5章
窓の外に朝日が差し込む。わたしは昨夜も結局、ろくに眠れなかった。頭にずっと渦巻いているのは、レオナール殿下との「偽りの婚約」という状況と、この国の経済をどう立て直すかという課題。両方とも重たい問題で、わたしの心を休ませてくれない。
(……いつまでもこんなふうに甘んじていたら、ダメだ)
そう思いながら、部屋を出て執務室へ向かう。騎士たちが護衛に就くのは慣れてしまったけど、やっぱり窮屈な気分になる。朝から張り詰めた空気を感じながらドアを開けると、レオナール殿下は既に机に向かって書類を読んでいた。
「おはようございます」
「来たか」
殿下は顔を上げず、淡々と返事をする。相変わらずそっけない態度に胸がちくりとするけど、今は仕事モードだとわかっているから何も言わない。書類を横目で見ると、わたしが夜中にまとめておいた税制改革案の一部が目に入る。
それを確認しようとしたとき、殿下がむくりと立ち上がり、わたしの手から書類をひったくるように取りあげる。
「これは……案の改訂版か。ずいぶん気合いが入っているな」
「はい。時間はかかったけど、なんとか推敲しました。もし本気で改革したいなら、今の貴族優遇の税制は見直すしかないと思います。そうしないと、庶民はいつまでたっても……」
そこで言葉を切ってしまう。興奮してしまうと余計なことまで喋りそうだから。殿下はそんなわたしをちらりと一瞥し、ひとまず書類を机に置いて向き直る。
「わかった。詳しい話は後で聞こう。……ただ、貴族たちの抵抗は覚悟しておけ」
それは当然だろう。わたしは覚悟を決めて頷く。宰相派のガブリエルはもちろん、リリアナもわたしの存在を快く思っていないし、何かと妨害してくるに違いない。
そうして午前中いっぱい執務室にこもり、殿下と協議を重ねていると、突然ドアが大きな音を立てて開く。びっくりして顔を上げると、そこにいたのは第二王子のユリウスだ。
「兄上、失礼します! あ、藤宮七海さんも……おはようございます」
ユリウスは明るい調子でそう挨拶すると、まっすぐこちらへ歩み寄ってくる。彼の表情はどこか興奮気味で、目がきらきら輝いている。
「兄上、聞きましたよ。七海さんが作った案で、外港の貿易ルートが改善されて税収が増えつつあるって!」
「ユリウス、そう大声を出すな。まだ正式に発表した数字ではない」
殿下が冷静にたしなめる。でも、ユリウスの熱はまったく冷めないようで、わたしに向けて満面の笑みを浮かべる。
「七海さん、すごいじゃないですか! わずかな期間で新しい商人ギルドと交渉をまとめるなんて、あんなに頑固な連中が協力を約束してくれたんですよ。……やっぱり、現代の知識って偉大なんですね!」
「そ、そうですか? わたしはただ、関税と商品の流通ルートを見直しただけで……」
照れながら答えると、殿下が机から顔を上げ、静かな声で言葉をつなぐ。
「事実、お前の案が少しずつ成果を出しているのは認める。だが、それだけに宰相派が黙っていないだろう。…………ユリウス、お前はなぜここに来た?」
「え? ああ、実は宰相派が動いていて、七海さんを王宮から追い出すための策略を練っているって噂を聞いたんです。だから、兄上に報告しようと思って……」
ユリウスの言葉に、わたしは頭を抱えたくなる。やっぱり宰相派は動き出したのか。いつかこうなるとは覚悟していたけど、具体的に何をしてくるかわからないのが一番怖い。
殿下は少し考え込むように目を閉じ、それから冷たい声で呟く。
「……七海、お前の安全を最優先する。だから今しばらくは部屋に籠もっていろ。俺が貴族連中を抑えている間に、改革案の細部を詰めろ」
頭ではわかっている。確かに、今わたしが外をうろつけば危険に巻き込まれる可能性がある。だけど、だからといってこのまま殿下の庇護下に甘えていていいのかと思うと、心が重くなるばかりだ。
(わたしは何のために、この国にいるんだろう? "呪われた娘"と呼ばれないために、戦っているんじゃないの?)
