8章
わたしは今、王宮の大広間に立っている。
たくさんの貴族たちが円形に並んだ席に腰かけ、中央の議論台を見下ろしている。その視線は厳しく、冷ややかなものばかり。宰相派が大半を占めているため、どこか張り詰めた空気がひしひしと伝わってくる。
奥の席には王妃と数名の重鎮が腰を下ろし、その隣にレオナール殿下が静かに控えている。殿下は朝からずっと硬い表情だ。「絶対に俺から離れるな」と言われ、騎士たちがわたしの周囲を取り囲むようにして配置されている。
(貴族会議……まさかこんな大舞台で、わたしが話をすることになるなんて)
胸が痛いほど高鳴る。けれど、ここから逃げたらすべてが無駄になる。わたしは今まで築いてきた改革案をまとめ上げ、ギリギリまで推敲してきた。宰相派が提出する「七海国外追放案」に対抗し、逆にこの国を救うための決定打を、この場で示すしかない。
やがて王妃が杖で床を突き、会議の開幕を告げる。
「――では、提案の順に従い、議題を審議することといたしましょう」
その声に合わせ、宰相派の貴族が一斉に座を立つ。先陣を切って進み出るのは、宰相ガブリエル本人。
「まず、今回の会議におきまして我々が提案したいのは“藤宮七海の国外追放案”であります」
堂々とした態度でそう宣言すると、周囲の貴族が「そうだそうだ」と相槌を打つ。わたしは背筋が凍るような気持ちを押し殺しながら、黙ってガブリエルを見つめる。
「ご存じの通り、彼女には“破滅の呪い”があるという噂が絶えません。それが真実か否かは置くとしても――この国に混乱を招いているのは事実だ。ならば、いったん彼女を国外へ退去させることで、国の安定を取り戻すべきではないでしょうか?」
まるで説得力があるかのように言い放つ。わたしに対して敵意をむき出しにしてきた姿と比べれば、ずいぶん穏やかな口ぶりだが、その裏には絶対に邪悪な計算がある。ここでわたしを追放すれば、あとは事故を装って始末する気だろう。
「異邦人がいることで、王宮の秩序が乱れているのは確か。皆様も、そこはご存じのはず」
「ええ、そもそも彼女が現れてから、王都の不穏な噂が増えたとか」
「貴族連中の浪費など、それこそ王国の伝統であり、呪いと関係ありませんからな」
自分勝手な意見が次々と飛び出す。わたしは舌打ちをこらえながら、必死に冷静を保つ。こんな場で感情的になったら終わりだ。
だが、意外にも「確かに新しい改革案が多少成功しているのでは?」という声もちらほら聞こえてくる。おそらく、レオナール殿下やユリウス、あるいは一部の改革派貴族が事前に根回しをしてくれたのかもしれない。完全に宰相派の独壇場というわけではないようだ。
ガブリエルはそれを聞き逃さず、薄く笑みを浮かべる。
「なるほど、彼女が貿易や税制改革で多少の成果を出している、と? ですが、その裏でどれだけの問題が起きているかご存じですか? “呪い”を恐れた商人が商売を放棄したり、庶民がただでさえ苦しい税を嫌がったり――混乱が拡大しているではないですか」
矛盾だらけの言い分に腹が立つ。でも、ここはわたしが用意した資料で反論するしかない。
レオナール殿下が軽くうなずき、わたしに合図を送る。今が出番だ。わたしは護衛の騎士たちをかき分けるようにして、議論台へと進む。足が震えそうになるけれど、失敗するわけにはいかない。
「……失礼いたします。藤宮七海と申します」
そう名乗った瞬間、宰相派の幾人かが嫌悪感をあらわにする。中には「呪われた娘がしゃべったら厄災を招く」とぼそりと呟く者もいる。
(そんな言葉に屈しないで、わたし――)
喉がカラカラだが、用意した書類を取り出し、その数値を見つめると落ち着きがわずかに戻る。
