気を使っているのがわかった。でも私の存在をあまり好意的にはとらえていなかった父親は、これでしばらく私が来ないことを知ってか、機嫌が良く見えた。
彼女は言葉少なだった。涙をこらえているのが私にもわかった。これが今生の別れではないと知っていても、これまで週に一度は顔を見ることができたことを思うと、悲しみが湧いてくるのは理解できた。でも私は、夏休みから彼女に会えない日が続き、このまま二度と会えないかもしれないと思っていたことに比べれば、自分が会いに来ようと思えばいつでも来られる今の方が希望を持てた。
休みが取れたら、真っ先に会いに来ると約束して、私達は別れた」
「それで、次はいつ会えたの?」
おじいちゃんは私の質問ににやりとした。
「会社勤めと違って、休みがあって無いような仕事だったから、結局会いに行けたのは秋になってからだった。手紙を書こうと思っていたが夜遅くまでやることが多くて、入ったばかりの私には仕事の終わりは即寝る時間だった。彼女も仕事場に女から手紙が届いたりしたら私が困るのではないかと心配して、控えていたようだ。
久しぶりに会った彼女は顔色も良く、体調も良さそうだった。その日は平日だったから、学校が終わる時間を見計らって行ったのだが、彼女は大分前に帰って待っていてくれた。
『仕事は大変でしょう?』
『確かに学生時代とは比べ物にならないくらい忙しいよ。でも、やりがいのある仕事だ』
本当にそう思っていた。陶芸をやりたいと言い出した時は、さすがに両親も驚いて翻意を望んでいたようだが、私の決心が固いことを知って好きなことをやらせてくれた。右も左もわからない世界で、やること聞くこと全てが初めての連続で、あっという間の半年だった。最近やっと土に触れさせてもらえるようになったところだった。
『修一さん、大人になったみたい。修一さんが作ったものを見せてもらえるようになるのが楽しみだわ』
そう言われても、一体いつになったら自分のものが作れるようになるのか、その時にはわからなかった。
わずか一時間ほどの再会の後、私は乗り継ぎのバスの時間を気にしながら別れを告げた。彼女に会いたいという気持ちが無かったといえば嘘になるが、仕事をしている時は余計なことを考える暇が無かったというのが事実だった。
次に会えたのは正月だった。彼女も卒業を控えていたが、予想どおり進学も就職もせず、しばらくは病気の療養に専念するということだった。私もそれが一番良いと思った。正月用の晴れ着姿で迎えてくれた彼女は、それこそ絵から飛び出てきたような美しさだった。
『こんな綺麗な人を見たことがないよ』
周囲に人が居なくなってから、私はため息混じりに言った。彼女は嬉しそうに微笑んだ。
『今までも、言い寄ってくる男はたくさん居ただろう』
それは私の偽らざる感想だった。
『ううん、みんな私が病気なのを知っているから、学校でも“病弱”が代名詞みたいなものだったし』
『そんなものかなあ』
私はしばらくの間、彼女に見惚れていた。こんな女性が自分のような男と一緒に居るということが信じられなかった」
「ふーん」私はなんだか自分のことのように嬉しかった。おじいちゃんもそんな私を見て満足そうな表情だった。
「だけど、幸せな中に居ると人間は不安を感じてしまうものなんだな。私もこんな幸せがずっと続くとは思っていなかった」
「どうして? ふたりとも好き合っていたんでしょう」
私にはおじいちゃんの言う不安が理解できなかった。
「造り酒屋のお嬢さんと私じゃあ、身分が釣り合わないのはわかっていたよ。学生時代の恋愛ならともかく、それがずっと続くとは正直私も思っていなかった。そりゃあ、続いてくれることを願ってはいたけどね」
そんなものだろうか。もし私が大会社の御曹司と恋愛したら・・・、そう考えてもイメージが湧かなかった。
「特に彼女の父親がそういう考えの人だった。長男に後を継がせるのは決まっていたようだが、彼女にもどこかから婿を取らせて、それを手伝わせるつもりだったようだ」
「へえ、そうなんだ」
「後で聞いた話だが、私が正月に会った後にも見合いが用意されていたようだ。彼女が固辞したために最終的には実現しなかったようだが、その後も見合いの話は来ていたようだ。
その頃の私はまだ一人前の仕事もできず、偉そうなことが言える立場ではなかったから、彼女が見合いをしても口を挟めなかった。
でも彼女の母親は娘の気持ちを察して、体調のことなどを理由に父親をなだめていたようだ」
その頃は今より結婚する年齢も早かったようだし、私にもおじいちゃんが置かれていた立場は想像できた。
