西の空の夜明け
2098年から始まった人類史上最悪の大規模な戦争は、新共和国によって最悪の結末を迎える。これより以降、世界は『核の冬』と称する時代へ移行する。
西暦2101年 核暦12年
こんなに生きることが苦しいのなら、いっそのこと死んでしまいたい。亜子は、骨と皮だけになった自分の腕を見下ろしながらぼんやりと考える。
「A-2538」
大人や老人、そして子どもたちがつめ込まれている地下シェルター内をノイズ混じりのアナウンスで亜子のナンバーネームが響き渡る。亜子は乾いた唇を舌で湿らせようとしたが、舌もまた唇と同じように乾ききっていた。
それまで気だるげに横たわっていた毛布からのそりと抜け出し、人のあいだをぬって薄汚れた軍服を着た男の元に寄って行く。
いつからか、時々こうして男女関係無く親無しの子どもが呼び出されていた。亜子はこれまで何人も連れて行かれる彼らの姿を遠巻きに見ていたのだが、まさか自分がその対象になるとはついぞ先まで想像だにしていなかった。今まで連れていかれた彼らが戻ってきた記憶は亜子のなかに存在しない。ましてや彼らがどこへ向かったかなど想像することすらできない。亜子はただ単純に、彼らが何か悪さをして軍服に連れていかれたのだと思い込んでいたのだから。
「悪い事なんてしてない……何も」
つぶやいた声は老婆のようにしゃがれていた。
亜子は静かに無実を訴えるが、もはや心も体も疲れて萎えきってしまっていた。今後何が起こるか知れない不安や恐怖心はあるものの、逃げたり暴れて助かろうとする気力や判断力はとうの昔に枯れ果てている。
亜子は肩をすぼめて小さくなりながらも芥子色の軍服を着た背の高い男を見上げ、早足に歩くその少し後ろを付いて行った。
『核の冬』が訪れてから早12年が経った。
今現在、地球上の約80%の大気が有害な紫外線と粉塵に汚染され、地上に白い灰のような有毒物質が降り続けている。
気がつくと、亜子の前を歩いていた軍服の男が一つの大きな部屋の前に立ち止まり、後をついてきた亜子を見下ろしていた。
「A-2538。お前をここで罰するという訳ではないんだ」
彼の言葉でようやく亜子に重く圧し掛かっていた緊張がいくらか軽くなり、ようやくまともに男の顔を見ることが出来た。
彼の顔も亜子と変わらずいくらか煤けていて、よくよく見れば軍服自体もぼろぼろだった。彼も同じ人間なのだ、と安堵する。
「じゃあ、なぜ私をここに連れて来たの?」
亜子は思いきって口にしたのだが、目の前の軍服は曖昧に返事をして、さっさと目の前の扉を開けて中に亜子を通した。
彼女は腑に落ちないまま、ひとり部屋の中にとり残されるのではと恐怖を感じてブルブル震えた。
そんな亜子の肩を突き飛ばし、軍服の男は扉を閉めた。
カチリという鉄の音が、亜子の身体の中にまで木霊した。
「うわあっ……」
部屋の中は暖かく、人のひしめいていたホールよりもずっと快適だった。亜子は辺りを見渡し、その部屋の豪華さに目を見張る。
もちろん、設えてある家具はどれをとっても質素なもので、壁に絵も掛かっていなければ部屋自体が地中の奥深くに作られているので窓も無い。部屋には所々に火を灯した蝋が置かれ、床には薄汚れた絨毯が敷いてある。それでも、『核の冬』が訪れてからこの世に母親の腹を割って彼女の命を引き換えにこの世に生を落とした亜子にとっては、宮殿の一室にも匹敵する内装なのだった。そして、この部屋でソファに腰掛けて本を読む人の姿もまた、同じように亜子とは別世界のもののような気がした。
世界が『核の冬』を迎えて人は変わったという。「心が」と言う知識人もいるが、はっきりと目に見える変化が人体に表れはじめる。
地上に有害物質が充満するようになって、母体が取り込んだそれらの影響を強く受けた胎児が五体満足で生まれることは奇跡だった。亜子はまさに奇跡の一例であるが、母親を殺して生まれてきてしまった不幸が彼女に影を植え付けていた。
話を戻すが、亜子が先ほどまでいたホールには彼女と同世代の子どもが何人もいたが、皆身体の何処かに欠陥を持っている。外見上は五体満足で異常はなかろうという者でも、内臓や脳といった身体の中に爆弾を抱えていたり病気にかかりやすかったりする。