「わたしが進めているのは、“呪い”などではなく、“合理的な改革”です。まず、王国の財政がどれほど逼迫しているか――その理由は、はっきりとデータに出ています。高すぎる貴族特権による浪費、非効率な関税システム、そして商人ギルドとの癒着……」
「黙れ、そんなことはどの国でもある問題――」
「いいえ、“どの国でもある”では済まされない。いまの王国はすでに赤字が積み重なり、国庫は限界に近い」
わたしがはっきり言い放つと、貴族の何人かが動揺の声を上げる。「馬鹿な、そんなはずは」「誇張ではないか」といった困惑が混じる。しかし、わたしは手元の書類を掲げ、数字を示しながら続ける。
「ここにあるのは、わたしが算出した正確な国庫の収支試算です。このままの税制度と浪費構造を維持するなら、国が破綻するのは時間の問題だとわたしは考えます。……そこへ呪いを持つ娘が現れたから国が傾く? そんなはずがありませんよね」
息が詰まるほどの沈黙。ガブリエルは明らかに苛立ちを隠せないようで、机を指でトントン叩いている。おそらく、こうして堂々と事実を突きつけられるとは想定外だったのだろう。
「彼女の言葉は真実でしょうか? 貴族が税を優遇されているのは、当然の序列であり、この国の伝統では――」
「伝統という名で浪費を肯定するのは、国を破滅に導く道です。少なくとも、数字はそう物語っています。……そして、わたし自身が“破滅の呪い”だと言われる理由なんて、一つも見当たらない。むしろ、政治や経済の不具合から目をそらすために、呪いを騒ぎ立てているようにしか見えません」
喉がヒリヒリするほど声を張り上げている。大広間はざわつき、騎士たちが「静粛に」と呼びかける声が反響する。王妃ですら、困惑の表情を隠せない。
ガブリエルは唇をゆがめている。彼が最後の手段として何かを仕掛ける予感がする。その瞬間、リリアナがふわりと席を立つ。きらびやかなドレスをはためかせながら、わたしへ歩み寄る。その表情は冷酷な微笑をたたえている。
「いいかしら? そもそも、あなたが呪われているという“証拠”は、以前にも何度も示されているのよ。花が枯れるとか、悪い噂が立つとか。あなたが関わると不幸が起きる……そういう事件がいくつも起きているわ」
リリアナは語尾をあえて引き伸ばし、わたしを嘲笑うような目つきを向ける。彼女としては、ここで“呪い”を再度印象づけて貴族たちを煽るつもりなのだろう。
「花が枯れたって、物が壊れたって、偶然か捏造かもしれないでしょう? それなのに、“呪い”と騒ぐのは無理やりすぎる」
わたしはなるべく平静を保って反論するが、リリアナは余裕の笑みを崩さない。
「いいえ、偶然なんかじゃないわ。あなたのせいで、王家の名誉が大きく傷ついたのよ。……とりわけ、殿下の立場を下げているわ」
彼女はわざと語気を強め、「あなたが殿下を惑わせ、国を混乱させている」とでも言いたげにまくし立てる。
(――馬鹿な話。惑わせてるのはどっちなんだか……)
胸が苦しくなる。もし、ここでリリアナの言葉に乗せられて感情的に応じたら、場の空気はさらに宰相派優位に流れてしまう。
そのとき、まるで真空を裂くようにレオナール殿下の低い声が響く。
「くだらないデマを繰り返すな、リリアナ。――貴様は自分の父親が何をやっているか知らないとは言わせないぞ」
会場の注目が一気に殿下へ向かう。リリアナはぎょっとした表情で殿下を見上げるが、殿下は冷ややかに視線を返すだけ。
「ガブリエル殿、お前もだ。貴様が“呪いの噂”を流した証拠は既に押さえてある。……市場や商人ギルドに働きかけ、あえて花や道具を腐らせる偽装工作をしたことも把握している。全部、こいつが俺の手元から離れた隙を狙って行われていたんだろう」
