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炭焼きおじさん

作者: 藤本乗降

炭焼きおじさん


【 ぼくのたいせつなひと 三年三組 マサオ

 ぼくの大切な人は、お母さんでもお父さんでもありません。なぜなら、お父さんもお母さんもとっくに亡くなっているからです。兄弟もいません。昔の偉い人をすごいと思ったことはあるけど、大切に思ったことはありません。犬のタロウは大切だけど、作文のテーマには合いません。

 けれど、もしもお母さんとお父さんが生きていて、いっしょに遊んでくれる兄弟がいて、タイムスリップで昔の偉い人と握手して、タロウが人間になっても、ぼくはみんなのことを書かないでしょう。なぜならぼくはAちゃんのことを書くからです。

 Aちゃんはとってもかわいい子でした。長い髪をゴムで留めていて、くりくりと大きな目をしていて、背が高くて、ランドセルを背負うのにいつも手間取るような女の子でした。

 だからAちゃんは、同級生の男の子たちからよくからかわれていました。背中に「デカゴリラ」と大きく書かれた紙を貼りつけられたこともありました。デカいのは本当ですから仕方ありません。でもゴリラとAちゃんは似ても似つかないので、これはAちゃんにとってもゴリラにとってもひどい貼り紙なのです。Aちゃんはとってもかわいいし、ゴリラはとってもかっこいいからです。

 きっと男の子はみんな目が悪かったんです。目が良ければ、Aちゃんがかわいいことにも、ゴリラとは似ていないことにもすぐ気が付くはずなのに、いくらたってもAちゃんへのいじわるは終わりませんでした。Aちゃん本人も、自分がいつからいじめられ始めたか覚えていません。今までも、これからも、歩く道には引っかけようとする男の子の足が常に伸びているのだと、Aちゃんはそんな恐ろしい考えを頭から振り払うようにして、だんだん

「もしかしたら、私は最初からいじめられてなんかいなかったんじゃないか」

 Aちゃんはだんだんそう考えるようになっていきました。みんなはほんの遊びでやってるのだ、いじめだと思ってるのは私だけで、私だけがそう思っているということは、それは間違っているんだと考えるようになりました。

 背中に貼られる紙は、ただのお遊びでした。

 机の間を歩くときに伸びる足は、たまたまタイミングが悪かっただけでした。

 背中にぶつけられる砂は、手元が滑っただけでした。

 押し付けられる掃除当番は、よほど大事な用があったのでしょう。

 コーンスープに浮かんだダンゴムシは、天井から落ちてきたものに決まっています。

 ある日の道徳の授業で『ああ無情』という小説が取り上げられました。Aちゃんの先生が言いました。

「みんなもこのジャン・バルジャンのように、逆境に負けず、強く生きなきゃだめだぞ。多少の辛いことがあっても、歯を食いしばってがんばるんだ」

 Aちゃんは先生の言う通り、強く生きようとがんばりました。リコーダーがいきなりなくなっても、黙って指だけ動かしました。

 また、ある日テレビを見ていると「辛いことがあっても笑うようにしているんです」と言うアイドルがいました。Aちゃんは体操着を牛乳で汚されてもニコニコしていました。

 なのにどうしてでしょう。だんだんとAちゃんは朝寝坊になっていき、とうとう学校をズル休みしてしまうようになりました。二日、三日、一週間とズル休みが続くので、Aちゃんの先生が家に訪ねてきました。先生にがんばれと言われて、次の日は学校に行きました。でもその次の日は休みました。次もまた休みました。先生が来ました。学校に行きました。また休みました。先生が来ました。学校に行きました。それでもやっぱり次の日は休みました。

 このままではいくら続けてもイタチごっこだと分かった先生は、ある策を講じました。自分の説得が通用しないなら、別の人に説得してもらえばいいと考えたのです。

 ある秋の日の夕方、Aちゃんは先生に連れられて、ヨーロッパの古い木製家具が並ぶ喫茶店にやってきました。テーブルが三つしかなく、その間も狭かったのですが、三角屋根の天井は高くて、窓からの光がまっすぐ射しこんでいました。

