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 バスを降りて、家まで走って帰ったおじいちゃんは、自分の部屋に飛び込み手紙を開封したという。手紙には彼女がまだ入院していること、まだしばらくは退院できないこと、退院したら必ずあのバスに乗るという約束が書かれていたそうだ。

 おじいちゃんは紅茶のお代わりを入れに立ち上がった。

「私も飲んでも良い?」

「大丈夫なのか、ジュースも買ってあるぞ」

「ううん、紅茶が飲みたくなっちゃった」

 私の言葉におじいちゃんの口元も緩んだ。

「お湯を沸かさないと足りないから、ちょっと待ってろよ」

 気持ちを過去にタイムスリップしたおじいちゃんに余計な声を掛けるのははばかられたが、どうしても訊きたかった。

「その人って、そんなに綺麗な人だったんだ」

「綺麗なだけの人なら、他にもたくさん居たかもしれないけど、彼女には神々しい何かがあったんだ。恋は盲目と言われればそれまでだが、彼女には内面から滲み出るような輝きがあった。由佳里も可愛いけど、その時の彼女とは比べられない」

「私まだ中二だよ」

 私はちょっとむっとした。これまでおじいちゃんがそんな言い方をしたことはなかったからだ。それだけ彼女のことが好きだった証でもあるけれど。

「そうだな、由佳里もあと何年かしたら、彼女以上に綺麗になるかもしれないな」

 私の機嫌はこの一言で簡単に直ってしまった。おじいちゃんがふたつのマグ・カップを手にテーブルに戻ってきた。

「さて、どこまで話したかな・・・。

 そう、手紙をもらったところまでだったな。手紙を読んだ私は、忘れられていなかったことを素直に喜んで、彼女が退院してまた一緒のバスに乗ってくれる日を待ちわびていた。でも、その日はなかなか訪れなかった。

 十一月の水曜日も三回目が過ぎた。これで私は四ヶ月も彼女の姿を見ていないことになる。それは十年にも等しい長さに感じられた。私の心を支えてくれていたのは、彼女の手紙だけだった。一日に何度も読み返したその文面を、もちろん私は暗記していたし、便箋は折り目の部分から破れかかっていた。

 そして次の水曜日、私の願いも空しくバスはやってきてしまった。私はまたひとりで家に向わなければならないのかと重い足を引きずって立ち上がった。でも、出発時間が近づいたバスに私は幻を見た。いや、それは幻ではなく、待ちに待った彼女だった。夕焼けを浴びてオレンジ色に染まった彼女の顔は、以前にも増して神々しく感じられた。私にとっては、正に待ち続けていた女神に会えた想いだった。私が座っていた席に近づくと、彼女は『向こうに行きませんか』と後ろの席を指差した。バスの後方の席は二人掛けになっていた。彼女は以前手紙を持って来てくれた叔母に腕を支えられるようにしていた。私は目の前に来るまで叔母の姿は見えていなかった。

 立ち上がって二人掛けの席に並んで腰掛けると、叔母は私たちから離れて私が座っていた席に着いた。私は彼女の顔から足元まで目でなぞった。最後に会った時よりかなり痩せていた。検査と言っていたが、病気がそうしたのは明らかだった。でも、そのことには触れないようにした。

『ずっと待っていてくださったんですね』

 私は彼女の目を見つめながら頷いた。

『こんなに長くなるなんて、私も想像もしていませんでした。今月の初めに退院はしたんですが、まだバスに乗るのは無理だと言われていたんです。でも、私もどうしてもお会いしたくて、叔母に無理を言ってついて来てもらいました』

 今日初めて彼女は笑顔を見せた。

『僕も会いたかったです。なかなか会えないので、学校に行ってしまいました』

『えっ、私の学校へ?』

 私が頷くと彼女は小さく声を出して笑った。

『あ、ごめんなさい。そうなんですか、わざわざ学校まで。・・・嬉しいです』

 今度は顔を伏せてしまった。私は何を話したらよいのか見当もつかず、ただおろおろするだけだった。

『あのう、もう体の方は良くなったんですか』

 訊いて良いものかと迷ったが、一番知りたいことを口に出してしまった。

『完全ではないんですが、最悪の状況は脱しました。』

 彼女は前を向いたまま、伏目がちに話し続けた。いつの間にかバスは走り出していた。

『私は心臓に病気を持っているんですが、今の体力では大きな手術は出来ないので完全に治すのは無理なんです。でも、この夏休みに一番危ない、いつ破裂するか分からない部分を切除しました。だからしばらくは心配ないってお医者様が言ってくださいました。その間にもっと手術に耐えられる体力をつけて、手術を受ければ治るって・・・』

 私は初めて知る事実に驚くばかりだったが、治すことができる病気だと聞いて安堵した。結局その日は彼女の病気の話を聞くだけで、バスは彼女を停留所まで運んでしまった。別れ際に彼女は自宅の電話番号を書いた紙を渡してくれた。しばらくは外に出られないと思うので、もし良ければ家に遊びに来て欲しいということだった。私は『必ず行きます』と約束して、彼女と叔母を見送った。

 バスが見えなくなるまでバス停に佇む彼女の姿を、僕も窓ガラスに顔をこすり付けて見送った。その姿が見えなくなると、今まで彼女が座っていたシートに手を置いてみた。温もりが感じられる気がした。私は彼女に触れているような錯覚を覚えながら、余韻に浸っていた」

