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第三十話 靴が負ける場所

 新人教育は、食堂の裏で行われた。

 教室ではない。

 机もない。

 黒板もない。

 あるのは、泥と、半分乾いた雪と、三号車の横腹と、昨日からそこに置きっぱなしになっている空の燃料缶だった。燃料缶は風で少しだけ揺れて、かん、と小さな音を立てる。そのたびにタクトがちらっと見る。

 音に反応する体になっている。

 そういうことを、カナタは最近、見ただけで分かるようになっていた。

 分かるようになりたかったわけではない。

 でも、分かってしまう。

 春のハウンド七は、学校と倉庫と壊れた駅を混ぜたような場所になっていた。

 食堂の窓には結露が残っている。

 格納庫ではミナが三号車に小言を言っている。

 医療棟からはセナの怒鳴り声が飛んでくる。

 通信塔は低い雲の下で、少しだけ湿った旗みたいに立っていた。

 そして食堂裏には、帰還誘導班の新人三人が並んでいる。

 ハルク・フォード。

 大きい。

 それだけで説明の七割くらいが済む。

 盾を背負った姿は、壁が移動を覚えたみたいだった。

 ヒナセ・アオイ。

 小柄で、通信機材の鞄を肩にかけている。軍服の袖が少し余っているが、手元だけは落ち着いている。古い機械を見る時の目が、ミナが車を見る時に少し似ていた。

 マコト・イシヤ。

 背筋が伸びすぎている。

 メモ帳を持っている。

 緊張していることを隠す気がない顔だった。

 たぶん隠せないのだ。

「では、新人教育を始めます」

 カナタは言った。

 言ってから、自分の声が少し硬いと思った。

 教育。

 教える。

 自分が。

 候補生だった頃の自分が聞いたら、たぶん変な顔をする。

 今の自分も少し変な顔をしている気がする。

「先生」

 リゼが食堂の窓から言った。

 窓は十センチ開いている。

 昨日より春だった。

「先生ではありません」

「じゃあ教官」

「それも違います」

「じゃあ湿った手袋先生」

「やめてください」

 ユウトが後ろで吹き出した。

 タクトも少し笑った。

 マコトは真面目にメモ帳を開いた。

「湿った手袋先生、記録しますか」

「しないでください」

「了解しました」

 最初の教育は、白線だった。

 白い布を地面へ置く。

 ただそれだけだ。

 ただそれだけのことを、カナタたちは何度も命綱みたいに使ってきた。

 吹雪の日。

 ハウラーの音。

 赤い布。

 最後尾。

 腰に結んだ白布。

 思い出そうとしなくても、手袋の内側が少し冷える。

 カナタは古い白布を持ち上げた。

 泥で汚れている。

 ところどころ擦り切れている。

 元は白かった。

 今は、白だったことを覚えている布、という感じだった。

「これは目印です」

 カナタは言った。

「でも、線だけでは人は帰れません」

 マコトがすぐメモを取る。

 線だけでは帰れない。

 字面だけ見ると、少し詩みたいで嫌だった。

「白線は、見る人がいて初めて線になります。布を置く人。布を見る人。布の先で待つ人。布から外れた人に気づく人」

 カナタは布を泥の上に伸ばした。

 白と泥の境目が、すぐに汚れる。

「だから、白線設置は一人の仕事ではありません」

「班で見る」

 マコトが言った。

「はい」

「記録します」

「それはしてください」

 ハルクが白布を見下ろす。

「敵は線を壊すか」

「壊す時もあります」

「人を狙う時もある」

「はい」

 その言葉で、少しだけ空気が変わった。

 昨日の初仕事。

 小型熱源。

 泥で止まった民間車両列。

 ハルクが初めて帰還誘導班の横に立った日。

 レイスは列の端ではなく、人を見ていた。

 止まりそうな人。

 支えている人。

 声を出している人。

 列は線だ。

 でも、レイスは線の中の柔らかい場所を覚え始めている。

 それを口にすると、春の風が少し冷えた。

 ユウトが手を上げた。

「先生」

「だから違います」

「質問です。白線が泥で見えない時は?」

「赤を足します」

 リゼが窓の中から赤い布を振った。

「このように」

「教材が窓から出てきた」

 ヒナセが小さく笑う。

「赤は目立ちます。ですが、赤だけだと人が一点を見ます。線としては弱くなる」

 カナタは赤い布を白布の途中へ結ぶ。

