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第三十五話 排水溝

 春の水は、信用できない。

 雪より柔らかい顔をしている。

 氷より安全そうに見える。

 けれど、地面の下で何をしているか分からない。

 流れる。

 削る。

 溜まる。

 濁る。

 昨日まで道だった場所の下を、少しずつ空洞にしていることもある。

 カナタがそれを知ったのは、春になってからだった。

 正確には、その日の午後だった。

 午前中のハウンド七は、いつも通り少しだけ間抜けだった。

 食堂の窓には《靴は負けても人は帰る》という文字が、まだうっすら残っていた。結露で滲み、誰かが袖でこすった跡があり、後半はほとんど読めない。それでもユウトは、毎朝それを見て「名言が風化している」と言う。

 風化ではない。

 結露だ。

 でも、わざわざ訂正するほどでもない。

 豆スープの湯気が上がっている。

 今日の豆は二粒。

 市民。

 ユウトは椀を覗き込み、肩を落とした。

「最近、王権が遠いです」

「四粒以上でしたっけ」

 マコトが訊く。

「はい。五粒は神話です」

「補給記録にはありません」

「神話ですから」

「なるほど」

 納得しないでほしい。

 カナタはスープを飲んだ。

 薄い。

 温かい。

 それだけで、今日もだいたい始まる。

 リゼは帰ってきたもの置き場の机を拭いていた。

 赤い布。

 泥まみれの黒札。

 優勝豆。

 小さな紙片かえる

 並べる順番が少しずつ決まってきている。

 誰が決めたわけでもない。

 でも、乱れると誰かが直す。

 そういう場所になった。

「今日の任務、軽いんだよね」

 リゼが言った。

「確認だけです」

 カナタは答えた。

 その瞬間、食堂にいた何人かがこちらを見た。

 軽い。

 確認。

 だけ。

 この三つは、ハウンド七ではあまり信用されていない。

「言葉が悪い」

 セナが言った。

 医療袋を肩にかけている。

「どう言えば」

「重めの確認」

「悪化しました」

「軽いよりまし」

 ミナが格納庫側から顔を出す。

「三号車は出す?」

「今回は徒歩です。近いので」

「三号車、休み?」

「はい」

「喜んでる」

「そうですか」

「ちょっと寂しそうでもある」

「複雑ですね」

 今日の任務は、ハウンド七の南側排水路の確認だった。

 雪解け水で水量が増え、旧道の脇にある排水溝が詰まりかけている。そこを確認し、必要なら危険札を立てる。近くの避難列が明日通る予定なので、足元の状態を見ておく。

 書類上は、それだけだった。

 近い。

 敵性反応なし。

 小規模。

 徒歩で十分。

 軽い任務の条件が、嫌なくらい揃っていた。

 参加者は、カナタ、ユウト、マコト、タクト、ヒナセ。

 護衛にハルク。

 リゼは拠点側で帰還地点作成。

 セナは医療棟待機。

 ガレスは「転ぶなよ」とだけ言った。

 それが一番不吉だった。

 春の旧道は、冬よりも歩きにくかった。

 雪は足を沈める。

 泥は足を掴む。

 水たまりは、何もない顔で穴を隠す。

 カナタたちは白線布を短く持ち、必要な場所だけに札を立てながら進んだ。

 ヒナセは小型通信機を見ている。

「通信、良好です。ノイズ少なめ」

「敵性反応は」

「ありません」

 その言葉に、誰も安心しきらなかった。

 マコトは足元を見ている。

 記録より先に足元。

 前回の黒札以来、彼はそれをかなり意識していた。

 メモ帳は胸ポケット。

 手は空いている。

 いいことだ。

 タクトは白布の端を持つ。

 缶は鳴らない。

 今日の道は静かだった。

 静かすぎると、水の音がよく聞こえる。

 ちょろちょろ。

 ぐずぐず。

 ごぼ。

 ときどき、地面の下で何かが喋るような音がした。

「排水溝、こっちです」

 マコトが言った。

 旧道の左側。

 半分崩れたコンクリートの縁。

 その下を、水が黒く流れている。

 落ち葉と泥と、細かい枝が詰まっていた。

 見た目は地味だ。

 危険には見えない。

 それが、危なかった。

「札を立てます」

 マコトが黄色い札を出した。

 《泥》

 その下に、小さく《靴が負ける》。

「ここは黒も」

 カナタは言った。

「なんか嫌、ですか」

「はい」

「理由は」

 マコトが訊いて、すぐに言い直した。

「理由は、後で」

「はい」

 成長している。

 理由より先に札。

 それでいい。

 マコトが黒札を立てる。

 その時、少し離れた場所で声がした。

「こっち、通れる?」

 避難民の子供だった。

 十歳くらい。

 近くの作業班についてきたのか、道の端に立っている。

 手には小さな袋。

 中身は分からない。

 カナタはすぐに言った。

「下がってください」

 声は普通だった。

 強すぎない。

 怖がらせない。

 そう思った。

 だが、子供は返事をしながら、一歩だけこちらへ出た。

「はーい」

 軽い一歩。

 春の泥に、靴が沈む。

 その下で、地面が抜けた。

 音は大きくなかった。

 ばき、でもない。

 どん、でもない。

 ただ、ぐしゃ、と言った。

 足元の薄い土が崩れ、子供の体が排水溝側へ傾く。

 袋が飛んだ。

 水が跳ねた。

 カナタの頭は、一瞬だけ真っ白になった。

 白ではない。

 泥色の白だった。

「掴め!」

 ハルクが叫んだ。

 タクトが白布を放す。

 ユウトが走る。

 マコトが手を伸ばす。

 子供の片足が排水溝へ落ちた。

 水の中。

 黒い流れ。

 カナタは動いていた。

 考えるより先に、地面へ伏せる。