 おじいちゃんは私の顔を見て、とても優しい表情を見せた。

「でも、なかなか電話が掛けられなかった。

 誰でも携帯電話を持ち歩いている今とは違って、電話を掛けると大抵は母親が最初に電話を取る時代だった。もしかしたら父親が出るかもしれない。私はそんな時なんと言ったら良いかを考えると、とても電話をする勇気が出なかった。

 でも、彼女が電話番号を教えてくれたということは、私からの連絡を待っているに違いない。それだけを支えに私は一週間後、彼女がバスに乗らなかったのを機に電話をする決意を固めた。由佳里達にはわからないだろうな。電話一本するのに、なんでそんなに大げさに考えるのかって。

 予想していたとおり、電話口に出たのは彼女の母親だった。でも私が名乗ると、母親はまるで自分がずっとこの電話を待っていたように喜んでいるのがわかった。しばらく待っていると、彼女が電話に代わった。その時に聞いた声は、私には別世界から聞こえてくる女神の声のようだった。

『ずいぶん待っていましたよ』と彼女は言った。でもその声が怒ってはいないことはわかった。電話ができなかったことを釈明する代わりに、私は日曜日に遊びに行っても良いかと訊いてみた。彼女は即座に快諾してくれた。彼女がいつも降りるバス停からの道順を聞きながら、私は彼女に会ったらどうしようかと、そればかり考えていた。

 もちろん、それからの3日間は上の空だった。頭を殴られても痛みを感じなかったに違いない」

 おじいちゃんはまた私の方を見て微笑んだ。私も微笑み返した。

「約束の十時台のバスは一本しかなかった。私は何を着ていくか迷ったが、結局学生服を着て出かけた。前の晩に母親に話しておいたら、お見舞いに行くのならと言ってどこかからバナナを買ってきた。当時はバナナは普段食べられるものじゃなかった。お祭りの時や病気した時くらいしか口にすることはなっかったんだよ。

 私はバナナの袋を手に、彼女に教えられた道を歩いて行った。でもなかなか見つけられず、うろうろしていると彼女が探しに来てくれた。見つけられなかったのも無理はなかった。私は何度かその家の前を通っていたのだが、まさかその建物とは思わず通り過ぎていた。彼女の家は造り酒屋だった。『佐伯酒造』という看板を見て、彼女の苗字が佐伯だったことを思い出したくらいだった。

 私の緊張はいやが上にも盛り上がってしまった。まさか彼女がそんな大きな家の娘だとは思ってもいなかった。でも、彼女の叔母さんの様子からすれば、他の人だったら察しがついたのかもしれない。

 彼女の後に従って、大勢の人が行き来する広い庭を通って母屋の建物に案内された。玄関で靴を脱いでいると母親が出てきた。私は何度も頭の中で繰り返し練習してきた挨拶を、なんとかつっかえながら言い終え、土産のバナナを渡した。家を出る時には貴重品に思えたバナナも、今はありきたりの品に成り下がってしまった気がした。

 客間のような所に通されると、使用人と思われる私の母の年齢に近い女がお茶を持ってきた。女が部屋を出ていくと彼女が私の様子を見て笑った。

『そんなに緊張しなくたって良いのに』

『緊張するなって言う方が無理だよ。初めての家にやって来るだけでも緊張していたのに、こんな大きなお屋敷だなんて思ってもいなかったから』

『お屋敷だなんて』

 彼女は口元から白い歯を覗かせた。

『僕の家に比べたら、お城みたいなもんだよ』

『そんな大げさな。酒蔵があるから広く感じるけど、母屋はそれほど大きくはないのよ』

 それでも十分私の家の三倍はあったが、それは口にしなかった。

『随分たくさんの人が居るんだね』

『今ちょうど仕込みの最中だから、一番忙しい時なの』

『そんな時に邪魔して悪かったかな』

『ううん、大丈夫。みんな忙しくて私になんて構っていられないから』

 彼女の父親も酒蔵に行ったままで、時には夜も帰って来ないこともあるという。

 家族は他に東京の大学に行っている兄と、離れで暮らす祖母が居ると教えてくれた。彼女の母親もとても優しく迎えてくれたし、その頃には私も大分リラックスしていた。

 彼女と出会ったバスのことを訊くと、毎週水曜に市立病院に通っていたことがわかった。今年の六月から担当していた先生の診察日が変わって、水曜の午後に通うようになったという。彼女は水曜は学校を昼で早退して病院へ行き、その帰りに私と一緒のバスに乗っていたようだ。私のことはいつから気付いていたかと尋ねると、最初に水曜のバスに乗ったときから知っていたと言われて驚いた。信じられないことだが、私と同じように彼女も初めて見た時から気になっていたそうだ。

 それからは心配していたことが嘘のように、いろんな話ができた。お昼に蕎麦をご馳走になって、三時頃まで私達はお互いのことを訊き合った。半年前に初めて出会っても、私達は何も知らない同士だった。でも、会話が少しずつ二人の間の見えなかった隙間を埋めていってくれた。話している間は彼女が大病を患っている人であることなど忘れていた。

 私は、次の日曜日も遊びに来ることを約束して彼女の家を後にした」


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