ざわつきが最高潮に達する。ガブリエルは「何を根拠に」と声を荒げるが、殿下の周囲にいた騎士たちが、数枚の証拠書類を掲げる。そこには“宰相派が商人らへ賄賂を渡し、あえて七海のせいに見せかける細工を依頼した”という取り決めの痕跡が記されている。
「そんな、馬鹿な……」
「いや、ガブリエルならやりかねない」
貴族たちの戸惑う声が飛び交う。リリアナは目を見開き、まるで地獄を見たかのような顔で父・ガブリエルを見つめる。ガブリエルは、それでもなんとか反論しようとする。
「証拠など捏造かもしれない! 王子が自らの権力で作り出した……」
「ならば裁判を開こう。異議があるなら正式に申し立てるがいい。……もっとも、お前の周囲からは既に複数の証言が得られているがな」
殿下の声は冷徹だが、隠し切れない怒りを帯びている。わたしはその光景を息をのんで見守る。いつの間に殿下はここまで証拠を押さえていたのだろう。確かにあの夜、何度も姿を消しては戻ってきたことがあった。宰相派の裏工作を暴くために奔走していたに違いない。
「……ふん、王子ごときがどこまでやれるのか……」
ガブリエルが忌々しそうに低く呟く。しかし、王妃やほかの貴族たちは、明らかにガブリエルを疑わしげに見始めている。この場で宰相派が優位に立つのはもう難しいだろう。
リリアナはわなわなと震えながら、わたしを睨む。
「こんなの不公平よ! あなたは呪われているはずなのに、どうして……」
わたしは静かに首を振る。
「呪いなんて最初から存在しなかったんです。あなたたちが捏造し、民衆を欺くために作り上げた幻想です。……だから、そんな嘘に負けるわけにはいきません」
その言葉にリリアナは何かを言いかけるが、結局声にはならない。まるで事実を突きつけられて気力を失ったかのようだ。王妃も険しい表情で、宰相とリリアナを交互に見ている。
すると、ガブリエルのまわりの宰相派貴族たちが青ざめた顔を見せ始める。「もうこれ以上、彼らをかばうのは無理かもしれない」と言わんばかりにざわめきが起きる。王妃がその様子を見かねて、厳かな声で言い放つ。
「宰相ガブリエル、およびその関係者による“呪いの捏造工作”が疑われる以上、しばし身柄を拘束せざるを得ません。……殿下はそれでよろしいのですね?」
レオナール殿下は深くうなずき、ガブリエルとリリアナを静かに見下ろす。
「当然だ。……国を私物化し、庶民を苦しめ、挙句の果てに破滅の責任を一人の娘に押しつけようなど、王宮が許すわけにはいかない」
ガブリエルは怒り狂うような視線でレオナール殿下を睨むものの、既に騎士たちが取り囲みつつある。彼らは必死に抵抗を試みようとするが、会場の流れは完全に殿下と改革派へ傾きかけている。
(これでようやく……わたしは呪いから解放される?)
信じられない気持ちでいっぱいだ。呪いなど存在しないことが公に示されれば、わたしの“破滅の呪い”疑惑はただのデマにすぎなかったと証明される。そうなれば、堂々と経済改革を続けられるし、庶民たちも安心してくれるかもしれない。
――と、そのとき、殿下がふとわたしを振り返る。瞳の中に、まだ何か決意の光がある。わたしが戸惑う間もなく、彼は貴族たちの前で静かに言葉を発する。
「……それだけではない。藤宮七海は、そもそも“呪われた娘”などではないし、放逐されるべきでもない。国を支えるうえでも必要不可欠な存在……そして俺が選んだ相手だ」
その場が水を打ったように静まる。まさかここで宣言するのか。以前にも“偽りの婚約”を口にしたことはあったが、それが政治的方便だと思われていた人が多かったかもしれない。だが、今の殿下の声にははっきりとした本気がこもっている。
「――よって、俺は彼女を正式に妃とする。異議があるなら、今ここで言えばいい」
