4章
わたしは朝早くから王宮の廊下を歩き回り、執務室に向かう書類を抱えている。昨夜、レオナール殿下が「お前が本当に役に立つなら、書類仕事を手伝え」と命じてきたためだ。
けれど、わたしは激しく動揺を抱えたまま。なぜなら、あの舞踏会で“偽りの婚約”を宣言され、王宮じゅうの視線が一気にわたしに集まってしまったからだ。
(……どうしてこんなことになっちゃったんだろう)
いまだに頭が混乱する。わたしを守るためとはいえ、あまりに突然すぎる婚約宣言。しかも、それを聞いた貴族たちの反応といったら、憎悪や嫉妬、あるいは呆れや不審の目ばかり。
宰相派の牽制はますます強まり、既に「一刻も早く破談にするべきだ」という声が出始めている。
(でも、破談になったら、きっと即追放か処刑……)
それを避けるためにも、わたしは当面この“偽りの婚約”に乗るしかない。レオナール殿下を利用させてもらう、と言っては語弊があるけど、自分が生き残るためには仕方ないのだ。
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執務室の扉をノックすると、すぐに殿下の声が聞こえる。
「入れ」
意を決して中に入ると、広い室内にはレオナール殿下しかいない。いつもは騎士や文官らが控えていることが多いのに、今日に限って静まり返っているから、妙に緊張する。
わたしは書類を机の上に並べながら、そっと殿下の様子を窺う。
「……おはようございます。これが、昨日まとめた財政案の草稿です」
そう言って資料を差し出そうとすると、殿下は淡々と手を伸ばし、そのままペラペラと内容を確認し始める。読み進める彼の横顔は相変わらず無表情だけど、何か考え込むときはほんの少し眉を寄せる癖があるのを、最近になって気づいた。
沈黙に耐えかねて、わたしは小さく息を吐く。ここ数日、殿下とはほとんど会話らしい会話をしていない。例の“婚約宣言”以降、彼はわたしをぐいっと庇い続けてはくれるが、同時に何かを警戒しているようにも見える。
すると、殿下は書類を机に置いて、わたしの方に視線を向ける。
「悪くない提案だ。だが、お前が挙げている“贅沢品への課税強化”は、貴族連中が必ず反発する。わかっているな?」
「……はい。でも、国を救うには貴族たちにも負担をしてもらわないと、庶民だけでは支えきれません」
わたしがはっきり言い返すと、殿下はわずかに苦笑する。
「強気だな。……ただ、その態度が宰相派を刺激するのも事実だ」
「承知してます。でも、今はどこかを我慢させないと先には進めません。……わたしは覚悟してます」
胸の奥が多少ざわつくけれど、言うべきことは言わないと何も変わらない。そうやって殿下に自分の意思を伝えると、彼は机の上で指を組み、わたしの顔をじっと見つめる。
「あれからお前の評判は最悪だ。『呪いを持つ女が王子に取り入った』『王族を誘惑して国を乗っ取ろうとしている』とまで言われている」
思わず唇を噛む。確かに、わたしの耳にもそういう噂は届いている。王妃や一部の貴族たちは明らかにわたしを毛嫌いしていて、婚約を解消させる口実を探しているようだ。
「……仕方ないですよ。逆に、“呪われた娘”のまま黙って処分されるよりは、まだマシかなって」
どうしても自嘲気味になってしまう。すると、殿下はわずかに眉をひそめて立ち上がる。
「そんな顔をするな。……お前がやるべきことはまだある。生半可な覚悟なら、俺が許さない」
大股で近づいてくる彼の存在感に、わたしは一瞬気圧される。目の前に広がる軍服の黒い生地、そして強い視線。舞踏会のときも思ったけれど、近くで見ると本当に圧倒されそうになる。
なのに次の瞬間、彼は突然わたしの腕を取ってぐいっと引き寄せる。背中が壁に当たるより先に、彼の体温がすぐ目の前に迫る。
「きゃ……」
驚きの声を上げかけるけれど、殿下は壁際にわたしを追い詰めるような形で立ちはだかり、低い声で言う。
「『偽りの婚約』とはいえ、この王宮においてお前は“俺の花嫁候補”だ。無様な振る舞いは許さない」
「そ、それは……わかってます……!」
息が苦しい。彼はまるで“持ち物が逃げないように”押さえ込むみたいな態度だけど、一瞬でもわたしを心配してくれたのかな、なんて考えてしまう自分が悔しい。
