社会的弱者と社会不適合者
あなたは指を動かすことに意識を向けたことがあるだろうか?
いや、意識を向けるという言葉では表現できていないかもしれない。僕が言いたいのはそうだな…………
自分がその指を動かしているという実感があるだろうか?
例えば、じゃんけんをする時に「右手でチョキを出す」と頭の中で考えたとしよう。そこであなたは実際に人差し指と中指に対して「伸びろ」、親指と薬指、小指に対して「ひっこめ」と明確な指示を出しているだろうか?何となくチョキを出していないだろうか?
当然のように、ある種油断してチョキを出していないだろうか?
僕の右手は当然のように動かしている。頭の中で特別に何かを思い浮かべるでもなく動いている。おそらく脳が、脊髄が、神経が、心とは関係なく仕事をしてくれているのだろう。
さて、唐突に話が変わるわけだが、僕は左半身麻痺の身体障害者である。3歳か4歳の時に脳腫瘍が見つかり、そいつが見事に神経に触れていたそうだ。手術で脳腫瘍を綺麗に取った後、幼くして片麻痺生活が幕を開けたらしい。しかし、当時の記憶は…あまりない。総合病院の個室に入院して、エレベータで地下に行くとリハビリルームあった。ベッドから見る風景は殺風景で、母がベッドの横にいてくれた。その程度だ。
幸か不幸か、僕は左側が自由に使えていた記憶がない。幼かったためだろう。おかげで利き手は右手となっている。年取って脳梗塞とかで利き手が麻痺とかになると大変そうだが、その点は良かった。そして、片手で過ごすのが当たり前だと思っていたせいか、最初から片手でどうにかしようと思考をめぐらし、そこで苦労することもなかった。思えば、そこそこに幸運と捉えてもいいのかもしれない。
余談だが、夢の中で左半身がまともに動いていた時があったが、気持ち悪くなって夢から覚め、吐いたことが1度だけある。自分が健常者になる夢が悪夢とは前世か何かで何か悪いことをしたのかもしれない。
幼稚園は友達も自分自身も良くも悪くも子供だった。自分自身も片麻痺であることを意識していなかったのだから。仮に意識したところで何ができたろうか?運動神経の悪い連中と大して扱いは違わない。何だかんだで大人の手助けもさりげなく行われていたし、どうということはない。
問題は学生となってからだ。
まず小学校、僕はまだ幼稚園の頃の活発性を失ってはいなかった。周りにも友達はまだいただろう。しかし、僕はそこで初めて集団行動を取る上で自分がお荷物であることを知る。給食の配膳にしろ、プリントの配布にしろ、荷物の運搬にしろ……自分が足手まといであることを認識した。健常者に比べ、明らかに制限が多すぎる。腕1本で2本分の仕事は無理な話だ。それが可能なら、周りは2本で4本分の働きが可能となる。差が埋まることはない。
そして中学校、僕は酷く臆病になっていた。あらゆる行動の根幹に「迷惑をかけたくない」という不安がこびり付いたのだ。人の視線が怖くなったのもこの時期からだろう。「あいつ、障害者なんだって」「あぁ、左が使えないんだ…」…僕の耳には入ってくることはない。ただ、彼らの視線が僕の引きずる左足や、蟷螂の鎌のように曲がった左手に向けられたように感じた瞬間…自分が弱者であることを思い知らされ続けた。案外、被害妄想だったりするのかもしれない。そんなわけで活発性はあっという間に消失し、教室の角で平穏を祈るようになった。それでも障害者というだけでそこそこに有名になっていたけども。
高校生にもなると、自分が周りと同じように参加できなさそうな行事の数々に嫌気がさし、不登校になろうかとも考えていた。尤も、義務教育を外れた高校でそんなことができるはずもない。中学生の時から周りの視線を気にしすぎたせいで、若干客観的な物事の捉え方が可能となっていた。臆病であることが慎重さを生み、それが落ち着き、冷静へとつながったのだ。
結局のところ、今の今まで僕は自分に恥じらいを抱いている。
集団生活における自分の立ち位置に、社会的弱者というレッテルを自分の至る所に張り付けて、コンプレックスの塊となったのは言うまでもない。僕の心には臆病が住み着いているのだ。酷く弱い。
それでも大学には行けた。親の資金力には感謝しなければならない。バイトも何もやらない僕に投資をしてもらっているのだから。
これまた話は変わるものの、
「片手ではテレビゲームのコントローラーが上手く操作できない」
人差し指と小指だけで操作してみるもFPSとか無理だよね。
「片手ではパン屋やバイキングに行けない」
プレートを左手に、トングを右手に…誰かに頼む?迷惑じゃないか。
「片手ではレジの会計で細々としたお金のやり取りができない」
財布から小銭を出すとか至難の業すぎて泣けてくる。そもそもレジ打ちさんの目が怖い。
といった具合に不便が多い。自分の臆病さが不便に直結するあたりが笑えてくる。頼ればいいじゃないか、弱いことに向き合えよ、そう思っている人も多いのではないか?
でも、人間の誰もが物語の英雄のように聖人というわけではないのだ。僕はそのことを逃げ道として使わせてもらう。強くなりたくないわけじゃない。しかし勇気が足りない。
そう思うと、某チャリティーテレビ番組や福祉番組に登場する彼らは強く生きていそうで羨ましかったりする。ただ、その反面で僕は静かに傷ついた。中途半端な自分に。僕の人生は今のところ自虐ネタが尽きることはないようだ。
さて、最初の質問に戻ろう。
自分がその指を動かしているという実感があるだろうか?
僕は左手に、左足に、左瞼に、左眉に…何を命令しても完遂されない。本当に自分の身体なのかと疑うほどに。そんな身体と一生付き合っていくわけだが、とりあえず少し勇気を出してみようと思う。
同じ境遇の人なら一緒に頑張ろう。
僕より強い人は尊敬する。
最後に1つだけ。
僕は自分が社会的弱者であると思った時から確実に社会不適合者となりつつある。この沈みゆく泥舟から言うのも何だが、救命ボートはいつでも出せる状態にあるとありがたい。
ま、同じ境遇の人ってなかなか見つからないものなんですけどね。結局は1人で生きていますし。