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第五十二話 夏日

 真夏にも、終わりかけの顔がある。

 まだ暑い。

 朝から暑い。

 食堂の窓は全開で、開けたところでぬるい風しか入ってこない。洗濯物は昼前には乾く。乾きすぎて、靴下は少し怒ったみたいに硬くなる。格納庫の鉄板は相変わらず熱を持ち、三号車の屋根に手を置いたユウトが「目玉焼きいけますかね」と言って、ミナに真顔で怒られていた。

 だから、夏はまだ終わっていない。

 終わっていないのに、どこかが少し違う。

 夕方の光が前より短い。

 虫の声が、昼の厚みから夜の細さへ変わるのが少し早い。

 水場のぬるさに、ほんのわずか冷たいものが混じる。

 空の端に、低くて重い雲が増える。

 夏は、去る時も勝手だった。

 来る時と同じように。

「今日の豆、二粒」

 ユウトが椀を覗き込んで言った。

「市民」

 タクトが答える。

「夏の終わりの市民」

「詩的ですね」

「豆二粒で詩をやると、かなり薄い」

「スープと同じです」

「自分で言って傷ついた」

 リゼが笑った。

 手首の赤布は、もうすっかり見慣れたものになっていた。

 最初は目印だった。

 次に、戻る場所だった。

 今は、彼女の声に近い。

 赤布が揺れると、誰かが振り返る。赤布が結ばれると、そこに人が集まる。赤布が高く上がると、帰ろう、という意味になる。

 同じ布なのに、意味が増えている。

 人も同じかもしれない。

 カナタは食堂を見た。

 人が増えた。

 椅子は相変わらず足りない。それでも、誰が立つか、誰が先に椀を受け取るか、誰が窓際を譲るか、前より自然に決まるようになっていた。

 オルガが水場から戻ってきた隊員に声をかける。ベンが水筒を数えている。ニコが黒札の紐を直している。ヒナセは通信機を抱えたまま、椀の豆を数え忘れている。マコトは手順書に何かを書き足している。たぶん今日も「暑い」と書いている。

