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第二十一話 患者服と補給車

 リゼは、正式に医療棟待機を命じられていた。

 正式に。

 書類で。

 署名つきで。

 医療棟の入口横に貼られたその紙には、《リゼ・旧学区防衛学校所属。外出禁止。特に車両格納庫・食堂・補給車周辺への接近を禁ず》と書かれていた。

 字はセナの字だった。

 角ばっていて、強い。

 紙の裏側まで怒っていそうな字だった。

 リゼはそれを見上げていた。

 白い患者服。

 肩から軍用コート。

 首にタオル。

 片手には、昨日返された赤い子供用手袋。

 持ち主の子供は朝になって熱を出し、医療棟で眠っている。だから手袋は一時預かりだった。返すべきものを持っていると、勝手に外へ出る理由になる。リゼはそう思っていた。

「特に、って書かれてる」

 リゼが言った。

 隣にはタクトがいた。

 医療棟へ水を運びに来たところだった。腰には布を巻いたオレンジソーダ缶。歩いても鳴らない。彼は最近、音を消すことについて少し誇らしげに見える。

「特に、ですね」

「私、信用ない?」

「実績があるので」

「密航は一回だけ」

「二回です」

「備蓄は密航に入らない」

「入ると思います」

 タクトは真面目に言った。

 リゼは少しだけ口を尖らせた。

「タクトくん、最近セナさん寄り」

「命の恩人なので」

「私も命の恩人割を提案したのに」

「配給制度としては未承認です」

「硬い」

 医療棟は暖かかった。

 食堂よりも暖かい。

 けれど、リゼはここが苦手だった。

 消毒液の匂い。

 湿った包帯。

 熱を出した人間の息。

 カーテンの向こうで誰かが咳をしている。別のベッドでは、衛生兵が低い声で数を数えている。脈拍。呼吸。体温。全部、数字になる。数字になると管理できる。でも、数字になった人間を見るのは少し怖い。