 先生が紹介した人は、緑色のカジュアルシャツを着て、あごに髭の剃り跡の目立つ、体格のいい男の人でした。先生が右手を彼の背中に当てて

「この人は炭焼きおじさんと言ってね、先生の友達なんだ。フリーのカウンセラーをやってる。学校にもいることはいるがね、まあそこは信用の度合いというか……」

「炭焼きおじさん?」そう聞き返すAちゃんは今にも食いかかりそうな勢いでした。

「そうだよ」炭焼きおじさんと呼ばれた人が答えました「きみの名前は言わなくって大丈夫。ぼくときみは他人だし、きみが話したくないことをぼくから無理矢理聞くことはしたくないからね」

 おかしな人でした。普通、自己紹介というのは子供でも大人でもお返事するものなのに。

 そのことが面白かったのでしょうか。名乗ろうとしたAちゃんは、少し笑って、名前を言うのをやめにしました。自分がどこの誰でもない人間になったようで、なんとなく体が軽くなりました。

「じゃ、あとは頼む」と言って先生が、カランコロンとベル付き扉の向こうに消えると、炭焼きおじさんはコーヒーを注文しました。「好きなのを頼むといいよ。お金を払うのはぼくでもきみでもないしね」だいぶ迷ってAちゃんはオレンジジュースを注文しました。

 店員さんが奥に引っ込んでから、炭焼きおじさんは壁にかけられた絵やレコードの束を眺めながら「いい店だなあ。」と呟いていました。

 コーヒーとオレンジジュースが到着し、いただきますも言わずに啜って、二口か三口喉に流し入れてからカウンセリングのようなものが始まりました。

「コーヒーは飲まないの?」Aちゃんは首を振ります「飲んだことある?」首を振ります。

「ぼくはコーヒーが好きで、いろいろお店を回ったんだけど、今のところここが一番おいしい。だけどなかなか来る機会がとれなくってね、きみに感謝してくらいだよ、はは」

「あ。えっと、どういたしまして?」

「あはは。こちらこそ、どういたされまして」

「なんか、コーヒーって気にはなるんですけど、飲んでみようとまでは行かなくて」

「ほんとう? ぼくも昔はそんな感じだったよ。あ、ねえねえ、じゃあ今きみが気になってるものって何かある?」

「えと、飲み物ですか?」

「ううん。別になんでもかまわない」

 じゃあ、と好奇心たっぷりの瞳を輝かせてAちゃんは「炭焼きってどんな仕事なんですか?」と聞きました。

 この頃のAちゃんにとって、カウンセラーというのは馴染みのない言葉だったのかもしれません。

「炭焼き職人さんなんですか?」

 Aちゃんが再度尋ねると、炭焼きおじさんは眉をひそめて天井を見上げ、ちょうど射しかかった西日に瞼をぎゅっと閉じました「……ははあ、なるほどそういうことか」おじさんは何やら閃いた様子で、テーブルの一角を見つめたまま

「ほら、ここに炭火焼コーヒーっていうのがあるでしょ」

「わっ、なにそれ」

「この炭をおじさんが作ってる……って言ったらどうする?」

 今にして思えば、聞くだけで恥ずかしくなるような台詞です。

 Aちゃんは瞳の好奇心に驚きの色を混ぜて炭焼きおじさんを見つめ返しました。

「豆を焙煎するときにね、ガスや油の火じゃなくて、炭で焚いた火を使うんだ。そうすると味がやわらかくなって、すっきりと飲みやすくなるんだよ。ぼくも昔はコーヒー苦手だったんだけど、この炭火焼きのを飲んでから変わってね、それから自分の家でもしょっちゅう淹れるようになったわけ。巷で売られているのはガスと炭を同時に使ったようなのがほとんどなんだけど……ああ、やっぱりここのは百パーセント炭火焼だ。子供にコーヒーは悪影響と言う人もいるけどね、なに、十杯二十杯飲むんじゃないんだから問題ないさ」