震えるほどの衝撃に、わたしは思考が止まる。偽りの婚約だったはず……いや、あのときからいろいろあって、互いの気持ちは確かに揺れ動いていた。だけど、こんなに堂々と“正式な妃にする”と言われるなんて――。
驚きのあまり動けずにいると、宰相派の貴族たちが一斉に声を荒げる。「そんな馬鹿な!」「平民の女を妃にするなど前代未聞だ!」と大騒ぎになる。でも、それはもう先ほどまでとは違う。呪いが捏造だった証拠が出たばかりで、宰相派の影響力は激減している。
王妃さえも困惑しながら殿下を見つめているけれど、反対意見を口にする勇気はなさそうだ。
わたしはようやく体を動かし、彼の隣へ歩み寄る。会場の視線が一気にこちらに集中する中、殿下と目が合う。彼の瞳はいつもより柔らかい光を帯びている。
「……わたし、本当に、そんな資格があるんでしょうか」
頬が熱い。震える声が情けない。でも、殿下は小さく息を吐き、頭を振る。
「資格? 数字が示すところ、今のお前は王国にとって必要不可欠な人物だ。……それに、王族である俺が誰を妻に迎えるか、貴族たちに強制されるいわれはない」
なんて力強い言葉。視界の隅でガブリエルが激しく抵抗しているのが見える。でも騎士が抑え込み、彼の声はもう会場には届かない。リリアナも絶望したように膝をついてしまっている。これが、わたしを呪い呼ばわりしていた人たちの末路なのか――胸が苦しくもあるけれど、やはり許せない気持ちは強い。
殿下はやや乱暴なほどわたしの腕を取り、会場の中心に立たせる。すると、ほかの騎士たちが周囲から人々を下げて、自然とわたしたちの周りにスペースができる。
「……誰か文句があるなら言え。こいつが俺の妃になることで、国が滅びるとでも言うのか?」
嘲るような殿下の低い声に、貴族たちは一斉に沈黙する。先ほどまで「呪い」の話題を振りかざしていた連中も、宰相派の崩壊を目の当たりにして尻込みしている。王妃も思案げな表情をしているが、強く反対はしていない。
会場が静まり返る中、レオナール殿下はわたしの腕を引き寄せ、震えるほど近い距離で囁く。
「本当はもっと落ち着いた場で言いたかったが、まあいい。……お前が嫌じゃなければ、俺のそばにいろ」
「わたしは……」
胸が苦しくなる。あの偽りの婚約が、今こうして誰もが認めざるを得ない公式の場で現実になるかもしれない。どうしてこんなに動揺しているのか、自分でもわからない。だけど、心の奥で彼を信じたいと思っている気持ちが膨らんでいるのは確かだ。
わずかに視線を下げると、殿下の手がわたしの指を強く握りしめる。その手のひらは少し汗ばんでいて、彼も緊張しているのだと気づく。
「……嫌なんかじゃ、ありません」
ようやく口に出すと、殿下はかすかに微笑む。こんな穏やかな表情をする彼を、わたしはあまり見たことがない。貴族たちの前でこんな顔を見せるのは初めてだろう。会場の人々が息を呑むのを感じる。
「なら、決まりだな」
殿下がそう言った瞬間、貴族たちはどよめきながらも黙って座り込んだままだ。宰相派の雄叫びはもう聞こえない。代わりに、ユリウスが満面の笑みでこちらに駆け寄ろうとして、騎士に止められているのが見える。
ふと、王妃が小さく嘆息する。どうやら反対しようにも、宰相派がこうも形無しになっては説得力も薄いのだろう。王妃は困惑しながらも、「……わかりました」と息を吐くように呟く。
「ならば、藤宮七海……いえ、七海殿下……あなたの改革案を正式に受け入れましょう。国を救う手立てがあるなら、どうかお示しくださるように」
王妃の言葉に、わたしは瞳を瞬かせる。王妃でさえ、もう“呪われた娘”と呼ぶわけにいかなくなったのだ。
(こうして、わたしは完全に呪いから解放される……!)
