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おじいちゃんはテーブルに肘をつき、白い髭が生えた顎を撫でながら話し始めた。
「・・・あれは高校二年の時だったかな。
その頃私は親父の仕事の手伝いで、毎週水曜日の放課後に隣町の会社まで荷物運びを頼まれていた。荷物といっても風呂敷包みに入った書類だけどな。親父は税理士をしていたんだが、その会社は従兄弟の経営する会社だったから、親父が直接行くこともないってことで私の仕事になっていた。
私の住んでいた町は小さかったから、隣町に行くのは嬉しかった。それに駄賃がもらえたから、帰りにラーメンを食べるのも楽しみだった。あの頃は『ラーメン』とは言わなかったな、中華そばと書いて『シナそば』って呼んでた。今のラーメンみたいに色んなものが入っているわけではない、メンマと小さなチャーシューとのりが一枚載っているだけの醤油ラーメンだったけど、美味しかったなあ。あの縮れた麺が懐かしいなあ」
おじいちゃんは今まさにそのラーメンを味わっているように、幸せそうな表情をした。
「親父に渡された書類を運んで、一週間分の伝票を受け取って帰るだけだったけど、バスの時間が結構空いていたから、商店街を覘くのも楽しかった。プラモデルが店一杯に並んだところなんかに入ろうものなら、バスの時間も忘れてしまうほどだったよ。ゼロ戦とか戦艦とか、夢の世界だった。
帰りのバスは仕事帰りの人が多くて、結構混んでいたな。あの頃は自動車を持っている家はまだ少なかったから、バスは大事な交通手段だった。私が乗るバスは一時間に一本くらいしかなかったから、いつも同じような人が乗っていることが多かった。だから、最初から居たんだったら気付いていたはずなんだが、いつから同じバスに乗っていたのか、覚えていないんだよなあ。
気付いた時には、その娘はいつも同じ席に座っていた。由佳里も色白だけど、本当に肌の下が透き通って見えるような色をしていた。三つ編みにした髪を後ろに垂らして、当時のモノクロ映画のヒロインがスクリーンから飛び出してきたような娘だった」
「その人がおじいちゃんの初恋の人?」
はるか遠くを見ていたおじいちゃんの目が、一瞬だけ私の顔に焦点を合わせ、また遠い過去へと戻って行った。
「女の人に心を動かされることなんて、それまで経験したことがなかった。でも、その娘を一目見てからは、周りの一切のものは見えなくなってしまった。今にして思えば、まさしくそれが初恋ってものだったんだな。
彼女は町外れの住宅地でバスを降りて行った。わずか十分程だったが、私にとってはなにものにも代えがたい時間だった。バスのつり革につかまって、彼女の後姿を見ているだけなのに、私は幸せだった。それ以上、なにも望むことはなかったが、この至福の時がいつまでも続いてくれることを願っていた。
ギリシャ神話にこんな逸話がある。芸術家が芸術の神ミューズに『美とはなぜ、これほど移ろいやすいのですか』と訊いた。ミューズはこう答えた『移ろいやすいものを美としたのだ』。
彼女の美しさは、今にも折れてしまいそうな花のようだった。そして、そういうものがとても美しく感じる時期が人間にはあるんだろう。ちょうど当時の私はそんな時だったのかもしれない。
それからは彼女に会える水曜日が待ち遠しかった。用もないのに、他の日にも町に出てきたこともあったけど、彼女には会えなかった。普段はもっと早く帰っているのかもしれない。
ある日、彼女の後からバスに乗った時、座っている彼女と目が合ったことがあった。私はメドゥサに見つめられたように動けなくなってしまった。後から乗ってきた乗客に押されて歩き出さなかったら、私はずっと彼女のことを見つめていたかもしれない」
想い出話をするおじいちゃんは、いつになく饒舌で、それでいて幸せそうだった。
「三ヶ月もそんなことが続いた頃だったろうか、バス停に並んでいた時には彼女との間に何人か居たのだけどそのバスに乗る人は居なくて、バスがやってきて乗り込む時には彼女が私の目の前に居たことがあった。ステップを先に上がる彼女の白くて細い足に私の目は釘付けになっていた。そこに転がってきた小銭入れに、私は直ぐに反応できなかった。自分の足元に落ちてきた物をただ拾い上げ、意味も無く手にとって見つめていた。しばらくして見上げると、彼女が困った顔をして私を見ていた。
『ありがとうございます』と言われて、それが彼女の小銭入れだということがやっと分かった。私は上気していて、その後なにを言ったか覚えていない。自分のバス賃を払ってバスの奥に進んで行って、彼女が頭を下げて感謝の意を表したのに対しても、頭を掻くことしかできなかった。そんな私を見て彼女は笑った。初めて見る彼女の笑顔だった。私が想像していたものより数倍素敵な笑顔だった。私の心の中に占める彼女の領域は、それまで以上に広がっていった。
そのことがあってから、私と彼女はバスで顔を合わせると挨拶をするようになった。といってもペコリと会釈する程度だったけど、それでも私は満足だった。映画に出てくるような気の利いた台詞を言えたら良かったけれど、当時の私にはそんなことは望むべくもなかった。なにも言えないまま、窓辺の花を眺めるように時は過ぎていった。
そんなことをしているうちに夏休みが近づいてきた。夏休みに入っても毎週隣り町に行くことには変わりなかったが、これまでどおりだと午前中に行かされることになる。彼女も同じバスには乗らなくなるかもしれない。一ヶ月以上彼女に会えない日が続くことは、私には耐えられそうになかった。意を決して、私は彼女に話しかけてみることにした。もし残念な結果になっても、しばらくは同じバスに乗らない可能性が高い。