 このままだと今日は全部コーヒーの話になってしまうんじゃないか、とAちゃんが苦笑いしたとき、炭焼きおじさんは慌てて話を遮って

「おっとっと、これじゃあぼくだけ喋りっぱなしになっちゃうな」と謝りました。

「いえ、いいんです。むしろ、もっと聞きたいな、コーヒーの話。面白いです」

 その日、Aちゃんは初めてコーヒーを飲みました。ミルクも砂糖も入れず、真っ黒の液体をちびちび啜って飲みました。

「オレンジジュースの方がおいしい」

「ははは、そうか」

「でもこっちの方が、なんかホッとする」


 二日後、Aちゃんは再び炭焼きおじさんと喫茶店で会うことになりました。テーブルには湯気をたてるカップが二つあって、どちらも縁の部分に半円型の染みをつけていました。

「昨日会えなかったのには、実はわけがあってね。きみと平行して、別の男の子ともこうしてお話をしているんだ。マサオくんと言ってね、彼、絵がすごく上手なんだ」

 Aちゃんはお店の壁にかけられた額縁に目を向けました。海の上を飛ぶ、一羽のカモメの絵でした。

「そう、それがマサオくんの描いたやつ。あそこにある犬の絵もそうだよ。昨日、マサオくんにね、新しい子――きみのことだね――を担当することになったと言ったら、自分のことを話してほしいってお願いされたもんだからさ」

 Aちゃんは眉をよせてコーヒーを口にしました。

「ああ、きみのことはまだ何にも話していない。というか、ぼくだってよく知らないくらいだしね。どうもマサオくんはきみに興味があるみたいなんだけど、会ってみたい?」

 Aちゃんは黙って炭焼きおじさんを見つめ返しました。

「ん。そうだね、こう立て続けに人と会ったって疲れるだけかもしれないし。もう少しぼくだけとお話しといたほうがいいかもしれない」

 炭焼きおじさんは「かもしれない」を二回も使いました。

「曖昧に言っておいたほうがいいこともあるんだ」Aちゃんは何も言っていないのに、炭焼きおじさんがそう言ったものですから、まるで心の中を読まれたような気持ちになってしまいました。

 今日はなんの話をする?と炭焼きおじさんが聞いたので、Aちゃんはまたコーヒーの薀蓄をリクエストしました。

 その二日後もAちゃんはコーヒーの話を要求するようになりました。そのまた二日後もコーヒーの話でした。難しい言葉も多かったけど、Aちゃんはよく耳を傾けていました。

 もちろん、喫茶店での時間はコーヒーの雑学ばかりではありませんでした。炭焼きおじさんは話の中にしれっと「……とまあ、こんな風に、コーヒーを飲み過ぎると眠れなくなるっていうのは大部分が誤解なんだな。そういえばきみは最近よく眠れたりする?」というように、Aちゃんが意識しないうちにAちゃんに関する質問をしていました。

 だけどAちゃんだって馬鹿じゃないので、五回目に会った日に「おじさんってヒキョーな手を使うんだね」と見破りました。炭焼きおじさんはお腹から笑って、その日から「答えなくてもいいんだけど」と前置きして直接質問をするようになりました。もうその頃にはAちゃんも炭焼きおじさんへの警戒を解いていましたから、喫茶店での時間はいかにもカウンセリングという雰囲気に近づいていくようになりました。ですが、毎日コーヒーの薀蓄を語ることだけは変わらず続いていました。

「Aちゃんは学校が、どっちかっていうと嫌い?」

「ううん……」

「ふうん、ちょっと意外」

「違うの。どっちかって言わなくても嫌い」

「あら、そっち」

「うん」

 炭焼きおじさんが、どういうところが?と聞き返しましたが、Aちゃんはうーんとかえーととか言ってお茶を濁していました。この頃になると、Aちゃんは男の子からからかわれていたこともジャン・バルジャンのこともどこかのアイドルのことも、みんな話していました。

「なんとなく嫌い」Aちゃんが出した結論でした。

「ふうむ……もしかすると、Aちゃんは学校の先生が向いてるかもしれないね」

「え、どうして」

「学校の先生になりたいって言う人は、みんな学校が好きだった子でしょ。きみの先生とぼくは友達だけど、あいつも学校が好きだった。だから、こう言ってはなんだけど、学校が嫌いな人の気持ちが分からないんだよ」