 人が増えた。

 声も増えた。

 けれど、少しだけ部隊になってきた。

「カナタさん」

 リゼが言った。

「はい」

「また数えてる?」

「豆ですか」

「人」

 カナタは少し黙った。

「数えています」

「癖?」

「仕事です」

「便利な言い方」

「はい」

 リゼは椀を両手で持った。

 湯気はほとんど見えない。

 でも、ある。

「でも、前より顔が怖くない」

「そうですか」

「うん。前は、全部逃げそうな顔で見てた」

「今は?」

「任せる場所を探してる顔」

 カナタは食堂をもう一度見た。

 任せる場所。

 そうかもしれない。

 オルガには声。

 ベンには水。

 ニコには止まる場所。

 タクトには音。

 ユウトには、場を少しだけ壊さない軽口。

 ハルクには境界。

 セナには人の限界。

 ヒナセには遠くの声。

 マコトには残す言葉。

 ミナには車。

 ガレスには決めること。

 リゼには、繋ぐこと。

 カナタは、先を見る。

 全部を見るのではない。

 そう思えるようになるまで、思ったより時間がかかった。

 午前の任務は、装備の再配置だった。

 夏季広域後退計画に備えて、ハウンド七の倉庫がまた少し変わる。

 白線布は入口側。

 赤布は三か所に分散。

 黒札は小箱に分ける。

 灯火器は充電順を決める。

 水筒はベンの管理棚へ。

 静音布はタクトの箱へ。

 医療袋はセナが勝手に、誰も触らない位置へ移動した。

 誰かが触ると怒られる位置、というのは軍においてかなり強い防犯だった。

「この棚、また増えましたね」

 ユウトが言った。

 帰ってきたもの置き場の横に、道具棚が増えている。

 ミナの作った棚だ。

 相変わらず少し斜め。

「斜めですね」

 マコトが言う。

「味」

 ミナが即答する。

「歪みです」

「味のある歪み」

「前にも聞きました」

 棚には、いろいろなものが並んでいる。

 帰ってきたもの。

 帰る道具。

 その境目は、もうかなり曖昧だった。

 赤い手袋。

 黒札。

 優勝豆。

 紙片かえる

 短いチョーク。

 焦げた端子。

 前線の金具。

 砲兵の識別布。

 橋の歯。

 壊れた赤灯。

 そして、キャンプの火で焦げた小さな杭。

 誰かが《帰った杭》と書いた札を置いている。

 たぶんユウトだ。

「杭も帰るんですね」

 ニコが言った。

「帰ります」

 タクトが答える。

「道具も帰すので」

「覚えました」

「いい傾向」

 リゼが満足そうに頷く。

「帰還誘導兵っぽい」

 ユウトが棚を眺める。

「そのうち棚が避難列になりますね」

「棚の撤退計画が必要です」

 マコトが真面目に言った。

「冗談です」

「でも、火災時は」

「真面目にしないで」

 午後、訓練はなかった。

 正確には、訓練扱いではなかった。

 各自、休養と準備。

 つまり、みんな何かをしていた。

 オルガは新人たちに赤布の振り方を教えている。ベンは水筒の蓋に番号を振っている。ニコは黒札の置き方を広場で一人練習している。ユウトはそれを見て「黒札自主練、強そう」と言い、セナに「邪魔するな」と怒られた。