一学期の終業式の近づいた最後の水曜日、いつものバスに乗った私は真っ直ぐ彼女の席に向かった。
『こんにちは、僕は野上、野上修一といいます』
それだけを一息で言った。彼女はびっくりした顔で『佐伯です』と微笑みながら頭を傾けた。
『夏休みに入りますよね。もうバスには乗らなくなりますか』
私の言葉に彼女の表情が曇った気がした。私は彼女を困らせるようなことを言ってしまったのかと後悔しかけていた。でも、そうではなかった。
『私、しばらくバスに乗らなくなってしまいます。もしかしたら、夏休みが終わってもしばらくは乗らないかもしれません。お会いできなくなって、残念です』
彼女の言葉に私は深い井戸の中に突き落とされた気がしたが、最後の一言はそれまでの全ての言葉を打ち消して余りあるものだった。
『そうなんですか、僕も残念です。でも、あなたにまたお会いできるまで、毎週このバスで待っています』
私がそう言うと、彼女は口元を緩めて微笑んだ。私はそれだけ言うのが精一杯で、百メートルを全力疾走した後のように鼓動する心臓をなだめながら、後方の席に着いた。
今の高校生だったら電話番号を訊くんだろうが、そんなことは考えることもできなかった。それだけの会話をするだけで、私は一日のエネルギーを使いきってしまった想いだった。彼女がいつものバス停で降りる時、僕の方を見て会釈をしてくれた。私はただそれだけで、天にも昇る気持ちだった。
彼女も私に会うのを楽しみにしていたなんて、思ってもいなかった。それがわかっていたら、もっと早くに声を掛けられたかもしれないのに。私は自分の不甲斐なさを恥じた。それと同時に、彼女の言葉を引き出した自分を褒めてやりたかった」
おじいちゃんは余韻に浸るようにしばらく目を瞑った後、開いた瞳で私を見据えて「まだ聞きたいか」と訊いた。私が頷くと視線を壁の方へ向けて、再び高校時代の自分を探す旅へと向った。私はなるべく黙って聞いていることにした。
「夏休みが終わって、いつもと同じ時間のバスに乗るようになっても彼女には逢えなかった。九月が終わり、十月に入ってもやっぱり彼女は現れなかった。私の心は今にも張り裂けそうだった。十月の最初の水曜日に彼女がいつものバスに乗らなかったら、探しに行こうと決めた。
しかし私の願いは叶わず、十月に入っても彼女は現れなかった。私はその週の土曜日に、彼女の高校へ行ってみた。制服姿を見ていたから、彼女の高校は分かっていた。それに今は苗字も知っていた。私は土曜日の最後の授業を腹が痛いと嘘をついて抜け出し、彼女の高校へ向った。
校門の前で授業が終わって出てくる生徒達を見ていた。もし他にも出口があったら仕方がないと諦めていた。でも、彼女なら校門を通るに決まっていると勝手に思い込んでいた。三十分位経つと、歩いて来る生徒の姿も疎らになってきた。私は焦りを覚え、訊いてみることにした。男子だとトラブルになったら困ると思い、女生徒に声を掛けてみた。
『すみません、佐伯さんって人、知りませんか』
最初に声を掛けた娘は何も言わず、避けるように走り去った。何人か同じことを繰り返したが、二人連れでやってきたうちのひとりが、初めて話を聞いてくれた。
『佐伯さん?私の知っている佐伯さんはひとりしか居ないけど、今入院しているよ』
『入院?病気なんですか』
『先生は検査のためって言ってたけど、最初は夏休みが終わったら戻るって言ってたのに、まだ休んだままだけど・・』
『どこの病院かわかりますか』
ふたりは顔を見合わせた。
『先生も教えてくれなかったし、家の人の希望でお見舞いには来ないで欲しいって』
入院・検査、思ってもいなかったことに私は呆然として、お礼の言葉もあやふやに彼女らの前を離れた。
入院しなければならないほどの病人には見えなかった。少なくとも最後に言葉を交わした時の彼女は元気そうだったのに。私はどうやって帰ったのかも覚えていない状態で家に戻っていた。
私の様子を見ていた家族や友達は一様に病気なのではないかと心配した。心の病という意味では、私は確かに病気だったに違いない。彼女の姿を見られなくなって二ヶ月以上経って、私はなにをする気力も失っていた。それでも毎週水曜日のお使いは休まなかった。親父も心配して自分で行くと言ったが、私にとってはこのバスだけが彼女との最後の綱だった。
十月の最後の水曜日、バスが出発する時間になっても彼女は現れなかった。今月もダメだったかと思って落ち込んでいる私のところに、ひとりの女性が近づいてきた。
『あなた、野上さん?』
見上げた女性は花柄の薄いピンクのワンピースを着ていた。学校の先生を思わせる、落ち着いた身なりだった。髪は後ろにひとつに束ねて、透き通った目で私を見ていた。
『そうですけど、あなたは・・』
女性は私を確認すると、微笑んでハンドバッグから何か取り出した。どこかで見たことのある微笑みなような気がした。
『これを渡すように頼まれました。私はあの子の叔母です』
それは封筒に入った手紙だった。私には『あの子』が誰を指すものか、直ぐに分かった。女性は私が手紙を受け取ると『それじゃあ』と言ってバスを降りていった。
封筒の表には『野上様』とだけ書かれていた。裏返すと『佐伯』といかにも彼女のものらしい綺麗な文字が並んでいた。私はその場で中を読みたいのを我慢して、両手で大切に包んだまま家まで持ち帰った。