 よく考えてみれば、学校にいる大勢の先生がみんな学校好きだった人というのは、当然なようで、ちょっと変な感じがします。

「きみは先生になるかもね」

 Aちゃんは激しく首を振りました。

「ねえおじさん、そういえばマサオくんはどうなったんですか。まだ会ってるんですか」

「うん……マサオくんの方はね……前に言ったように、彼もいじめられていて、それがなかなか解決しなくてっさ……おっと」「おじさん?」「こう口を滑らせてしまうから、ぼくはプロになれないのかもな。今彼はね、学校から出された作文の課題をぼくと一緒に取り組んでいるんだ。苦手なものを達成できたら、マサオくんの気も晴れるんじゃないかと思ってね」

 壁には新しい絵が飾ってありました。鮫の絵でした。

 Aちゃんと炭焼きおじさんの出会いから二か月が過ぎようとしていました。Aちゃんは学校には行かないものの、徐々に声が大きくなり、自分のこともよく話すようになりました。対して炭焼きおじさんは、笑顔がだんだん取り繕ったものに変わっていき、顔から赤い色が少なくなっていきました。伸びた髭だけはいかにも職人という面構えです。

「炭火焼きコーヒーを二つ」カップが運ばれてきます。

「おじさん、なんだか調子が悪いみたいだけど」

 炭焼きおじさんは答えかどうかも分からない呟きをひとつ漏らして、カップに口をつけました。

「ぼくはずっと黙っていたことがある」

 唐突に口を開くと「ぼくは炭なんて焼いたことはないんだ」

 Aちゃんはきょとんとして

「でも、炭焼きおじさんなんでしょ?」「うん」

「なのに、炭を焼いたことないの?」「そうなんだ」

 ああ、とAちゃんは手を叩いて「もう、おじさんったらそんなことで悩んでたの? 全然気にしなくっていいのに。私だっておじさんに嘘ぐらい吐いたことあるんだから。ええと、そう、前に教えてあげた携帯電話の裏技、あれ実は真っ赤な嘘っぱちで……」

 Aちゃんが身振り手振りで話す赤裸々を炭焼きおじさんは笑って聞きながら、薄く波紋をつくるコーヒーの水面に向かって、Aちゃんには聞こえない声で呟いていました。

「おじさん?」

 炭焼きおじさんが顔をあげました。Aちゃんと目が合って、すぐ逸らしました。

「マサオくんの話をしてもいい?」

「いいけど……」

「マサオくんは絵が得意だけど作文が苦手で、ぼくも協力しながらいっしょに作文の宿題を手伝っていたんだ。夏休みのなんだけどね、それだけが終わっていなかったんだ。『ぼくのたいせつなひと』っていう課題でね、僕には大切な人なんていないって言うんだ」

 炭焼きおじさんはじっとコーヒーを眺めていました。寒い日でしたから、湯気がいつもより白く濁っていました。

「それでもなんとか完成させたんだ。結局彼は、空想の女の子を書くことにしたんだよ。嘘を書いたんだ。でもいい文章になってね、これをみんなの前で発表したら人気者になれるよってぼくは言ったんだ。翌日は授業参観だった。ぼくもマサオくんのお母さんと見に行ったよ。先生に頼んで、作文を発表する機会を作ってあげた。作文を書き上げたときはあんなに喜んでたのに、当日のマサオくんはずっと下を向いていてね。緊張のせいだと思ったんだ」

 暖房が効いているはずなのに、湯気はいつまでも途切れませんでした。淡い夕焼けが壁に射しかかりました。画鋲で止められたカモメの絵も、犬の絵も、鮫の絵も、どこか知らない画用紙の向こう側の見ていました。

「作文の内容はね、お母さんをはじめとした、周りの人への罵倒だった。罵倒ってわかる? 悪口のもっとひどいやつのこと。席に座った生徒の何人かがくすくす笑っていてね、ぼくが察したときにはもう遅かった。マサオくんは窓際の席でね、ガラッと開けて、黙って外に出たんだよ。四階だった。助かっても、おかしくない高さ、なんだけどね」

 Aちゃんは黙ったまま話を聞いていました。「ぼくと書いた作文はね、焼却炉から燃えカスが見つかったよ」Aちゃんの目は見たこともないマサオくんというより、炭焼きおじさんの表情を見ているようでした。