「はい。今後は、より具体的な税の見直し、貴族たちの支出削減、そして貿易ルートの拡充による国庫の安定化を目指したいと思います」
自分でも驚くほど自然に言葉が出る。数字と現実を見据えれば、やるべきことは明確だ。宰相派がこさえた“呪いの妄想”に邪魔されることなく、これからは本格的に改革を推し進められるはずだ。
ガブリエルとリリアナは、騎士に拘束されながらも何かを叫んでいるが、もう声にならない。周囲の貴族はそっぽを向くか、あるいは自分たちの立場を守るために黙り込む。いずれ、彼らへの処罰は後日改めて決定することになるだろう。
(こうして、すべてが終わった……いや、ここから始まるのか)
緊張の糸が切れそうになる。わたしはホッとしたように、大きく息を吐く。すると、殿下がわたしの肩をそっと支えてくれる。遠くのほうでユリウスが拍手をし、他の数名の改革派の貴族たちがそれに続く。場内が、少しずつ新しい空気に包まれていくのを感じる。
王妃は再び杖で床を打ち鳴らし、会議の終幕を宣言する。そして「国の再建に向け、ここにいる皆が力を合わせるべき」と述べ、そっとわたしのほうを見る。その表情には、まだわずかに戸惑いが残っているが、同時に期待もあるようだ。
すべてが終わったあと、殿下はわたしの腕を引き寄せ、騎士たちに警備を任せると大広間の裏手の小部屋へ連れていく。二人きりになれる場所を求めていたのかもしれない。ドアを閉めると、殿下はわたしに背を向けたまま、小さくつぶやく。
「……すまない。もっと早く、呪いの真相を暴いてやれればよかったのだが、宰相派の根回しが思った以上に強力で……」
わたしは首を振る。
「わたしは十分助けてもらったと思っています。あんなに大勢の前で“俺の妃”だなんて……」
声が震える。嬉しいのか戸惑っているのか、自分でもわからない。けれど、少なくとも彼は嘘をついていないと感じる。表向きの政治的パフォーマンスではなく、“本気”でそう言ってくれた――そう信じたい。
殿下はゆっくり振り返り、こちらへ歩み寄る。
「お前に逃げられるんじゃないかと、ずっと怖かった。……駒として利用したいはずが、いつの間にかお前がいない世界など考えられなくなっていた」
そんな言葉を聞いて、涙がこぼれそうになる。偽りだった婚約が、こうして本物へ変わるなんて、夢のようでまだ信じきれない。わたしは震える声で彼の名を呼ぶ。
「レオナール、殿下……」
彼は無言で、わたしを強く抱きしめる。その胸の中は温かくて、今までの苦しさや不安が溶けていくようだ。思わず目を閉じると、彼の唇がそっと髪に触れる。わたしの心臓は早鐘を打ち、どうしようもないくらい彼を求めている自分に気づく。
「……お前がここにいてくれれば、俺はこの国を本当に変えられる気がする。改革だろうが、呪いの噂だろうが、全部乗り越えられる」
「わたしも……殿下がいてくれるなら、どんなに大変でも戦えそうです」
そう呟いた途端、彼の腕がさらに強まる。冷徹な王子のイメージはもうどこかへ消え去ってしまったようだ。胸がいっぱいになり、涙がこぼれ落ちる。だけど、それは悲しみよりも安堵や歓喜に近い気持ちだ。
――あぁ、ようやくわたしは自由だ。呪いからも、偽りの契約からも解放され、そして彼との絆を育むための新しい道が開ける。
扉の外では、騎士たちがわたしたちを警護しているのがわかる。もう宰相派に怯える必要はない。ガブリエルの陰謀は暴かれ、リリアナの嫌がらせも意味をなさなくなった。後日、正式に裁きを受けさせることになるはずだ。
わたしはふと殿下から顔を離し、彼の目を見つめる。
「これから先、たくさん大変なことがあると思います。貴族の反発もまだ残ってるし、改革だって道半ばだし……」
殿下は静かにうなずく。
「ああ、課題は山積みだ。お前の改革案はまだ全部が導入されたわけではない。……だけど、俺はもう迷わない。お前と共に進めばいいだけだからな」
その言い方があまりにも自然で、思わず笑みがこぼれる。今までは冷たく突き放すような言動ばかりだったのに、ほんの少しでも愛情を感じられるだけで心が温かくなるなんて、わたし自身想像しなかった。
彼はわたしの指を握り、ゆっくりと顔を寄せてくる。何度も経験していないのに、なぜかもう互いの呼吸のタイミングを感じ取れる気がする。静かに瞼を閉じたわたしの唇に、彼の口づけが柔らかく降りる。