亜子の前にいる人物も『核の冬』の影響がいくらかあるのだろうか……。やけに体が透き通り、髪は銀髪に近い白で、色を全体的に失っていた。
それまで本を無心に読み耽っていた人物が、ふっと顔を上げて亜子を見た。その目も、限りなく色の薄いひやりと背筋が凝るような水色だった。
「あ、あのっ」
何か言わなければ。亜子は必死に言葉を探しながら口を開く。が、もともとここに連れて来られた意味がわからないで、何が言うべき言葉なのかわからなかった。
「……こ、こんにちは」
しゅん、と項垂れて亜子は言った。やっと十二歳を迎えたばかりの彼女には精一杯の言葉だった。
部屋に沈黙が降りた。
その沈黙があまりに長いので心配になった亜子は、俯いていた顔をあげて白い人をそっと盗み見た。彼(彼女?)は、暫く無言のまま本を閉じもせず膝上に乗せたままキョトンと目を丸めていた。亜子はその様子を見て、自分が馬鹿をやってしまったのだろうと考え、途端に気が重くなった。
「ねぇ」
落ちついた声がそんな彼女に呼びかけ、亜子は再び白い人を見つめた。
「名前、何?」
「A-2538」
「ううん、ナンバーネームじゃない。真名の方」
「……小岩井亜子」
亜子はくすんだ絨毯を穴が開くほど凝視したまま、もじもじと手を弄くった。相手は明らかに亜子を馬鹿にしているのだろう、だから名前を聞き返してきたのだ。
いささかふて腐れた様子の亜子を見て、白い人は少し声を和らげて言った。
「私は白杭セラ」
名前を聞いて初めて、白い人が女なのだと知る。それほど彼女は中性的で、とても美しかった。けれど、亜子にはどうして彼女がそんなに冷たい目をしているのかわからなかった。
「前新共和国大統領の娘よ」
そう言って嘲るように微笑んだ白い人は、姿勢を正して再び本と向き合ってしまうのだった。
亜子が生まれる前は、この世界はここまで酷くなかったという。彼女が「どんな風に?」と聞くと、大人の誰もが口篭もる。
私が生まれる前は、今と違って何が良かったのだろう……?
白い人――白杭セラは前新共和国大統領の娘だと告白し、その後は沈黙を保った。亜子にとってそれは苦痛以外のなにものでもなく、ただ無駄に過ぎていく時間が悔やまれた。
「あの」
ふっ、と顔を上げた白い人は冷めた視線を亜子に投げかけた。
「私の他にも、子どもがいっぱい連れて来られたんでしょう? みんなはどうしたの?」
亜子が勇気をかき集めてやっとそれだけ言うと、目の前の白い人はあぁと呟いて、不敵な笑みを浮かべた。
「皆、里子に出したよ」
「どこに?」
深く聞きたいのか? というような視線を向けられて、亜子はたじろぐがその場を無言で耐えた。セラはそれまで浮かべていた笑みを瞬時に消し去り、真顔で答えた。
「神に」
思わず亜子が恐怖を感じて息をのむ。けれど白い人は、まるで何でも無いことのように本を開いて再び読み始めた。
「ねぇ」
暫くの沈黙の後、白い人が口を開いた。
「太陽は知っている?」
「……当たり前よ。火の悪魔のことじゃない」
オゾンホールが拡大して強力になった紫外線が地球全土に、『核の冬』で出来た分厚い塵の層を貫いて降り注いでいるという。まだ子どもにすぎない亜子でもそれぐらいの知識は当たり前に持っていた。しかし、白い人は目を細める。鋭利な視線が亜子を貫いた。
「そうね、確かにそうだ。しかし、私はそれを見てみたいと思うよ。もう一度、この目で」
彼女は白く細い指先で自分の目を指差した。亜子は思わず叫ぶ。
「ダメよ! 悪魔に目を食われる! 死んじゃう!!」
「……まさか、私を心配して言っているの?」
「そのまさか!」
亜子は、ズカズカとセラのすぐ目の前にまで進み出た。
「……心配するっていうのは、その人を思って言うこと?」
「そうよ!」
「そう……私を思ってくれているのなら、私のために太陽を見ましょう?」
「なっ……そんな」
理不尽な要求に亜子は批難の言葉を胸の奥にとどめて口を噤んだ。なぜなら、セラの目にこれまで覗いていた冷たさを溶かす勢いで熱意が燃え上がっていたからだ。ソファに座って見上げてくるセラの中で何かが煌いていた。