「こんなことを言ったら、ぼくはカウンセラー失格だ。きみとの時間も、これが最後になる。ぼくが思うに、きみは大丈夫だよ。これからの人生、嫌なことが色々あるかもしれないが、適度に発散していけば問題ない。きみはそれができる、ぼくと違って。……最近になっても学校へ行かなかったのは、ぼくとまだまだ喋ってたかったからでしょ?」

 Aちゃんは答えませんでした。代わりにしたのは、コーヒーを残したまま店を出ようとする背中へと震えた声をぶつけることでした。

「私、先生になりますから。勉強して、学校が嫌いなまま、学校の先生になりますから」

「……結局お互い、最後まで名前は聞けなかったね」

 じゃあね先生、と炭焼きおじさんが別れを告げた時にはもう、カランコロンとドアの外に出たあとでした。

 炭焼きおじさんは、このときから炭焼きおじさんになることを誓いました。自分が何者かになれることを確かめたかったからです。そして、それを教えてくれた女の子を、いつまでもいつまでも忘れないでおこうと、作文を書くことにしたのです。】


 黄土色に変色した原稿用紙を最後まで読んだ先生が、ゆっくり顔をあげてぼくを見ます。

「どうしてこれを読ませたんですか、炭焼きおじさん……いえ、正尾澄明まさお・すみあきさん」

 まだ大学を出て日が浅いという先生は、丸太を割って作られた椅子の上で、小豆色のVネックスーツに包まれながら窮屈そうに座っています。

「中学に上がってからも、ずっと探し続けていました。あの日を境に、煙のように消えてしまったあなたを。だれに尋ねても、どこを訪ねても分からない。探偵を雇おうかと思ったくらいですが、十代の私ではとても。教育大学に通うと決めたとき、きっぱりと忘れてしまうつもりだったんですが……まさか入れ違いで地元に戻っていたなんて、思いもしませんでした」

 立派な人のことを、世の中ではみんな先生と呼ぶみたいです。先生は仕事の意味でも、人格の意味でも先生なんだなあとぼくは思いました。

「この紙、すごく痛んでる……。私と別れて、すぐ書いたんですね。じゃあ、いつか私が先生になるってこと、信じてくれてたんだ」

 そう言って先生はぐるりと周りを見渡します。山を登るがたがたの道路から、車で通れない細さの脇道を歩いて少しのところに、ぼくの炭焼き小屋が建っています。クヌギの木に囲まれた中にあって、板敷きの屋根は地面にまでくっついています。ちょうど正三角形になっている真ん中に炭焼き窯があって、いつもはもくもくと煙を立てているんですが、今日はおやすみでした。その窯の手前に、ぼくと先生は座っているのでした。

「いつから炭焼き職人になろうと思ったんですか?」

「うーんとね、だいたい三年前、だったかな?」

「それまでは何を?」

「ええと、ずっと前は学校にいて、女の子と会ってたときもあるなあ、あれ、男の子だったっけ? それが終わったら……なにしてたっけな。あはは、思い出せないや」

「おじさん!」

 わ。先生が大声をあげたので腰を抜かしそうになっちゃいました。見ると先生の頬が赤くなっています。肩が震えて、目が水っぽくなっていきます。

「さっきからどうして、そんな喋り方なんですか」

 ぼくは先生に会う時はいつもこんな感じだ。だから何もおかしくない。

「おじさんは、あのとき私を励ましてくれたおじさんですよね? 作文の『マサオ』くんは、おじさんの名字のこと、ですよね……? ねえ、返事をしてください!」

 ぼくの名字? なにを言ってるの先生。ぼくはぼくだよ。

「おじさんは、昔の出来事に囚われる必要なんてないんです! 目を覚ましてください、マサオくんが亡くなったからって、おじさんがマサオくんになることはないんです! おじさんはなんにも悪くないんだから……だから、お願い、私を昔みたいに呼んで……おじさん……炭焼きおじさん」

 先生、ぼくなにか悪いことしたの? そんなに体を揺さぶらないでよ。転んじゃうよ。ねえ、他に聞きたいことがなかったら職員室に戻ってくれませんか、ぼくはこれから炭を焼かなきゃいけないんです。


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