 リゼは医療棟が嫌いではなかった。

 セナも嫌いではない。

 むしろ好きな方だ。

 怒るし、怖いし、すぐ熱を測るし、患者を人質みたいに扱うけれど、誰も死なせたくない人の怒り方をしている。

 でも、ここにいると、自分が待つ側になる。

 それが嫌だった。

 待つ側は、音を聞く。

 エンジン音。

 警報。

 通信塔のノイズ。

 遠くの銃声。

 帰ってくる足音。

 そして、帰ってこない沈黙。

 待つ側は、自分の足でどうにもできない。

 それが一番怖い。

「リゼ」

 背後から声がした。

 セナだった。

 リゼは反射的に背筋を伸ばした。

「はい」

「紙、読める?」

「読めます」

「内容は?」

「外出禁止」

「理解は?」

「しています」

「じゃあ、なぜ靴を履いてる」

 リゼは足元を見た。

 学生靴だった。

 雪に向いていない。

 戦場にも向いていない。

 でも、履いていると少しだけ自分が自分でいられる。

「足が寒くて」

「ベッドに戻ればいい」

「ベッドは退屈」

「退屈で死ぬ人はいない」

「心が」

「熱がある人は心より体」

「名言っぽい暴力」

 タクトが小さく笑った。

 セナが見る。

 タクトはすぐに真顔になった。

「すみません」

「謝るなら水置いて戻って」

「はい」

 タクトは逃げるように医療棟を出ていった。

 缶は鳴らなかった。

 えらい、とリゼは思った。

 缶が鳴らないだけで、戦場では少しだけえらい。

 世界の採点基準はだいぶ壊れている。

 リゼは紙をもう一度見上げた。

 外出禁止。

 特に。

 車両格納庫。

 食堂。

 補給車。

 行きたい場所ばかりだった。

 その時、通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 医療棟の空気が変わる。

 カーテンの向こうの咳が止まる。

 誰かが息を詰める。

 セナの顔も変わった。

 アイラの声が流れる。

第五補給維持隊モール、大型補給車一両、北東路で停止』

 ノイズ。

『護衛要請。周辺に小型熱源複数。中型反応一』

 リゼはセナを見た。

 セナは見返した。

「だめ」

「まだ何も」

「顔」

「最近みんな顔で先読みしすぎ」

「分かりやすい顔をする方が悪い」

 セナは医療袋を肩にかけた。

 リゼはその動きを見た。

「セナさんも行くの?」

「医療支援」

「私は?」

「ベッド支援」

「何それ」

「ベッドを温める」

「湯たんぽ扱いされた」

 セナは無視して医療棟を出ようとする。

 リゼはその背中を見た。

 足が、勝手に一歩出た。

 セナが振り返る。

「リゼ」

「……赤い手袋、返してない」

 リゼは手袋を見せた。

「持ち主、医療棟で寝てる」

「じゃあ戻ってから返せばいい」

「でも、この手袋、昨日の目印になった」

「うん」

「今日も、目印がいるかもしれない」

 セナは黙った。

 怒られると思った。

 熱があるとか、患者だとか、足手まといだとか、そういう言葉が来ると思った。

 けれどセナは、そうしなかった。

 ただ、リゼの額に手を当てた。

 ひんやりした手だった。

「熱はある」

「はい」

「走らない」

「はい」

「銃は持たない」

「はい」

「勝手に荷台へ入らない」

「それは……」

「返事」

「はい」

 セナはため息をついた。

「快く許可したわけじゃない」

「分かってます」

「倒れたら担架に縛る」

「縛るんだ」

「縛る」

 リゼは少しだけ笑った。

 嬉しかった。

 怒られているのに。

 連れていかれるのに。

 なぜか嬉しかった。

 待つ側ではなくなる。

 それだけで、体が少し軽くなった。


 北東路へ向かう車内は、灯油と油と雪の匂いがした。

 リゼは荷台の端に座って、赤い手袋を膝の上に置いていた。

 カナタが向かいにいる。

「医療棟待機では」

「許可済み」

 リゼが胸を張る。

 セナが隣で言う。

「監視付き」

「細部は省略して」

「重要な細部」

 ユウトが笑った。

「リゼさん、今回の肩書きは何ですか」

「目印係」

「かっこいいような、そうでもないような」

「赤手袋担当」

 リゼは赤い手袋を振った。

 小さい。

 子供用。

 白い雪の中では、よく目立つ。

 タクトが自分の缶を触る。

「赤って、見えますよね」

「昨日は助かりました」

 カナタが言った。

 リゼは少しだけ黙った。

 助かった。

 その言葉は軽いのに、手袋より重かった。

 昨日、声が消えた雪原。

 ハウラーの低い音。

 言葉が届かなくなった避難列。

 あれは全員の中にまだ残っている。

 だから、赤い手袋はただの手袋ではなくなっていた。

 声が使えなくなった時の、もう一つの声。


 北東路には、大型補給車が止まっていた。

 遠くからでも分かった。

 大きい。

 巨大な箱のような車体。

 側面に《第五補給維持隊》の標識。

 雪に半分埋まり、後輪が空転した跡が黒く残っている。周囲には補給兵が数人。銃を構えている者、車体下を覗き込む者、荷台の扉を押さえている者。

 それから、避難民。

 子供が多い。

 補給車に同乗していたらしい。

 大型補給車はただの輸送車ではない。移動する倉庫であり、簡易発電機であり、水と食料と毛布を載せた、少しだけ動く食堂だった。

 だから止まると、人が寄る。

 人が寄ると、列になる。

 列になると、レイスが来る。

「小型、三」

 ユウトが言った。

「右奥」

 タクトが続く。

「あと、あれ」

 ミナが低く言った。

 雪原の向こうに、細長い影が立っていた。

 ハウラー。

 昨日と同じ種類。

 まだ遠い。

