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三番乗り場に『くぬぎの森』行きのバスが近づいてきた。乗り場から離れたベンチに座っていた私は忘れ物がないか確認して立ち上がった。これまでも何度かこのバスを利用しているが、満席で座れなかったことはなかった。今日も私の前に五人が乗ったが、後から乗ってくる人は居なかった。
私はいつも座る最後列左の窓際の席に着いた。この場所から見る景色が好きだ。一番後ろの座席は他よりも少し高いので、遠くまで見えるような気がする。混み合うバスで途中下車する時には、降りづらい席なので座らないが、おじいちゃんの家に行く時はこれ以上乗客が増えることはまずない。乗る度に廃止になるのではないかと心配してしまうくらいだ。
六月に入ったが、まだ入梅する気配はない。暑過ぎもせず、たくさんの花々が咲き揃うこの季節が私は好きだ。母に持たせられたお土産の紙袋を隣の席に置き、私は窓に額をつけて外を眺めた。おじいちゃんの家に近いバス停まで、およそ四十分。そこから更に十分ほど歩く。二ヶ月に一度くらいだが、私はおじいちゃんの家に泊りがけで遊びに行っている。小学生の時は母も一緒に来たが、私が中学に上がってからはひとりで通うようになった。
おじいちゃんは今年六十三歳になる。私から見ると、年の割には若いと思うが、髪の毛はかなり白いものが混じっている。庭で植物や野菜を栽培しているので、今でも動きからは年を感じさせない。でも、おばあちゃんを早くに亡くしているので、ひとり暮らしは寂しそうだ。母からは一緒に暮らそうと何度も言われたようだが、街の暮らしは自分には向かないと動く気配はない。でも、私はなんとなく分かる気がする。おじいちゃんは、あの家が好きなのだ。おばあちゃんとの想い出が詰まったあの家を離れたくないのだ。そんなこともあって、母は時々私を行かせているのだと思う。
中学に入った頃から、おじいちゃんに会う度に「由佳里はおばあちゃんに本当に似てきたなあ」といわれるようになった。悪い気はしない。大好きなおじいちゃんにそう言われることは、一番の褒め言葉なのかもしれない。
バスのスピードが上がってきた。郊外に出ると信号機も少なく、走っている車もまばらになるのでそんなふうに感じるのかもしれない。西の空がオレンジ色に変わってきているのがわかる。空の雲も半分だけその色を受けている。バスの窓にもその色が少しずつ移ってきていた。
私が降りる停留所が近づき、停車ボタンを押した。運転手さんは「バスが止まってからお立ち下さい」というが、止まってから立ち上がると降りるまでの時間がとても長く感じられ、他の乗客の人に申し訳なく思ってしまう。といっても、私の他にはひとりしか乗っていなかった。今日は止まってから立とうと思っていたが、車窓におじいちゃんの姿を見つけると、やっぱり先に立ち上がっていた。
バスのステップを降りると、おじいちゃんが笑顔で迎えてくれた。
「やあ、由佳里、よく来たね」
「うん、おじいちゃん。こんにちは」
笑顔で答えた私の頭におじいちゃんは大きな手をのせた。
「また大きくなったんじゃないか」
「この前来た時も、同じこと言ったよ」
「そうだったかな。荷物持ってあげるよ」
小さなバッグには着替えくらいしか入っていなかったので、重くはなかった。
「大丈夫。これ、お母さんから。いつもの」
お土産の紙袋を渡すと、おじいちゃんは中を覗いて匂いをかいだ。
「美味しそうだね」
母はいつもおじいちゃんが好きなパイを焼いて持たせてくれる。
「ダークチェリーだよ」
「それは美味しそうだ」
私達は道を渡って林道へと入っていった。バスが通る道の傍は田んぼや畑があるが、五分も歩くと木々に囲まれてしまう。途中から緩い登り道になって、次第に道は狭まりうねってくる。暗くなったらひとりでは歩けない。もちろん街灯などはない。離れたところに民家が固まっているところもあるが、林に入ってからおじいちゃんの家までの間に人家は無い。おばあちゃんはよくこんな寂しいところに住む気になったものだ。
おじいちゃんは陶芸家だ。商売はからきしダメなので、売る方は知人に任せているが、昔からひいきにしてくれている料亭などもあって生活していく分には足りているようだ。でもお金があってもおじいちゃんには使い道がないかもしれない。テレビも要らないと言っていたが、昔の映画が好きで、電気屋さんが衛星放送でたくさんのチャンネルが見られるようにしてくれた。でもおじいちゃんが見るのは同じチャンネルだけで、もちろんビデオは使いこなせないので、夕飯の後スウィッチを入れて気に入った映画をやっていれば見るという程度だった。
おじいちゃんの家が近づくとそこだけが明かりに包まれている。もう辺りは薄暗くなっていた。私達の姿を見つけて犬のテールがワオーンと低い音で一声吠えて走ってきた。ゴールデン・レトリバーの雑種だがもうおじいちゃんに負けないくらいの高齢だ。私に対して前足を上げて、盛んに歓迎の意を表している。今日は地面が乾いているから良いが、ぬかるんでいる時には洋服が泥だらけにされてしまう。テールは若い頃にはもっと毛がふさふさしていたしっぽを、その名の由来どおり大きく振り回して喜んでいる。私はひとしきりテールを撫でてあげて、玄関へと向かった。