 タクトは静音布を折っている。

 ヒナセは赤灯の点滅を試している。

 一回。

 二回。

 三回。

 ユウトが近づこうとすると、ヒナセが無言で七回点滅させた。

「俺警告、使われた」

「正式化しました」

 ヒナセが言う。

「不名誉な正式化」

 カナタは格納庫の外に出た。

 真夏の午後の空は高い。

 高いのに、どこか重い。

 日差しはまだ強い。しかし、風の端に少しだけ違うものが混じっている。

 乾いた草の匂い。

 ぬるい水路の匂い。

 鉄板の熱。

 そして、遠くの雨の匂い。

 まだ降っていない。

 でも、どこかで降っている。

 夏の終わりが、遠くで少しずつ準備をしているみたいだった。

「いた」

 リゼが後ろから来た。

 手には赤布ではなく、短いチョーク。

 旧学校区から持ってきたもの。

「チョーク」

「今日は日光浴」

「チョークに必要ですか」

「たぶん不要」

「ならなぜ」

「私が見たかったから」

 リゼは防雪柵の残骸に腰を下ろした。

 真夏なのに防雪柵。

 季節外れの骨。

 その横で、彼女はチョークを指先で転がす。

「夏の学校ってさ」

 彼女が言った。

「暑かったんだよね」

「前にも言っていました」

「言った」

「はい」

「でも、今日は違う暑さだった」

 リゼは空を見る。

「学校の暑さは、終わる暑さだった。夏休み前とか、体育祭前とか、試験前とか。嫌でも、その先に何かあった」

 カナタは黙って聞いた。

「ここの暑さは、続く暑さ」

「続く」

「うん。終わりが見えない暑さ。でも最近、ちょっとだけ先が見える。夏季広域後退計画って、嫌な先だけど」

「はい」

「それでも、先がある」

 リゼはチョークを握った。

「私は、学校に戻りたいんじゃなくて、あの暑さがあったことを忘れたくないんだと思う」

「はい」

「でも、今はこっちで呼ぶ」

 彼女は格納庫の方を見る。

 赤布。

 白線。

 黒札。

 人。

 ごちゃごちゃした帰還誘導兵の拠点。

「帰ってこいって。帰ろうって」

 声は静かだった。

 けれど、もう弱くはなかった。

 カナタは頷いた。

 その時、通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い通知音。

 警報ではない。

 だが、昼の暑さが一瞬だけ別のものになる。

 アイラの声。

『前線第三方面より定時外通達』

 ノイズ。

 全員が顔を上げる。

 格納庫の中から、ユウトの声が止まる。

 赤灯の点滅も止まる。

『第三方面防衛線、接触増大』

 風が止まったように感じた。

『夏季広域後退計画、発令待機段階へ移行。各隊、即応準備』

 発令ではない。

 まだ、動けという命令ではない。

 けれど、もう動かないでいいという意味でもなかった。

 待機。

 準備。

 即応。

 その三つの言葉は、暑い空気の中で薄い刃物みたいに並んだ。

 カナタはリゼを見た。

 リゼもこちらを見ていた。

 その目に驚きはある。

 怖さもある。

 でも、逃げる色ではなかった。

 格納庫の中で、ガレスが言った。

「配置確認。だが、出るな」

 怒鳴らなかった。

 だから余計に重かった。

「全員、今日中に装備を一度まとめろ。水、赤布、黒札、灯火、医療、車両。祭りの準備も止めるな」

「祭りもですか」

 ユウトが訊いた。

「待機だからな」

 ガレスは火のつかない煙草を咥え直した。

「まだ、祭りはできる」

 その言葉で、誰かが小さく息を吐いた。

 安心ではない。

 猶予だった。

 けれど、猶予はいつも何かに似ている。

 休み時間。

 夕方。

 祭りの準備。

 終業式の前日。

 明日があるふりをして、今日を少しだけ普通にする時間。

 リゼがチョークをポケットへ入れた。

「カナタさん」

「はい」

「先、見える?」

 カナタは格納庫の壁に貼られた地図を思い出した。

 赤線。

 青線。

 橋。

 水。

 前線。

 避難列。

 多すぎる線。

 見える。

 全部ではない。

 でも、詰まりそうな場所はいくつか見える。

 まだ起きていない混乱の輪郭が、暑い空気の向こうにある。

「少しだけ」

 カナタは言った。

「じゃあ、それで行こう」

 リゼは赤布を手首に巻き直した。

「こっちは繋ぐ」

 短い言葉。

 それだけで、足が前へ出た。

 格納庫では、夏季広域後退計画の地図が広げられていた。

 ガレスが指示を出す。

「第一避難列の予定線を再確認。前線補給車両は東六号橋を使う。医療搬送は第二路。ハウンド七は受け入れ準備を維持。第一班は南門、第二班は橋、第三班は食堂前。まだ動かすな。だが、動けるようにしろ」

 声が重い。

 でも、流れている。

「カナタ」

「はい」

「見る場所を決めろ」

 全部見ろ、ではなかった。

 見る場所を決めろ。

 それだけで、少し息ができた。

 カナタは地図を見る。

 東六号橋。

 ハウンド七南門。

 給水路。

 前線補給車両。

 避難列第一。

 最初に詰まるのは、橋ではない。

 橋の手前。

 水場の横。

 暑さで止まる人と、補給車両の待機が重なる。

「南門前に水を置かないでください」

 カナタは言った。

 ベンが顔を上げる。

「水、必要です」

「必要です。でも南門の正面だと詰まります。水は右側、防雪柵の影へ。動線から外す。飲みに来る人と進む人を分けます」

 ベンは一瞬だけ考えた。

 そして頷く。

「水、右側へ」

 リゼがすぐ声をつなぐ。

「オルガ、赤布は水じゃなくて進路に!水はベンが見る!」

「了解!」

「ニコ、黒札は南門正面じゃない。右へ誘導する手前!」

「はい!」

 動く。

 全員が。

 しかし、それは出撃ではなかった。

 祭りの前に、椅子の位置を変えるような動きだった。

 でも、椅子の位置で人は詰まる。

 水筒の場所で列は曲がる。

 赤布の結び目で、誰かが帰れる。

 カナタはそれを知っている。

 だから動く。

 夕方には、空の端が少しだけ涼しい色になっていた。

 夏の終わりが近づいている。

 その前に、まだできることがある。

 カナタは手袋をはめ直した。

 乾いている。

 硬い。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 もう十分、温かい。

「明日」

 リゼが言った。

「祭りの準備、やるよね」

 カナタは少しだけ黙った。

 前線は接触増大。

 計画は発令待機。

 各隊は即応準備。

 状況は悪くなっている。

 でも、まだ発令はされていない。

 まだ、今日と明日の間には細い線がある。

「やります」

 カナタは言った。

「たぶん」

「たぶんで十分」

 リゼは笑った。

 その笑い方は、夏の終わりの光に少し似ていた。

 明るいのに、どこか短い。

 真夏の終わりの風が、格納庫の入口を抜けた。

 暑い。

 でも、少しだけ違う。

 夏の大撤退は、まだ始まっていなかった。

 けれど、始まっていないものの影だけが、もうハウンド七の足元まで来ていた。

 その影の上で、彼らは明日の祭りの準備を続けた。

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