亜子は開いていた口から言葉を吐き出した。
「いいわ……私、生まれてから一度も見たことなかったもの」
どうせ、死ぬことも考えていたのだ。命を差し出す宛てが火の悪魔に変わっただけのこと。
座って亜子の返事を聞いていたセラが、それまでとは逆に息をのんだのがわかった。
白杭セラの体が全体的に透けるように白いのは、色素欠落症という先天的なものだという。亜子が彼女に『核の冬』の影響を受けたのかと聞くと、遺伝子異常なのだと言い返された。次いで何故火の悪魔を見たいのかと聞くと、彼女は好きだから、とだけ答えた。他にも色々聞きたい事はあったが、この調子だとそれは当分聞けそうに無いな、と諦めた。そしてふと、外が騒がしい事に気づく。
「なんだろう?」
亜子は黙って耳を澄ましていたが、いきなり白い人が部屋を駆け出した事にぎょっとした。
「白杭セラ!?」
亜子も彼女の後を追い、慌てて部屋を飛び出した。
部屋を出て、彼女は部屋の中がどんなに暖かかったのかを思い知った。
部屋を一歩踏み出すと、皮膚に染みいるような冷たさが全身を舐めるように駆け巡った。
左右を見渡せば、ホールの方へ向いて人が流れていた。
亜子はその流れに逆らって、セラの後を追う。小さな身体で人垣をかき分け押しのけるように進み続けた先に、ぽっかり現れた闇の空間が彼女を迎えた。薄闇の先から、何かを堪えたような亜子を呼ぶアルトの声が聞こえてくる。
「亜子!!」
その声に含まれた感情の激しさに、亜子はハッとさせられた。棒立ちだった足をバタバタと歩みを進める。
「こっち!」
見ると、セラの白い影が重装備をせかせかと着込んでいるところだった。
「何? 何してるの!?」
訳もわからずセラに渡された同じような構造の分厚い宇宙服に腕を通しながら、亜子は理由を求めて叫ぶ。しかし亜子の声が聞こえていないのか、焦る彼女の隣でセラは最後にマスクを顔に装着し、酸素タンクの残量を確認していた。
亜子は初めて着る宇宙服にてこずりながら、セラの助けも借りて、やっと背に酸素タンクを背負い、マスクをした。セラはもう待ちきれない様子で、亜子がマスクをすると同時に彼女の腕をとり、厚さ五十センチメートルもある蓋を開ける。扉の向こう側に見えた底の見えない井戸のような暗闇の中、黙々と梯子を登って地上に出た。亜子も半ば彼女に引きずられるようにして、初めて外を覗いた。
最初に見たものは、白とも灰色とも区別のつかない塵に濁った大気だった。
セラが蓋を開けた瞬間に舞いあがったのだろうか。おかげでマスクの目の辺りが真っ白になってしまった。
『ほら、亜子こっちを見てみな!』
無線越しにセラの声が亜子に届く。亜子は恐る恐る、マスクに付いた埃を拭き取って彼女の指した方へ視線を向けた。
セラが指したのは西の方角。
塵で被われた空にポッカリと開いた穴から、真っ赤な光が溢れていた。
『あれは…』
『太陽よ』
亜子の先を続けられなかった言葉を代わりにセラが言った。
『なんで……? 火の悪魔なんでしょ? 何であんなに綺麗なの!?』
『それが、太陽なのよ』
あまりに落ちついた彼女の声を不思議に思った亜子がセラを振り返ると、白い人は静かに涙を流していた。
マスク越しに見る白い肌の上を、更に透明な滴が流れていく。
亜子はその美しさに、太陽の悠然さに、言葉を失った。
彼女の先に見える太陽は、亜子には夜明けのものなのか、日暮れのものなのかはわからなかった。
私の気持ちがこんな風にすっきりと明けたんだもの。きっと、この太陽も夜明けなんだわ。
太陽は、西から日が昇るのね……。
亜子の目にも、熱い光るものが流れ落ちた。
隣に立ったセラが堰を切ったように泣き始め、埃が積もった地面に彼女はそのまま泣き崩れた。
高校生の頃、社会科の授業で聞いた『核の冬』という話から生まれました。これは執筆当時のものに加筆修正したものです。設定やストーリー自体に手は加えておりません。
主人公が「死んでもいい」というネガティブ思考が重すぎるし、全体に安っぽい設定なんですが、わたし個人としてはなかなか気に入っております。
白杭セラ……彼女が何を思って生きているのかと思うと切なくなります。