一足先に家に入っていたおじいちゃんは、テーブルにお土産のパイを袋から取り出して置いた。
「ほう、これは本当に美味しそうだ。お母さんも腕を上げたな」
「おばあちゃんとどっちが上手?」
おじいちゃんは人差し指を顔の前で左右に振った。
「まだまだ、おばあちゃんの域に達するには十年はかかるな」
「そんなにおばあちゃんのパイは美味しかったんだ」
おじいちゃんは満足そうに微笑んだ。
「さあ、お腹がすいたろう。手を洗っておいで」
「はーい」
私が洗面所に向かうと、テールも後をついて来た。
「テールはこっちだぞ」
おじいちゃんが呼ぶと、テールは直ぐにご飯をもらいに戻って行った。テーブルにはおじいちゃんが育てた野菜がたくさん入ったクリームシチューが載っていた。
「さあ、温かいうちに食べなさい。ご飯もあるけど、由佳里はダメだったかな」
「うん、後でパイを食べるから、ご飯は要らないよ」
私はシチューやおでんをおかずにご飯が食べられない。おじいちゃんは知っているのでそう訊いたのだ。コンビニが傍にある街中での暮らしと違って、おじいちゃんの家ではわがままは通らない。出されたものが食べられなければ、我慢するしかないのだ。でもおじいちゃんは私の好きなものを知っていて、いつも用意してくれている。週に二回、古いバスを改造した車がやって来る。移動式のスーパーだ。食べ物や日用品、大抵のものはそこで買う。欲しいものがあれば、次に来る時までに用意してくれる。
「このニンジンもおじいちゃんが作ったの?」
「そうだよ」
「お店で買うのより、美味しいね」
「そりゃ、そうだ」おじいちゃんもスプーンでシチューをすくいながら話した。「愛情がこもっているから」
「普通の農家の人は、作る時愛情を込めてないの?」
おじいちゃんは困った顔をした。
「うーん、そんなことはないだろうけど。たくさん作るから、おじいちゃんほどの愛情は込められないんだよ」
「ふーん」
ふたりで食器を片付けて、パイを食べるためにおじいちゃんに紅茶用のお湯を沸かした。
「由佳里は飲まないのか」
「うん、私は良いよ。寝る前に飲むと、眠れなくなっちゃうから」
おじいちゃんはティー・バッグを入れたマグカップにお湯を注いだ。おじいちゃんは私に教えられるまで、ティー・バッグを知らなかった。逆に私はおじいちゃんが入れるのを見るまで、茶漉しに紅茶の葉を入れて紅茶を入れることを知らなかった。私が教えてからおじいちゃんはティー・バッグ派に転身した。洗い物が減るから助かるよと、おじいちゃんが嬉しそうにいったのを覚えている。今では茶漉しを使うのを見ることはなくなった。私としては茶葉を足したりできる点は気に入っていたのだが。
「じゃあ、食べよう」
マグカップを手に、おじいちゃんもテーブルについた。
「おじいちゃんは、アップル・パイよりチェリーのパイの方が好きだな」
母の焼いたパイを一口食べて「うん、旨い」と独り言のように言った。母はいつも果物の下に甘さを抑えたカスタードクリームを敷いてパイを作る。それがおじいちゃんのお気に入りなのだ。
「由佳里、学校は楽しいか」
「うん、楽しいよ」
「そうか、由佳里の学校はいじめとかないのか」
私はおじいちゃんの表情をうかがった。
「全くないわけじゃないけど、そんなにひどいいじめはないね」
「そうか」
おじいちゃんの表情に変化はなかったが、私のことを心配していることはわかった。
「由佳里はボーイフレンドとかいるのか」
「今日はいろいろ質問するね」
不快ではなかった。それどころか、おじいちゃんが私のことを知ろうとするのは嬉しいことだった。
「お母さんにでも頼まれたの?」
「いやあ、そういうわけじゃないけれど、由佳里もそういう年頃だなって思ってな」
「いるよ」
おじいちゃんがスプーンを銜えたままフリーズした。
「好きな人、いるよ。片想いだけど」
一時停止ボタンを解除したように、おじいちゃんは動き始めた。
「なんだ、告白していないのか」
「競争が激しくて、私なんかじゃ無理。クラス中の憧れの的だから」
「ふーん、どんな子なんだ」
子と言われて一瞬考えたが、おじいちゃんにすれば私達の年頃は皆“子”なのだろう。
「根岸君ていって、生徒会長で、バスケット部のキャプテン。でも女の子には興味ないみたい。これまで付き合っていた女の子もいないみたいだし、いつも男の子に囲まれているの」
なにか言うのかと思ったが、しばらくの間おじいちゃんは黙ってパイを食べていた。私はパイの耳の部分が残ってしまった。母の焼くパイは、耳の部分が厚くて硬めだ。おじいちゃんはそれが好みらしいが、私はもう少しサックリしていた方が好きだ。
「由佳里の初恋か」
「初恋?」
これまで特定の男の子が気になったことはなかったから、初恋といえばそうなのかもしれない。
「そうかなあ、でも初恋って実らないんでしょ」
「そんなことはないさ、二番目に恋した人とは上手くいくってわけじゃないだろう」
「まあね」
私はフォークを置いた。
「おじいちゃんの初恋は? 覚えてる?」
「ははは、随分古い話をするんだな」
カップに残っている紅茶を飲み干して、おじいちゃんは私に正対し直した。
「初恋になるのかな・・・」
「えー、聞かせて、聞かせて」
私は体を乗り出した。