壁際に追い詰められたまま、なんとか言い返そうとする。
「だけど……ここ数日、護衛も増えて……わたし、何もできないんです。部屋とこの執務室を行き来して書類を書くくらいしか……」
「当然だ。宰相派はお前を消しにかかるかもしれない。お前の動きを制限しているのは、お前を守るためだ」
守るため……? そう言われると、少しだけ胸が温かくなる気がする。でも、それはつまり“監禁”も同然で、わたしは自由を奪われている状態。
「なら、もう少し優しくしてくれてもいいのに……」
つい呟いてしまう。すると殿下は一瞬だけ目を丸くしたように見える。だけどすぐに、あの冷たい表情に戻ってしまう。
「甘えてどうする。ここは戦場だ。……お前の知識は確かに役に立つかもしれないが、下手をすれば足元をすくわれる。覚悟しておけ」
そう言い残すと、彼はわたしの腕を放して机へと戻る。まるで何事もなかったかのように書類を手に取る姿に、わたしは心臓の高鳴りを持て余してしまう。
(……本当に冷たい。けど、どうしてあの一瞬、わたしを心配しているように見えたんだろう)
わからない。殿下の本音は相変わらず読めないままだ。
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そんな落ち着かない日が続き、ある日の夕方。わたしが執務室で作業を終え、自室へ戻ろうとすると、騎士たちに呼び止められる。
「申し訳ありませんが、殿下のご命令で、今夜からはこちらの部屋でお休みいただくことになります」
突き出されたのは、殿下の執務室がある区画の真隣にある部屋。以前は客人用の部屋として使われていたらしいが、今は完全に“専用の控え室”みたいに改装されている。
「え、でもわたしの部屋は別の棟に……」
「殿下から『不要な移動をなくし、常時目の届く場所に置け』とのお達しです。……我々のような下っ端が逆らうわけにはいきませんので」
どうやらわたしは本当に監禁状態になってしまうらしい。自室といっても、王宮の他の区域にある部屋よりは狭いが、家具は立派で必要な物は揃っている。
ただ、扉の外には常に騎士が控えていて、自由に外出することが許されない。せいぜい、執務室や食堂に行くときだけ護衛付きで移動する程度。
(……これって、まさしく“甘い監禁”というか、保護の名目で閉じ込められてるよね)
寂しさと息苦しさを感じながら、わたしはベッドに腰をおろす。せっかく異世界に来たなら、もっと国の中や町の様子を見て、改革に取り組むための手がかりを探したいのに……。
「……守ってくれてるのはありがたいけど、これじゃあ息が詰まるよ」
思わず口にしたところで、コンコン、とノックの音がする。騎士の声が外から聞こえる。
「七海様、殿下がお越しです」
え、殿下が? 驚いて返事をすると、扉が開き、レオナール殿下が一人で入ってくる。
「どうしたんですか、こんな時間に……」
わたしが立ち上がろうとすると、殿下は手で制すようにジェスチャーして、部屋の中をひととおり見回す。狭いながらも、調度品は上質なものが揃っている。その光景を確かめるようにして、静かに口を開く。
「部屋の様子はどうだ? 不便はないか」
「……不便はないですけど、監禁状態ですよね。やっぱり殿下は、わたしが逃げるのを防ぎたいんですか?」
少し意地悪な口調になってしまう。わたし自身、こんな閉じられた環境に置かれて苛立ちと不安が入り混じっているからだ。けれど殿下は、わたしの問いに対してあまり表情を変えない。
「逃げられたら厄介だ。お前だけじゃなく、俺にとっても。……それに、ここにいれば宰相派も手を出しづらい」
「あなたって、ほんと強引ですね」
「文句があるなら成果を出せ。そうすれば俺が庇う理由も明確になる」
言い合いみたいになりそうで、わたしは口をつぐむ。殿下はまるで仕事の指示のように、表情ひとつ変えずに言葉を投げてくる。だけど、目の奥にほんの少しだけ優しさが混じっているように思うのは、わたしの勘違いかもしれない。
気まずい沈黙が流れる。扉の向こうに控えている騎士や侍女たちの存在を感じながら、わたしは思い切って踏み込んだ質問をしてみる。