「だから、点と線を分けます。白線は進む方向。赤は戻る場所や合流点」

「点と線」

 マコトが呟く。

「はい」

「かなり分かりやすいです」

「よかったです」

 マコトは真面目に頷いた。

 真面目すぎて、カナタは少し不安になる。

 真面目な人間は、時々、自分の失敗も真面目に抱え込む。

 そういう人は、列の中で急に重くなる。

 まだ会ったばかりなのに、そんなことまで考えている自分が少し嫌だった。

 次の教育は、荷物だった。

 食堂裏に古い机を置き、その上にいろいろ並べる。

 薬箱。

 水筒。

 毛布。

 写真立て。

 缶詰。

 赤い手袋。

 壊れたラジカセ。

 靴下。

 なぜか豆一粒。

「最後のは?」

 ヒナセが訊いた。

「ユウトさんです」

 カナタは答えた。

「教材です」

 ユウトが胸を張る。

「食料の象徴」

「食べないでください」

「食べませんよ。さすがに教材は食べない」

「教材じゃなければ?」

「状況によります」

 セナがどこからか現れた。

「食べるな」

「今、いませんでしたよね」

「聞こえた」

「怖い」

 荷物一つ。

 それがルールだった。

 けれど、ルールだけでは足りない。

 薬箱は必要だ。

 水筒も必要だ。

 写真も必要なことがある。

 毛布は命になる。

 靴下は、春の泥ではかなり強い。

 壊れたラジカセは役に立たない。

 でも、それを持っていないと歩けない人もいる。

「荷物は重さではなく、止まる理由で見ます」

 カナタは言った。

「止まる理由」

 マコトが繰り返す。

「はい。その荷物のせいで手が塞がるか。転んだ時に離せるか。置けと言ったら、その人が止まるか」

「置けと言ったら止まる」

「あります」

 タクトが静かに言った。

 腰の缶に触れている。

 誰も何も言わなかった。

 タクトは続けた。

「持ってるから歩けるものもあります」

 短い。

 でも、十分だった。

 ハルクは机の上の物を見る。

「持たせるべき物と、持たせていい物が違う」

「はい」

「持たせてはいけない物もある」

「あります」

 リゼが窓から顔を出す。

「あと、ポケットに入るなら勝ち」

「勝ち?」

 ヒナセが訊く。

「写真は額ごと持つと負けるけど、写真だけなら勝ち」

「なるほど」

 マコトがメモする。

 写真だけなら勝ち。

 それは記録していいのかとカナタは少し迷ったが、止めなかった。

 たぶん、いい。

 現場では、正確すぎる言葉より、少し変な言葉の方が届くことがある。

 靴が負ける。

 写真だけなら勝ち。

 そういう言葉は、硬い命令より、人の手を動かす。

 午前の最後は、列だった。

 泥の上に線を引く。

 先頭。

 中央。

 最後尾。

 歩ける人。

 歩けない人。

 歩けると言い張る人。

 カナタが丸を描くと、リゼが窓から言った。

「私のこと見た?」

「教材として」

「やっぱ見た」

「大丈夫と言う人ほど大丈夫ではない」

 セナが横から言う。

 全員が少し目を逸らした。

 新人三人も含めて。

「全員、心当たりがある顔」

 セナは言った。

「人類に刺さる」

 ユウトが呟く。

「刺さっとけ」

 セナの言葉は短い。

 短いので、刺さる。

 カナタは泥の上に、中央の丸を大きく描いた。

「中央は、地味です。でも一番崩れます」

「なぜですか」

 マコトが訊く。

「前を見すぎる人と、後ろを気にする人が混ざるからです。荷物も、子供も、歩けない人も、だいたい中央に集まります」

「中央を見れば、列が見える」

 タクトが言った。

「はい」

 カナタは頷く。

「ただし、全部見ようとすると見えません」

 マコトのペンが止まる。

「全部見ない」

「はい」

「でも、見落とすと」

「事故になります」

 自分で言って、カナタは少しだけ胸が冷えた。

 まだ起きていない事故の話をしているはずなのに、もうどこかで見たことがあるような気がした。

 春の泥。

 排水溝。

 子供の足。

 薬瓶。

 それはこの時点では、まだ未来だった。

 未来なのに、泥の匂いだけが先に来ている。

「全部見ない。でも、見える場所を分ける」

 カナタは続けた。

「先頭。中央。最後尾。足元。音。車両。医療。通信。分けます」

 ヒナセが頷く。

「声も分けられます」

「はい」

「拡声器、放送、手信号」