 手を伸ばす。

 子供の袖を掴む。

 泥で滑る。

 指が抜けそうになる。

 タクトがカナタのベルトを掴む。

 ユウトがタクトを掴む。

 ハルクが二人をまとめて引く。

 人間の列。

 帰るためではなく、落ちないための列。

「引く!」

 ハルクの声。

 短い。

 強い。

 子供が泣いた。

 泣き声が、やっと聞こえた。

 さっきまで、音がなかった気がした。

 世界が、一拍遅れて戻ってくる。

 泥の匂い。

 水の冷たさ。

 袖の布が裂ける感触。

 ユウトの悪態。

 マコトの息。

 ヒナセの通信。

『医療班、南側排水路。落下事故。負傷一。繰り返します、落下事故』

 子供は引き上げられた。

 全身泥だらけ。

 足から血が出ている。

 骨は見えていない。

 意識はある。

 泣いている。

 泣いているなら、生きている。

 そう思ってしまった自分が嫌だった。

「医療袋!」

 カナタが言うより早く、マコトが袋を開いていた。

 手が震えている。

 でも、開いている。

「止血、できます」

「はい」

 マコトが包帯を出す。

 カナタは子供の足を押さえる。

 子供は泣きながら、袋を探していた。

「袋……」

「後で拾います」

 カナタは言った。

「今は足です」

「でも」

「足です」

 声が少し強かった。

 子供が黙った。

 泣き声だけになった。

 タクトが泥の中から袋を拾った。

 小さい。

 布の袋。

 中から、濡れた紙が少し見えた。

 タクトは何も言わず、それを子供の胸の上に置いた。

 子供は泣きながら握った。

 マコトが包帯を巻く。

 ぎこちない。

 でも、できている。

 ヒナセが周囲を見る。

「地面、さらに崩れます。下がってください」

 ハルクが全員を押し戻す。

 排水溝の縁が、もう一度崩れた。

 さっきまでカナタが伏せていた場所だった。

 黒い水が泥を飲む。

 ごぼ、と音がした。

 春の水は、やはり信用できなかった。

 セナが到着したのは、数分後だった。

 数分。

 短い。

 でも、事故の後の数分は長い。

 子供の足を見て、セナはすぐに言った。

「命に別状なし。足は縫う。低体温注意。泣けるなら泣いてていい」

 子供がさらに泣いた。

 セナはカナタを見る。

「他は」

「なし」

「即答」

「……泥に手をつきました」

「後で洗う」

「はい」

「医療袋」

 マコトが差し出す。

 中身は泥で少し汚れていた。

 包帯を出す時に落としたらしい。

 薬瓶のひとつが割れている。

 透明な液体が袋の底に溜まっていた。

 セナの顔が少しだけ変わった。

 怒りではない。

 痛みを隠す顔だった。

「……使える分、確認する」

 マコトが青くなる。

「すみません」

「今は謝らない」

「でも」

「後で」

 セナは短く言った。

 子供を担架へ移す。

 ハルクが担ぐ。

 ユウトが白布を回収する。

 タクトが黒札を抜く。

 ヒナセが通信を続ける。

 カナタは排水溝を見ていた。

 さっきまで、ただの地味な危険だった場所。

 いまは、事故の場所になった。

 札を立てた。

 声もかけた。

 でも、間に合わなかった。

 死んではいない。

 それでも、失敗だった。

 軽い確認任務だった。

 重めの確認と言い直した。

 それでも、足りなかった。

 ハウンド七に戻る道は、いつもより短く感じた。

 近いからではない。

 考えることが少なすぎたからだ。

 頭の中に、同じ場面ばかり戻る。

 子供の一歩。

 泥が崩れる音。

 袖の布。

 薬瓶の割れた音は、実際には聞こえていない。

 でも、聞こえた気がする。

 食堂へ戻ると、リゼが赤い布を柱に結んで待っていた。

「戻った」

 彼女が言った。

「はい」

「子供は」

「命に別状なし」

「そっか」

 リゼは少しだけ息を吐いた。

 それから、医療袋を見る。

 泥。

 割れた薬瓶。

 言わなくても分かる。

「薬、減った?」

「はい」

 カナタは答えた。

「そっか」

 それだけだった。

 誰も、よかったね、とは言わなかった。

 命に別状なし。

 それはよかった。

 でも、薬は減った。

 子供は怪我をした。

 事故は起きた。

 その三つが同時に存在している。

 どれか一つだけを見て済ませることはできない。

 夕方、帰ってきたもの置き場に、泥まみれの黒札がもう一枚増えた。

 その下に、マコトが小さな紙を置いた。

 《排水溝。春の水は信用しない》

 字は少し震えていた。

 ユウトが見て、小さく言う。

「名言っぽいですね」

 誰も笑わなかった。

 ユウトも笑わなかった。

 食堂の窓には、朝の文字がまだ少し残っていた。

 靴は負けても人は帰る。

 たぶん。

 カナタはその「たぶん」を見た。

 今日、子供は帰った。

 でも、足を怪我した。

 薬は減った。

 医療袋は泥で汚れた。

 帰還誘導は、成功と失敗がきれいに分かれない。

 帰ったから成功。

 怪我をしたから失敗。

 どちらも正しい。

 どちらも、足りない。

 夜、カナタは手袋を洗った。

 泥がなかなか落ちない。

 水は冷たい。

 指先が痛い。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、また湿る。

「悪化した」

 小さく呟く。

 今日は、いつもよりその言葉が笑えなかった。

 排水溝の音が、まだ耳の奥に残っていた。

 ごぼ、と。

 春の水が、下で笑ったみたいな音だった。

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