第三十七話 旧帰還誘導兵
古参という言葉は、あまり信用できない。
長くいるから偉いわけではない。
長くいるから正しいわけでもない。
ただ、少し先に泥を踏んだだけだ。
少し先に雪で迷い、少し先に白線を引き、少し先に豆を数え、少し先に車へ謝っただけである。
それでも、新人から見ると、先にいた人間は妙に大きく見えるらしい。
マコトは朝から、カナタたちを見ていた。
見ているというより、観察していた。
メモ帳は持っていない。
記録より先に声ということを覚えたからだろう。だが、目だけは完全に記録している。カナタが手袋に息を吹きかける回数。ユウトが椀の中を覗き込む角度。タクトが缶を押さえる指の位置。リゼが赤い布を巻き直す癖。
全部、目で書いている。
新人の真面目さは、時々こわい。
「見られてますね」
ユウトが小声で言った。
「はい」
カナタは答えた。
「俺たち、そんなに見どころあります?」
「ないと思います」
「即答」
「でも、変ではあります」
「それはある」
食堂の朝は、昨日より少し明るかった。
春の光が窓から斜めに入って、結露の跡を白く光らせている。床には掃除で取りきれなかった泥の筋。帰ってきたもの置き場には、泥まみれの黒札、優勝豆、紙片、折れた確認棒、そして短い札《止まる場所も、帰る道》が並んでいる。
朝食は薄い豆スープ。
豆は二粒。
市民。
ユウトが言う前に、タクトが小さく言った。
「市民ですね」
ユウトが固まった。
「取られた」
「すみません」
「いや、いいんです。文化は継承されるものだから」
「豆文化、継承しなくてよくない?」
リゼが言う。
「ひどい。リゼさんだって貴族の日は嬉しそうでしたよ」
「嬉しくないとは言ってない」
「認めた」
「豆は豆。でも多い方がいい」
「真理」
マコトが遠くで小さく頷いた。
記録していない。
でも、たぶん覚えた。
その日の午前、帰還誘導班には特に出動予定がなかった。
定時連絡は異常なし。
南側排水路は通行止め措置済み。
泥濘地帯には札とロープ。
三号車はミナいわく「今日は寝起きが悪いが歩ける」。
つまり、暇だった。
戦場で暇というのは、危険な状態である。
人間は、暇になると変なことを始める。
最初に変なことを始めたのはユウトだった。
「旧帰還誘導兵会議をします」
食堂の隅で、彼は宣言した。
「旧?」
カナタは訊いた。
「正式編成前からいた人たちです」
「そんな分類が」
「あります。今作りました」
「でしょうね」
参加者は、カナタ、ユウト、タクト、リゼ、ミナ。
セナは医療棟。
ガレスはどこかで寝ている。
アイラは通信塔。
正式編成後の新人たち、ハルク、ヒナセ、マコトは、少し離れた場所から見ている。
見世物ではない。
でも、だいたい見世物だった。
「議題一」
ユウトが言った。
「我々はなぜ変なのか」
「議題が失礼」
リゼが即答する。
「でも、新人から見ると変らしいです」
「新人じゃなくても変だよ」
ミナが工具箱を抱えて座った。
「特にユウト」
「俺から!?」
「豆階級を作る人間が普通なわけない」
「豆は大事です」
「大事なのと階級化するのは別」
タクトが控えめに手を上げる。
「でも、豆の数で少し場が軽くなる時はあります」
ユウトが両手でタクトを拝む。
「理解者」
「ただし、階級制度は不要です」
「裏切りが早い」
カナタはスープを飲んだ。
温かい。
薄い。
今日もちゃんと味がした。
「変なのは、たぶん道具が増えたからです」
カナタは言った。
全員が見る。
「白線、赤布、黒札、缶、豆、三号車、確認棒。普通の部隊では使わないものが多いので」
ミナが三号車の方を見る。
「三号車は普通の部隊でも使うよ」
「車両としては」
「車両として以外に?」
「謝罪対象として」
「あれは必要」
「そこです」
ユウトが机を叩いた。
「結論。我々は、変なものを必要にしてしまう部隊です」
「嫌な結論」
リゼが言う。
「でも合ってる」
タクトが小さく頷いた。
彼の缶も、最初はただの空き缶だった。
今は、音を消す布の分類を生んだ。
ただの物が、手順になる。
帰ってきたものが、次の帰還を助ける。
それを格好よく言えば、部隊文化。
雑に言えば、変なものが増える。
旧帰還誘導兵会議は、その後さらに変な方向へ進んだ。
議題二。
どの道具が一番えらいか。
白線派、赤布派、缶派、三号車派、豆派に分かれた。
カナタは白線派に入れられた。
本人の意思ではない。
湿った手袋派を作られかけたので、白線派を選んだ。
「赤布が一番」
リゼは言った。
「見えるから」
「白線も見えます」
「泥ですぐ負ける」
「赤も燃えたら負けます」
「燃やさないで」
「仮定です」
「仮定でも嫌」
タクトは缶派だった。
「音を消すことは、大事です」
「分かる」
リゼが頷く。
「でも缶が一番?」
「自分にとっては」
その言葉で、全員が少しだけ黙った。
自分にとっては。
かなり強い。
誰にとっても一番の道具などない。
帰るために必要なものは、人によって違う。
豆が必要な人もいる。
缶が必要な人もいる。
赤い布が必要な人もいる。
白線が必要な人もいる。
湿った手袋は、たぶん必要ない。
いや、カナタにとっては分からない。
ミナは当然、三号車派だった。
「三号車がなかったら帰れない」
「それはそうです」
カナタは認めた。
「じゃあ優勝」
「議論が雑」
「車は結果」
「名言っぽい」
ユウトは豆派だった。
誰も驚かなかった。