 でも、首の裂け目が震えている。

 カナタの耳の奥が、少しだけ圧を感じた。

 まだ鳴いていない。

 鳴く前だ。

「来ます」

 カナタが言った。

 セナがリゼの肩を掴む。

「車内」

「目印係」

「目印は車内でもできる」

「それだと見えない」

 リゼは子供たちを見た。

 泣く前の顔。

 何が起きているのか分からない顔。

 でも、大人の顔を見て不安だけは分かっている顔。

 声が消えたら、この子たちは何を見るのだろう。

 リゼは息を吸った。

 冷たい。

 喉が少し痛い。

 でも、声は出る。

「みんなー!」

 リゼが叫んだ。

 カナタが驚いて振り返る。

 セナも。

 リゼは赤い手袋を高く上げた。

「赤い手袋、見える人ー!」

 子供たちが顔を上げる。

 一人が手を上げた。

 また一人。

 補給兵の一人が呆れたような顔をする。

 でも、子供たちはリゼを見た。

 ハウラーではなく。

 黒い影ではなく。

 赤い手袋を見た。

「見える人は、こっち見て歩く!止まったらセナさんに怒られるよー!」

 セナが小さく言う。

「なんで私」

「一番効くので」

「否定できない」

 ユウトが笑った。

 それからすぐに動いた。

「子供は補給車の左!大人は右!荷物は一つ!泣くのは歩きながら!」

「泣くの許可制なんですか」

 タクトが言いながら、子供の列へ走る。

「泣いていいけど止まらない!缶も鳴らさない!」

「缶?」

「こっちの話!」

 少しだけ笑いが起きた。

 笑った子供が、歩き出す。

 補給車の周囲に散っていた人たちが、少しずつ形を持ち始める。

 カナタはそれを見た。

 声が列を作っている。

 命令ではない。

 作戦指示でもない。

 赤い手袋と、怒られるよというくだらない脅しと、患者服の少女の声。

 それで人が動く。

 列は、安心でも動く。

 カナタは初めて、それをはっきり理解した。

 今まで列は、恐怖で動かすものだと思っていた。

 止まると死ぬ。

 荷物は一つ。

 後ろを見るな。

 それも必要だ。

 でも、それだけでは人は硬くなる。

 硬くなった列は折れやすい。

 リゼの声は、列を柔らかくしていた。

 ハウラーが鳴いた。

 低い音。

 耳の奥へ入ってくる圧。

 通信がざらつく。

 ユウトの声が遠くなる。

 タクトの声も。

 でも、子供たちは赤い手袋を見ていた。

 リゼは手を振る。

 大きく。

 何度も。

 声が届かなくても、動きは見える。

 赤い手袋が、雪の中で揺れる。

 カナタは前へ出た。

 小型レイスが右から回り込む。

 ユウトが撃つ。

 ガレスの車両が遅れて入り、機銃で散らす。

 補給兵たちは大型補給車の後輪を掘り出している。

 ミナが車体下へ潜り込む。

「これ、重すぎ!」

「動きますか!」

「動かす!」

「質問の答えでは」

「動かすって言った!」

 セナは列の途中で、顔色の悪い老人を引き抜いた。

「車へ」

「歩ける」

「大丈夫って言う人は大丈夫じゃない」

「いや本当に」

「本当にって足す人も大丈夫じゃない」

 老人は黙って車へ向かった。

 ハウラーの音が強くなる。

 声が砕ける。

 リゼの喉が痛んだ。

 それでも彼女は叫ぶ。

「赤いの見てー!こっちー!止まらないでー!」

 最後は声ではなく、ほとんど息だった。

 でも、手袋は見えていた。

 子供たちはその赤を追った。

 大型補給車のエンジンが唸る。

 ミナが叫ぶ。

「出る!」

 車体が揺れる。

 一度、止まる。

 もう一度、唸る。

 後輪が雪を噛む。

 黒い泥と雪が跳ねる。

 動いた。

 補給兵たちが息を吐く。

 歓声はない。

 ハウラーの音に潰されている。

 それでも、全員の顔が少しだけ変わった。

 動く。

 帰れる。

 その感覚だけで、人は歩ける。

 最後の子供が補給車の陰へ入った時、リゼは手袋を下ろした。

 膝が少し折れる。

 セナが支えた。

「言ったよね。走るなって」

「走ってない」

「叫ぶなとは言ってなかった」

「言われてない」

「次から言う」

「横暴」

 リゼは笑おうとして、咳き込んだ。

 セナが背中を叩く。

 ハウラーは雪の向こうへ下がっていった。

 倒したわけではない。

 退かせただけ。

 それでも列は動いた。

 補給車も、人も、赤い手袋も。

 ハウンド七へ戻る車内で、リゼは毛布にくるまっていた。

 喉が潰れかけていて、声が出にくい。

 それでも小さく言った。

「目印係、どうでした」

 カナタは少し考えた。

「必要でした」

「高評価?」

「はい」

「じゃあ、外出禁止の紙、剥がしていい?」

「それは別です」

「厳しい」

 タクトが赤い手袋を見た。

「返すんですか」

 リゼは頷いた。

「うん。借り物だから」

「目印なのに」

「目印だったから、なおさら返す」

 彼女は手袋を両手で包んだ。

「でも、覚えた」

「何を」

「赤は見えるって」

 カナタは窓の外を見た。

 雪。

 灰色の空。

 補給車の低いエンジン音。

 列はゆっくり南へ戻っている。

 リゼの声で動いた列。

 安心で動いた列。

 たぶん、これも帰還誘導の一部なのだ。

 まだ名前はない。

 でも、必要だった。

 ハウンド七に戻ったら、食堂の窓に豆ではなく、赤い手袋を描くかもしれない。

 ユウトなら、たぶん描く。

 下手な絵で。

 それでも、誰かは見る。

 見て、少し笑う。

 そして次に雪原で赤いものを見た時、止まらずに歩けるかもしれない。

 そういう小さなことが、列を帰すのだと思った。

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