5.蝕む・心/輝く・気分
【蝕む・心/輝く・気分】
ふとした思い付きで昨日の山に登ることにした。
その辺に不法投棄されている自転車を使っても良かったが、時間はたっぷりあることだし、折角だから歩いていくことにする。
歩くと色々ことが浮かんでは消える。まるで泡のように。泡沫のように。
さっきの男のこと、店員のこと、朝読んだ本のこと、生徒会長のこと、学校のこと、最近、お母さんと、お父さんの仲が悪くなっていること、それが僕の方の態度にも影響してきていること、お母さんからも、お父さんからもほとんど無視されていること、僕の居るところ居ないところ関係無く僕の押し付け合いをしていること、それを知っているオトナ達が「大変だね~」「きっと大丈夫だよ~」「なんとかなるよ~」と表面上だけ心配した様子を見せながら僕のことを嘲笑っていること、僕の居場所のこと、これからどう生きていけばいいのかということ──……。
気付くと、世界が歪んでいた。
自分が泣いていることに気付くのにしばらく掛かった。そして、それを受け入れるのにまた、しばらく時間が掛かった。僕は、昔から喜怒哀楽の感情がよく分からず、世界を遠くから見ている感覚で過ごしていた。オトナになりたくないという考えは、何処までも客観的に見てしまうこの性格から来ているのかもしれない。
生来、こんなことで泣いたことがなかったのだ。ずっとそんな感情、僕にはないと思っていた。
……なんで僕は泣いているのだろう?
──分からない。
分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からないって分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からないって分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からないッッ!
世界が淀んでいた。こんなにも世界は汚いのかと笑ってしまった。最初から分かっていた筈なのに。
あぁ、なにを望んでいたのだろう? この世界に。この、理不尽で不公平で何処までも性格が悪い世界に。
そうだ──
しんじゃおう。
ここの山を登ったら、しんじゃおう。僕が生きている意味なんてない。いや、この世界に生物が生きている意味が、ない。
なぜだか馬鹿馬鹿しくて笑えてきた。僕はあははははッと声をあげながら笑った。
なにがオトナになりたくないだ。なにが自分はコドモであり続けるだ。なんで僕は生きていることを前提に考えていた? 馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しくて言葉がでない。
僕はようやく正気に戻れた。身体があり得ないくらいに軽く、もうなにも怖くなかった。
思わずスキップをしてしまう。
光が見えてきた。
この世界にある唯一の光だった。この世界にある唯一の希望だった。
──さあ、これで全部終わりだ。
柵の上に立っていた。そこから見える街は灰色に見えて吐き気がした。皮膚を刺すような日の光があるのに。
学校が見えた。
家が見えた。
駅が見えた。公園が見えた。本屋が見えた。スーパーマーケットが見えた。ファミリーレストランが見えた。病院が見えた。古本屋が見えた。そして車が最初からプログラムされているように規則的に動いていた。
今、この瞬間に核爆弾が落ちてきたらいいのに。
核爆弾が落ちてきそうな天気だが、流石に落ちてくることはない、と思う。まあいい。死んだらこの街の人達なんか関係なくなる。
僕は重心を少しずつ前の方に向けていった。目を瞑っていてもわかる爽快感。これで終わりだという解放感。青い走馬灯。視界がチカチカする。なぜだか息苦しい。
「夜咲くんッッ!」
なにかに掴まれて引っ張られた。浮遊感はあったが、続かずすぐになにやら柔らかいものに阻まれた。下から「いったーいっ!」とこの場に居る筈がない人物の透き通った声が聞こえてきた。
あり得ないくらい顔が整っている大人びた顔に、大きな目に小振りな鼻と口が黄金比の割合で割り当てられている。いつもはまっすぐに整っているだろう暗黒物質よりも黒く長い髪は地面にぐじゃぐじゃと広がっていた。僕が彼女を見つめていることに気付いたのか、その人は透き通った声で「なんてことをしているのっばかっ!」と抱きついてきた。
「なんでここに……」
生徒会長は苦しそうに少しだけ笑い、なにかあったときは、ここによく来るって言ったわよね? 今日はおたふく風邪って学校に連絡して学校を休んだのと言った。
「それよりも、なんであんなことをしたの?」
「……あんなことって?」
「柵に立って、そのまま落ちようとしていたじゃない! なんで、なんでそんな事しちゃうの……!」
生徒会長は泣いていた。
なんで泣いているのだろう? 僕はわからない。
…………わからない。
ぎゅっと抱き締めが強くなった。
「……ごめん……ごめんなさい……私の、私のせいで……夜咲くんを……!」
そういうことだった。生徒会長もあのときのことで傷付いていたのだ。
「ぼ、僕の方もごめん。昨日、色々酷いことを沢山言って」
「うんうん、そんなのいいの。最初は私の浅はかな判断のせいからだから……」
安心したのか、生徒会長は抱き締めるのをやめて少し離れた。僕は「最後に謝ってくれてありがとう。じゃあね」と言って立ち上がろうとした。しかし、立ち上がれなかった。生徒会長が両手を掴んできたのだ。
「……最後にってなんでっっ! 死んじゃったらそれで全部終わっちゃんだよ! 私だったらいいけど夜咲くんは絶対に死んじゃ駄目っ! 私の憧れだもん、私がなりたかった様な人なんだもん! 人生を棒に振るような事しないでっっ!」
ジンセイヲボウニフル? 今までの人生のなかでなにかいいことでもあっただろうか? なにか生きている意味なんかあっただろうか? この世に生まれてしまったら死ななきゃいけないと思う。この世界はなにかに支配された箱の中だ。この世には僕みたいな人の居場所はない。
カチリと体の中からスイッチが入ったような音がした。
「なんで全部終わらせたいのに終わらせてくれないのッ! 自分は周りの人たちを奴隷のように動かして楽に生きていけるのだからいいじゃんッ! それなのに自分は死んで良いけど貴方は死んじゃ駄目なんて言うのはただの甘えだし、僕には貴女のような居場所がどこにもないんだッッ!! 貴女のように生きている価値がないッ! 貴女のようにオトナじゃないッ! 貴女のように死んじゃ駄目ならどこにいけばいいのッッ!! どうやって生きていけばいいんだよッッ!!」
体に衝撃が走った。生徒会長がまた抱きついてきたようだ。
「じゃあ私を居場所にして?」
生徒会長はそのまま僕を押し倒し、そのまま僕の唇に唇を近づけていき──触れ合わせた。
整った顔が目の前にある。目が合うと、口の中になにかが侵入してくる。それは僕の舌と絡まり、クチャクチャと蠢めく。彼女と呼吸が一つになる。無意識に瞳に熱が篭ってしまうのが分かる。胸が熱い。頭はスクランブルエッグの様にぐちゃぐちゃだ。
なにこれ──僕にはわからない。
この感情。
この胸のなかにピンク色の雲が溜まっていくような感情。
胸のなかに赤と白の絵の具を静かに垂らし、混ざっていくような感情。
僕は知らない。
知らない──。
どれだけそのままでいただろう? 生徒会長が口を離したことで、この不思議な体験は終わった。
身体がふわふわする。頭がぼーっとしていて、まるで自分の体ではないみたい。
「ね? 大丈夫。私が居場所よ」
僕は意味が分からないうちにこくりと首を縦に振ってしまった。