そんな葛藤を抱えたまま、結局わたしは執務室での作業に戻る。殿下が「もう休め」と言っても、落ち着かないから集中せずにはいられない。
夜になり、自室……いや、“監禁部屋”と言ってもいい狭い部屋に戻る。書類だらけで頭がパンパンだけれど、それでも気は紛れる。わたしはペンを置き、机の上に突っ伏すようにして深いため息をつく。
「……このままで、本当にわたしは自由を掴めるのかな」
いくら改革案で成果を出そうとも、“破滅の呪い”の汚名が消えなければ、王宮に居場所はない。いつかは殿下だって「もう利用価値がない」と手放すかもしれない。そのとき、わたしは本当に追放されるだろう。
(それなら、いっそわたしから出ていってやる。偽りの婚約なんか、もうごめんだ……)
そう心の中で吐き捨てる。でも実際、ここを出て行ったら、きっと宰相派に狙われる。その危険を承知で行動する覚悟はあるのか……答えが出せない。
今の状態が苦しすぎて、頭がぐちゃぐちゃになる。机に伏せて目を瞑ると、これまでの出来事が走馬灯のように浮かぶ。レオナール殿下がわたしを守るようにかばってくれたシーンが何度も思い返されるけど、同時に彼の冷たい態度や“俺のもの”呼ばわりも胸を刺す。
——そのとき、不意にドアがノックされる。
「……はい」
返事をすると、ドアが開いて、レオナール殿下が姿を見せる。夜も遅いというのに、まだ鎧の胸当てを外していない。どうやら仕事の合間に立ち寄った感じだ。
「随分遅くまで起きているな。身体は大丈夫か?」
低い声にわたしはどきりとする。わざわざ様子を見に来てくれたのか、それとも単なる監視か……どちらにせよ、この状況ではわたしの胸がざわつくのを抑えられない。
「……平気です。考えることが多くて、眠れないだけですから」
冷静を装って答えると、殿下は部屋を見回す。机の上には書類が山積みで、紙にびっしりとメモを書き込んでいるのがわかるはずだ。
「お前、顔が青白いぞ。少しは休め」
「殿下こそ……こんな夜中まで、何を……」
言いかけると、殿下はわずかに目を伏せ、短くため息をつく。
「宰相派の動きを押さえるため、裏工作をしている。俺だけでは人手が足りないが、なるべくお前に火の粉が降りかからないように配慮しているつもりだ」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。今の彼は、まるで“ただの利用”だけじゃない本音を見せているように思える。
「……お前を守るのが得策だからだ」
でも、続く彼の声は相変わらず冷静で、あくまで「得策」の一言でまとめようとしている。それが余計にもどかしい。もしかしたら本当に守りたいだけかもしれないのに、彼は頑なに心を開かない。
わたしは思わず立ち上がり、殿下に詰め寄る。
「わたしは道具じゃない。あなたのものでもない! そんな言い方、やめてください!」
声が少し震える。彼は予想していなかったのか、一瞬だけ驚いたような表情を見せる。でも、すぐにあの冷徹な目に戻る。
「道具扱いなどしていない。事実を言っているだけだ」
「あなたはいつもそう——全部合理的に考えて、人を遠ざけて……!」
叫ぶように言ってしまう。そして、殿下に背を向けようとした、そのとき。
バッと腕を掴まれ、強引に引き寄せられる。目の前に彼の胸が迫り、体が固まって動けない。驚きと混乱が押し寄せ、声が出ない。
「……離して……」
精一杯言葉を絞り出そうとするけど、彼はさらに腕に力をこめ、わたしを壁際へ押し戻す。もう逃げられないほどの至近距離。鼓動が痛いほど速くなる。
そして、殿下の目が鋭い光を帯びてわたしを射すくめる。
「お前は……自分の価値をもっと自覚しろ。俺にとっても、国にとっても、お前の知識は必要なんだ。……そうじゃなければ、こんな面倒な真似はしない」
息が詰まりそう。彼の吐息が頬に触れそうなくらい近い。逃げたいのに、どこにも行けない。頭が混乱して何も考えられない。
「でも……わたしは、偽りの婚約なんていらない……」