「使えるものは使います」

「学校のチャイムも?」

 リゼが言った。

 カナタは窓を見る。

 リゼは軽い顔をしていた。

 でも、旧学校区の話が出ると、その軽さの後ろに何かが見える。

 まだ帰っていない場所。

 放送室。

 声。

「使えるなら」

 カナタは答えた。

「ふうん」

 リゼは赤い布を指で巻いた。

「じゃあ、そのうち行こう」

 軽く言った。

 軽く言ったのに、食堂裏の空気に小さな杭が打たれたみたいだった。

 午後、実地訓練が行われた。

 避難民役はユウト、タクト、リゼ、ミナ、なぜかセナ。

 新人三人が誘導する。

 カナタは見る側。

 ガレスは少し離れた場所で煙草を咥えている。

 火はついていない。

「始め」

 ガレスが言った。

 ユウトがいきなり荷物を三つ持った。

「家宝です」

「一つまでです」

 マコトが即答する。

「全部大事です」

「ポケットに入るものは抜いてください」

「やるな」

 リゼが感心する。

 ユウトは荷物から豆を一粒抜いた。

「これだけ持ちます」

「それは置いてください」

「なぜ」

「食べそうなので」

「信用がない」

 ヒナセは後方から拡声器を使う。

『泥の深い場所は、靴が負けます。白線の内側へ』

 リゼが拍手した。

「いい」

 ハルクは右側に立つ。

 何も喋らない。

 ただ立っている。

 それだけで、右側へ流れそうな列が戻る。

 壁があると、人はそちらへ行かない。

 ハルクは本当に壁として優秀だった。

 タクトは避難民役なのに、中央を直そうとしてしまう。

「役に入ってください」

 カナタが言う。

「すみません」

「職業病ですね」

 ユウトが言った。

「まだ職業になったばかりですけど」

「新鮮な職業病」

 訓練は妙にうまくいった。

 うまくいきすぎて、少し怖いくらいだった。

 泥。

 白線。

 赤い布。

 荷物。

 声。

 新人三人は、それぞれの場所を見ている。

 カナタ一人ではない。

 それが分かると、肩の力が少し抜けた。

 抜けた瞬間、通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 訓練の空気が消える。

 誰も冗談を言わない。

 アイラの声が流れる。

『南東補給路、民間車両列、再停止』

 ノイズ。

『泥濘拡大。小型熱源、接近中』

 昨日の初仕事の続きみたいな場所だった。

 春の泥は、一度では終わらない。

 カナタは白布を持ち上げた。

 泥で汚れた布。

 さっきまで教材だったものが、急に命綱になる。

「実地です」

 リゼが窓から言った。

「嫌な言い方ですね」

「でも、そうでしょ」

「はい」

 カナタは新人三人を見た。

 ハルクは盾を背負う。

 ヒナセは通信機を確認する。

 マコトはメモ帳をしまい、足元を見る。

 ちゃんと、しまった。

 それでいい。

「行きます」

 カナタは言った。

「今日やった通りに。全部見ないでください。自分の場所を見てください」

 マコトが頷く。

「はい」

 ヒナセも。

「声、分けます」

 ハルクは短く言う。

「抜かせない」

 ユウトが笑った。

「頼もしい壁」

「人です」

 カナタとリゼの声が重なった。

 少しだけ笑いが起きた。

 笑いはすぐ、三号車のエンジン音に飲まれた。

 食堂の湯気が背中に残る。

 春の泥の匂いが前から来る。

 新人教育は、午前で終わった。

 午後からは、もう現場だった。

 ハウンド七では、たいていそうだ。

 授業は短い。

 休み時間はもっと短い。

 けれど、短い時間に覚えた線が、誰かを帰すことがある。

 カナタは手袋をはめ直した。

 湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ少しだけ、また湿った。

「悪化した」

 小さく言う。

 マコトが隣で真面目に訊いた。

「それも記録しますか」

「しないでください」

「了解しました」

 三号車が泥へ出る。

 白線布が荷台で揺れる。

 赤い布が食堂の柱で揺れる。

 新しい三人が、それぞれの場所を見ている。

 帰還誘導班は、春の現場へ向かった。

 靴が負ける場所へ。

 人を勝たせるために。

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