「三年目の秋のことだ。私も少しずつ本来の仕事をさせてもらえるようになり、お土産に自分で焼いた器を持って彼女の家を訪れた。
いつものように歓迎してくれた彼女の母親と対照的に、彼女の表情は優れなかった。
『体調が悪いのかい』
私が訊いても、はっきりとは答えなかった。私が持参した器にも、思ったほど関心を示さないようだった。私はなにか隠し事があると悟った。
繰り返し尋ねて、やっと重い口を開いてくれた。
『実は、今週末お見合いをすることになったの』
彼女は視線を伏せたまま話した。相手は取引のある銀行の頭取の三男だという。今は同じ銀行の支店に勤めているが、いずれは彼女の兄を経理面で手伝わせたいというのが父親の目論見のようだ。父親同士の利害が一致したため、具体的な結婚に向けた話も進んでいるらしかった。
『私、お見合いなんてしたくない』
彼女の目からは涙が溢れていた。私はどうしたら良いかわからなかった。まだ一人前には程遠い自分には彼女を養うことは無理だった。
『あなたは私が初めて好きになった人。そしてあなたは私を初めて好きになってくれた人』
彼女は後から後から流れ出る涙を拭おうともせず、私を見上げた。私は彼女の手を包み込むように握りしめた。
『修一さんの居ない人生なんて考えられない』
『それは僕も同じだけど。今の僕には君を養っていくことさえできない』
私は彼女と目を合わせていることができなかった。住み込みで仕事を教えてもらっている私には、彼女を連れて行く場所さえなかった。それは彼女にもわかっていた。
『修一さんがまだ修行の身だってことはわかってる。だから私は自分で自分のことはなんとかするわ』
『なんとかって言っても・・』
『大丈夫、いざとなればなんとかなるわ。私になにができるものかって思っているかもしれないけど、私、やる時はやるわ』
彼女が考えていることが理解できず、私は頷くこともできなかった。
『やるって、なにを』
『修一さん、帰るのは明日よね』
『ああ、そうだけど』
彼女は私の手の中から自分の手を引き出すと、逆に私の手を包み込んだ。
『明日、私も一緒に行く』
『一緒にって・・』私は予想もしなかった言葉に絶句した。
『家にいたらお見合いさせられるのは間違いないから、私出て行く』
彼女は家を出ることを覚悟したようだった。
『出て行くって、どこへ』
『大丈夫、なんとかなるわよ』
彼女は涙を浮かべた顔で無理な笑いを作った。
『なんとかって言っても、無茶だよ』
彼女が健康な身体だったらわからなくもないが、心臓に病気を抱える彼女が今やろうとしていることはあまりにも無謀に思えた。せめて私が傍に付いていられるならともかく、様子を見に行くこともできない所に彼女をひとりにすることなどできるわけがない。私は同意できずにいた。しかし彼女は前々から考えていたようで、その決心は思いつきではなかった。
『明日、何時のバス?』
『二時のバスで帰る予定だけど・・』
『わかった。私も途中から同じバスにのるわ。一緒に行く』
もう私がなにを言っても彼女は聞き入れなかった。夕方になり、私は実家へ帰るしかなかった。別れ際にもう一度他の方法を考え直してみるように言ってはみたが、彼女にそれを聞き入れた様子はなかった」
おじいちゃんはそこで一息つき、無言のままの私を視線の端に捉えると話し続けた。
「翌日、私は言ったとおりの時間のバスで町へ向かった。彼女が乗ってくるはずのバス停が近づいたが、人影は無かった。私はバスを降りて周囲を見回したが、彼女の姿は無かった。
両親に説得させられたのか、それとも冷静に考え直して無理だと思ったのか。どちらにしても私自身ほっとする気持ちもあった。彼女が来てくれたら嬉しいという気持ちの反面、実際に親元を離れて彼女がひとりで生活できるとはどうしても思えなかった。
私は次のバスの時間までバス停の傍の小屋の中で待った。それでも彼女はやって来なかった。
もう一本だけ待ってみた。何人かバスに乗る人はやって来たが、その中に彼女の姿はなかった。安堵と共に沈痛な気持ちを押し込めて、私は次のバスに乗った。
このバス停からこんな重たい気持ちでバスに乗ったのは初めてだった。これまでは、たとえそれがかなり先であろうとも、また彼女に会えるという思いがあった。でもその日は違った。もうこれが最後になると思われた。彼女は見合いをし、父親の敷いたレールの上を歩き始めるに違いない。そこには私の入り込む余地はもうなかった」
おじいちゃんの沈痛な表情で目を伏せた。