「豆は希望です」
「食料です」
カナタは言う。
「希望でもあります」
「食料です」
「希望食料」
「変な言葉を増やさないでください」
離れた場所で見ていたヒナセが、ぽつりと言った。
「全部、声にすると強くなりますね」
旧メンバーが彼女を見る。
ヒナセは少し困ったように通信機を抱え直した。
「白線も、赤布も、缶も、車も、豆も。名前を呼ばれてるから、使い方が残ってるのかなって」
マコトが隣で頷く。
「記録と似ています」
ハルクが短く言う。
「名があると、渡せる」
その言葉で、会議が少しだけ会議になった。
名前があると、渡せる。
カナタは帰ってきたもの置き場を見た。
赤い手袋。
黒札。
優勝豆。
紙片。
止まる場所も、帰る道。
全部、名前や言葉がついている。
だから、次の人が使える。
たぶん、帰還誘導兵という名前も同じだった。
最初はリゼが軽く呼んだだけの言葉だった。
今は紙にも書かれ、命令にもなり、新人も来た。
名前は、居場所を作る。
少し怖い。
名前がつくと、逃げられなくなるからだ。
でも、名前がないと、呼べない。
呼べないものは、帰ってこられないことがある。
「議題三」
ユウトが急に言った。
「旧メンバーの必殺技を決めます」
「今の流れを返して」
リゼが言う。
「真面目になりすぎたので戻します」
「戻し方が雑」
必殺技決めは、かなりひどかった。
カナタは《湿った手袋線形判断》。却下。
ユウトは《豆数え一閃》。意味不明。
タクトは《無音缶》。本人は嫌そうだったが、わりと通った。
ミナは《三号車機嫌取り》。必殺技というより日課。
リゼは《赤布帰還号令》。本人が恥ずかしがって却下。
結果、何も決まらなかった。
ただ、旧メンバーだけがやけに疲れた。
午後、食堂裏で小さな実技遊びになった。
白線を引き、赤布を立て、タクトが音を消し、ミナが車両停止位置を決め、ユウトが豆を報酬として配る。
新人三人も加わった。
ハルクは右側に立つだけで列を作った。
ヒナセは拡声器で「そこは靴が負けます」と言った。
マコトは記録しながら、時々手を空けた。
遊びのはずだった。
でも、ちゃんと訓練にもなっていた。
帰還誘導班は、ふざけるとだいたい手順になる。
それがいいことなのか、悪いことなのか、カナタにはまだ分からない。
ただ、笑いながら体が覚えるなら、その方がいいのかもしれない。
事故の記憶だけで覚えるよりは。
夕方前、リゼがふと食堂の窓を見た。
そこには《おかえり》と《帰ろう》の文字が、滲んで薄く残っている。
その横に、いつか誰かが描いた下手な鉄棒の絵。
リゼの顔が、少しだけ止まった。
ほんの少し。
でも、カナタには分かった。
「旧学校区ですか」
カナタが訊く。
リゼは窓を見たまま答えた。
「うん」
「行きますか」
「まだ」
短い返事だった。
でも、前より違った。
行かない、ではない。
まだ。
その一語の中に、春の泥みたいな重さと、少しだけ乾き始めた道があった。
「放送室、まだ残ってるかな」
リゼが言った。
「分かりません」
「黒板」
「はい」
「日直の名前」
「……はい」
「私、そこに半分置いてきたままなんだよね」
軽く言った。
でも、軽いから余計に残った。
カナタは何も言えなかった。
旧帰還誘導兵会議の馬鹿みたいな空気が、少し遠くなる。
食堂の窓の向こうには、春の夕方があった。
泥と、低い雲と、格納庫の灯り。
そのもっと先に、旧学校区がある。
雪の日に煙を上げた学校。
文化祭の残りを燃やした地下倉庫。
日直の名前が残る教室。
リゼの半分。
ユウトが空気を読んだのか、読まなかったのか分からない声で言った。
「じゃあ、取りに行きましょう」
リゼが振り返る。
「簡単に言うね」
「難しく言うと怖いので」
それは、リゼが前に言った言葉だった。
リゼは少し驚いて、それから笑った。
「盗用」
「継承です」
「便利な言葉」
タクトが缶を押さえながら言った。
「行くなら、音を消す布を多めに持ちます」
ミナも言う。
「三号車、学校行けるかな」
カナタはリゼを見る。
リゼは赤い布を手首で巻き直した。
待っているだけの顔ではなかった。
でも、まだ完全に行く顔でもない。
その途中の顔だった。
「そのうち」
リゼは言った。
「ちゃんと行く」
「はい」
カナタは頷いた。
その日の定時連絡は、異常なしだった。
食堂裏の変な大会は、変なまま終わった。
優勝者は出なかった。
優勝豆だけが一粒増えた。
帰ってきたもの置き場には、ユウトがこっそり《旧帰還誘導兵会議議事録》と書いた紙を置いた。
中身は白紙だった。
「何も決まってないから」
彼は言った。
リゼが紙の下に小さく書き足した。
《でも、行く場所は決まった》
カナタはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
旧学校区。
まだ帰っていない場所。
次の線は、たぶんそこへ伸びる。
春の夕方、カナタの手袋はまた湿っていた。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、少しだけ笑えた。
「悪化した」
今日は、ユウトが隣で言った。
「正式旧メンバー芸ですね」
「芸ではありません」
「文化です」
「責任を文化にしないでください」
食堂に、小さな笑いが戻った。
その笑いの向こうで、リゼは窓の外を見ていた。
学校の方角を。
たぶん。