かすれた声でそう言うと、彼は少しだけ表情を曇らせる。次の瞬間、予想もしなかった行動に出る——わたしの顎に手をかけ、ぐいっと顔を上向かせたかと思うと、唇が一瞬触れる。ほんの一瞬。でも、はっきりとキスされた。
「——っ!」
頭が真っ白になる。こんな強引なことをされるなんて思わなかった。心臓が張り裂けそうなくらいドクドク鳴って、顔が熱い。
彼も気まずそうに一瞬だけ瞳を伏せ、それから再び低く囁く。
「……口先だけじゃ信じないなら、わからせるしかないだろう」
「な、何を……わたし……」
言葉にならない。腕の力が抜けて、彼の胸にもたれるようにしてしか立てない。わたしは呆然としたまま、さっきの唇の感触が夢じゃないかと疑い始める。
しばらく沈黙が続く。殿下も動揺を抱えているのか、わずかに息が乱れているのが伝わる。
「お前を……ここから逃がすわけにはいかない。偽りだろうが、俺の婚約者である以上、好き勝手にされるのは困る」
「だ、だからって、こんな……」
どうやって言葉を返していいのかわからない。キスひとつで頭が真っ白になるなんて、わたしは何を期待しているんだろう。殿下はきっと、わたしを引き止めるための手段としてこうしているだけ……。
だけど、彼の表情は冷淡に装っている割には、どこか切なさがにじむようにも見える。
「……本当なら、こんな真似はしない。けど、お前が暴走して王宮を出て行くような真似をするなら……俺は強引にでも止める」
それは警告のようでもあり、どこか苦しげにも聞こえる。わたしは混乱したまま、何とか自分の心を落ち着けようとする。けれど、さっきの口づけが頭から離れない。
(偽りの婚約なのに……彼はなぜ、こんな強引なやり方をするの?)
わからない。だけど、今は彼の腕の中から抜け出すことも、問いただすこともできない。せめて、心臓の音が落ち着くのを待ちたいのに、まるで彼の存在がそれを許さないみたい。
静かな夜の空気を裂くように、殿下は小さく息を吐いてわたしの肩から手を離す。
「……わかったなら、大人しくしていろ。まだ宰相派の妨害を封じるには時間がかかる。お前が危険にさらされるくらいなら、俺が全部受け止める方がマシだ」
その言葉に、また胸が痛む。きっと彼はそんなふうに言うだろう——「王宮を守る責任があるから」「偽りの婚約者を殺されたら立場が悪くなるから」。理屈を並べられれば、それまでだ。
でも、いまのわたしはその理屈だけでは割り切れない。唇に残る温もりが、彼の言葉をもっと違う意味で受け取らせようとしてくる。
「……あなたって、本当にズルい人です」
それだけが精一杯の反抗。殿下は何も言わずに扉の方へ向かい、立ち止まる。
「……お前こそ、もっと自分の命を大事にしろ。逃げたところで、宰相派に追いつめられるのは目に見えている」
そう言い捨て、夜の闇へと消えていく彼の背中。扉が閉まってから、わたしは崩れるようにその場に座り込む。
(どうして……胸が痛いどころか、熱くなるんだろう)
偽りの関係なのに、なんでこんなにも心が揺れるの? 彼にとってわたしは必要なコマにすぎないとわかっているのに、それでも彼がほんの少しでも「守りたい」と思ってくれているかもしれないと期待してしまう。
顔が熱くて、涙が出そうになる。だけど泣いている暇なんてない。宰相派が何を仕掛けてくるかもわからないし、改革案だってまだまだ不十分だ。
(それにしても、今のキスって……)
指先でそっと唇に触れる。ほんの数秒だったのに、頭から離れない。いったいわたしはどうすればいいんだろう。彼との関係も、この国での立場も、すべてが宙ぶらりん。
それでも一つだけわかっているのは、もう後戻りはできないということ。こうして初めて交わした口づけが、わたしたちの偽りの距離をほんの少しだけ変えてしまったから。
(……わたし、どうしたらいいの……?)
夜の静寂が、その問いに答えをくれないまま、わたしは熱くなった唇の感触を思い返しながら瞼を閉じる。いつか、本当の答えが見つかる日が来るのだろうか。
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