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サルト  作者: 岩槻大介
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ぐっとくるニュース

「きゃあ! 先生の背中に変な虫がついてる!」

 校舎の裏庭にある小さな菜園で、ヘチマの観察日記を書いている時だった。一人の女子がそう叫んだため、何人かがワッと陣内先生の背中を囲んだ。

「変な虫って、何だよ」

 陣内先生はそう言って汗をぬぐった。

「分かんなぁい」

「見たことなぁい」

「変な虫」

「きゃあ、動いたぁ!」

 みんな勝手なことを言って騒ぎ立てるモンだから、先生もさすがに不安になって、それを見ようと肩越しに首を伸ばした。

「誰か、虫に詳しい人いなかったっけ」

「あ、それならヒロタくんが詳しいです」

 ぼくが言うと、何人かの女子がうなずいた。ヒロタは小さい時から虫が好きで、うちにはいつも分厚い昆虫図鑑が並んでいた。と言っても、もとは売り物だったわけだが。

「そうか。じゃ、ヒロタを呼んできてくれ」

 先生の言葉にうなずいて、ぼくは菜園をぐるっと見渡した。

「ヒロタ!」

 端っこの方でけんめいに色鉛筆を走らせていたヒロタには、ぼくの声が耳に入っていない。ぼくはすぐさま走りよって、再び声を掛けた。「おい、ヒ…」

 ――ロタ、という続きが言えなかった。

 となりでぼくをにらみつけるケンさんの顔が見えたからだ。

「…じゃなくて、エ、エロ…」

 やっぱり呼べない。

「ん? サルト、どうした?」

 ヒロタが顔を上げた。

 そのとなりでケンさんが、くちびるの端っこだけで一瞬笑った。

 ぼくはいつものニヤニヤが、全身からじっとりとにじみ出てくるのを感じた。すっぱい汗と一緒に。


 しばらく雨の日が続いた。

 ぼくはヒロタのことをいつしかおい、とか、ねぇ、とかで呼ぶようになっていた。

 全く失礼なことだ。なんだかやりきれない。

 だったらなんとかすればいいのに、ぼくは、ダメだ。

 ぼくは、ダメなやつだ。

 さらにダメなことに、ぼくは自然とヒロタをさけるようになった。

 ヒロタは何も悪いことはしていない。

 このままぼくとヒロタが疎遠になったら、きっと世界一くだらない理由で疎遠になった二人、としてギネスブックに載るだろう。

 なんか、本当にくだらない。

 たまにはぐっとくるようないいことが起こってよ。

 やっと雨が止んだ日の放課後、ぼくは空に向かってぽつりとつぶやいた。そしたら、ぐっとはこないまでも、ちょっとだけいいニュースが舞い込んだ。

「ただいま」

 玄関に上がると、いきなり父ちゃんのカン高い声が耳に入った。

「はい、はい、それはもう、ごもっともで」

 ロックンローラー・佐藤の作業場のドアが開いている。

 誰かと電話でしゃべっているらしい。

 それにしても父ちゃんのこんな口調、初めて聞いた。

「そうっすよねぇ、いやぁわたくしも実に同感です、はい、はい、承知しました、お任せください、すぐ手直しいたします、はい」

 見ると作業場で父ちゃんは、受話器を握ったまま見えない相手に何度も頭を下げていた。

 ネクタイをした人が駅前とかでこんなふうに話しているのをぼくはよく見かける。父ちゃんみたいなアホでも、大人になったら姿だけではなく、声に対しても礼儀正しくするんだ…。

『礼儀正しく』

 なるほど。だから先生たちは、わざわざ筆で書いて、額縁に入れて教室に飾るわけだ。

「はい、はい、では失礼いたします」

 父ちゃんは結局三十回くらい頭を下げて、受話器を置いた。そして深くため息をついた。

「ただいま」

「お、おう、コクト。おかえりっくくらぷとん」

 あれ、動揺している。

 父ちゃんは動揺した時、決まって意味不明のギャグを言う。

「電話、誰からだったの」

「あぁ、校長先生だよ。なずな台学園の。ほら、この間父ちゃんが校歌を…」

「分かってるよ。で、何だって?」

「うん。採用だって」

「本当に?」

「本当さ」

「凄いじゃん」

「ま、俺の才能からすると、当然と言えば当然だけどな」

 ぼくはマジで凄いと思っていた。

 父ちゃんって、本当に音楽家だったんだ。

 つーか、いいの? あれが学校の校歌になっちゃうの?

 やっぱ高校って、小学校と違うんだなぁ。

 ぼくの通っている小学校の校歌なんか、意味が分からないどころか、これって日本語?って言葉の連発だ。あ、でも…。

 「そう言えばさっき、手直しがどうとか言ってたけど」

「あ、あぁ。ちょこっとだけアレンジを変えて欲しいって注文があってな。だから、そんなの朝飯前だぜ、って言ってやったよ」

 言ってなかったと思うけど。

 なにはともあれ、良かった。ぼくもあの歌、いいと思う。

 ぼくは父ちゃんのことを初めて、ちょっぴり尊敬した。

 ヘチマの種くらい。


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