「殿下は……その、偽りの婚約なんてして、後悔していませんか? 王妃やほかの貴族たちも、あなたの立場を心配しているようですし……」
本当は“わたしなんかと婚約して、後悔していない?”と聞きたかった。だけど、うまく言葉が出ない。彼は眉をひそめながら、少し間を置いて答える。
「後悔? そんなものを考える余地はない。……お前を『婚約者』に据えておけば、宰相派は手を出しにくい。俺にとっては合理的な選択だ」
はっきり“合理的”という言葉を使われると、胸がきしむ。やはり彼は、打算でわたしを守っているだけ……そう思うと、なんだか虚しくなる。
「……まあ、あのままだったらわたしは追放されてましたし、助かったのは事実です」
わたしがうつむきがちにそう言うと、殿下はほんの僅かに視線をそらす。それから、自分の上着のボタンを整えるような動作をしながら、ぽつりとこぼす。
「守らないわけにはいかないだろう。……お前の知識がまだ必要だからな」
またしても“利用価値”という響きが頭に残る。だけど、それでも生き延びる道を作ってくれたのは彼だし、わたしはこのチャンスを活かして改革を進めるしかない。
うまく言葉にできないもどかしさを抱えながら、わたしはしばらく黙りこむ。すると殿下は小さくため息をついたあと、ドアに向かって歩きだす。
「今夜はゆっくり休め。書類仕事は明日でもいい」
「……わかりました。おやすみなさい、殿下」
かすれた声でそう告げると、殿下は振り向かずに部屋を出ていく。バタン、と扉が閉じられたあと、外から騎士たちの動く気配が伝わってくる。
(監禁されているのに、自分でも不思議なくらい彼を気にしている……どうして?)
ドレスよりも地味な部屋着に着替え、わたしはベッドに沈み込む。頭の中で“偽りの婚約”という言葉が何度もリフレインする。
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夜半、うつらうつらとしていたところに、微かな物音がして目が覚める。ドアの外がざわついている気がする。わたしはベッドから飛び起き、耳を澄ます。
「……殿下、今はお休みになられていて……」
「かまわん。少し顔を見たいだけだ」
外で交わされる会話に心臓が跳ねる。ドアが開いて、キャンドルの淡い明かりが部屋に差し込む。レオナール殿下が、わたしの侍女を静かに下がらせる姿が見える。
「ど、どうしたんですか……こんな遅くに」
わたしは慌てて起き上がり、殿下に向き合う。寝起きの格好だから見苦しいかもしれないけど、そんなことを言っていられない。殿下はわずかに目を伏せて、低く呟くように言う。
「……様子を見に来ただけだ。特に用はない」
「そ、そうですか」
何とも言えない沈黙が落ちる。お互い、言葉を探しているような空気。こんな時間まで働いていたのだろうか、殿下の瞳には少しだけ疲労の色が見える。
数秒ほどお互いに視線をそらせずにいると、彼はわずかに口を開いて何か言いかける。けれど、すぐにそれを飲み込むように首を振り、
「……お前が無事ならいい」
それだけ言って踵を返す。わたしは思わず胸が詰まる。あんなに冷たく見えるのに、ほんの少しでも心配してくれる気持ちがあるのだろうか。
「殿下……」
思わず呼び止めようとするが、彼は返事をしない。再び扉が閉まり、夜の静寂が戻ってくる。
(……わたしの“婚約者”なんて言いながら、ほんとは何を考えてるの?)
宰相派の陰謀はますます暗躍しているに違いない。だけど同時に、レオナール殿下の存在が、わたしに安堵と混乱をもたらしているのも事実。
“偽り”のはずなのに、どうしてこんなにも心をかき乱されるのか——
そんな思いを抱きながら、わたしは窓の外に浮かぶ月を見つめる。どこか孤独そうに静かに光っている姿が、今日の自分と重なる気がする。
(明日こそ、改革の下準備を進めよう。そうすれば、少しは自分の価値を証明できるかも)
そう自分に言い聞かせて、夜の帳に身を預ける。甘くも苦い“監禁”の日々は、まだ始まったばかりだ。わたしは早く、この偽りの婚約を卒業できるだけの功績を上げなきゃならない。
王宮経済を立て直すため、そしてわたし自身の未来を切り開くために。
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