「――愛している。だから、もう逃がさない」
「わたしも、殿下と……一緒に生きていきたい」
震えた声でそう応えると、彼は満足げに微笑む。ふいに耳元で低く囁く。
「なら、お前には“殿下”などと言われたくないな。……レオナール、でいい」
「……っ」
胸が締め付けられる。王子としての尊厳ではなく、一人の男性としてわたしを受け入れてくれる――そんなメッセージが伝わってくる。
「わ、わかりました。じゃあ……レオナール……」
口に出すだけで照れくさくて、顔が熱くなる。すると彼は、わたしが噛んだ唇をやんわり拭うようにもう一度キスを落とす。気恥ずかしさで全身が熱くなるけれど、嬉しさのほうがはるかに大きい。
扉の外からは、ユリウスの弾んだ声が微かに聞こえる。「兄上、うまくいったのか?」と心配そうにしているのだろう。護衛の騎士が「殿下は今お話し中です」と慌てて止めている光景が目に浮かんで、自然とわたしの口元もゆるむ。
(この人となら、きっと国を変えられる)
呪いという悪夢を振り払った今、わたしは数字の力と彼の愛情を信じて、王宮の腐敗を正す。貴族たちの抵抗はまだ残るかもしれないし、新たな問題が山ほど出てくるかもしれない。それでも、もう一人ではない。レオナール……いえ、レオナールと共に歩む限り、きっと道は開ける。
わたしは彼の胸に顔を埋めながら、心の底で感謝を呟く。日本で学んだ経済学が、まさかこんな形で異世界の国を救う一歩になるなんて思わなかった。でも、何より大切なのは「人を救いたい」という気持ちと、彼の支え。両方がなければ今のわたしは存在しない。
自分の意思で掴んだ自由と、王子の想い。偽りだった婚約は、今や誰も否定できない真実の繋がりになった。
――大広間では、騎士や改革派の貴族たちが命令を受け、宰相派の摘発に動き出している。ガブリエルとリリアナは暴走を試みるが、手はまったく及ばない。もうこの国を好き勝手に動かせる時代は終わったのだ。庶民も次第に声を上げ、正しい改革を求めてやまないだろう。
(わたしも、もっともっと頑張らないと)
レオナールの腕の中でそんな決意をかみしめていると、彼がわたしの耳元に唇を寄せる。少し乱れた呼吸が肌をくすぐり、鼓動がさらに速くなる。
「……七海、これからは一緒に新しい国をつくろう。お前の提案をすべて形にしてやる」
優しいのに力強い言葉。わたしは目を潤ませながら小さくうなずく。
「ありがとう、レオナール。わたし……あなたとなら、どこまででも行けそうです」
体を離すと、彼が誇らしげに微笑む。その表情に、王子という権力者のオーラだけでなく、身近な存在としての温かみを感じてしまう。
わたしはもう、偽りの婚約者なんかじゃない。レオナールにとって大切なパートナーとして、王宮改革に挑める。経済を立て直し、庶民の暮らしを良くする。それこそが、この世界に来たわたしが掴んだ“役割”だと信じている。
甘くて、苦しくて、そして嬉しい結末。今は彼の腕の中で、その余韻を噛みしめる。大きな戦いはこれからもあるだろう。けれど、わたしはもう逃げない。数字は嘘をつかないし、レオナールの想いだってきっと嘘じゃない。
……そっと指先を絡め合い、わたしは小さく笑う。彼がわずかに首をかしげて見返してくるけれど、照れ隠しなのか、また少し強めに抱きしめられてしまう。心地よい痛みが背中に走るのを感じながら、わたしもそっと腕を回す。
(どこまででも、あなたと。王宮改革は、これから本当の勝負なのだから)
最後にもう一度、視線を交わす。そして深く口づけを交わし、わたしは王宮での新しい一歩を踏み出す決意を胸に刻む。
彼の胸の鼓動を聞きながら、もう一度だけ強く思う。
――破滅なんて、させない。むしろここからが本番。わたしは“破滅の呪い”などではなく、“再生”の旗印となって、この国を幸せへ導く。レオナールと共に、身分差も呪いも乗り越えて。
静かに扉を開けば、そこには光が溢れている。
わたしはその光のなかで、小さく深呼吸する。そして、彼の手をしっかりと握り返しながら――新しい時代へ踏み出していく。
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