ケンさんに感謝された
二学期が始まった。
母さんが死んでから、ぼくはやたらとニヤニヤするようになった。
自分でも分かる。あ、ぼく今ニヤニヤしてる、って。
もちろん自分の顔は見えないが、想像するとわれながら気色悪い。
よくある話だが、ぼくら六年一組の教室は一番ケンカの強いケンさんを中心に回っていた。そしてケンさんの興味をひく情報を入手したやつが、その日ごとのナンバー2になることができた。
「ねぇ、どうして工事が中断したか知ってる?」
下校途中に、ヒロタは目を輝かせてぼくとケンさんにそう言った。
町外れにある巨大マンションの建設工事現場。
確かにあそこは最近、工事をしている気配がない。
「エロタ、知ってんのか。教えろよ。何があったんだ」
ケンさんが詰め寄る。ヒロタは小さく手招きして、ぼくとケンさんの耳を近づかせる。
「出ちゃったらしいんだ」
「何が」
「古代遺跡さ」
「古代遺跡?」
「ってことは、教科書に載ってるような古墳とかが発掘されたのか」
「土器とかかも知れない」
「すげーじゃん!」
こうしてヒロタは本日のナンバー2に躍り出た。
ヒロタの家は小さな書店を経営している。
店の入り口付近には普通に雑誌や漫画が並んでいるが、一歩中に入ると、半分以上がビニールに包まれたエッチな本で棚が埋まっている。そんな書店だ。
お前んちの本屋はエロ本専門じゃねぇか、ヒロタ書店じゃなくてエロタ書店だ。ケンさんが言い出した。それ以来ヒロタはエロタと呼ばれている。
ヒロタはぼくのことをサルトと呼ぶ。でも、ぼくはどうしてもヒロタのことをエロタと呼べない。うまく言えないけど、サルトとエロタじゃ、決定的な違いがあるような気がするのだ。
いずれにしろ常にアンテナを立てているヒロタは、その分入手する情報量も多く、ナンバー2になる回数もクラスの中ではダントツだった。それに比べてぼくは、いつもニヤニヤしているだけでケンさんの気をひくことも、もちろんナンバー2になることもなかった。
「それってきっと、どっかに持ってったら高く売れるよな」
「そりゃ土器っつったら、貴重なものだからね」
ヒロタが得意気に解説する。
ケンさんの瞳が弁当箱の中の銀紙みたいに輝く。
「よし、俺たちも発掘しに行くぞ」
最後の行くぞ、という言葉はなぜか、ニヤニヤしているぼくに向けられて発せられた。
構内立ち入り禁止。
まずそんな文字が目に入った。
ぼくらはその巨大な看板が掛けられたフェンス越しに中の様子をうかがった。
建設機械が数台見えるが、確かに稼動している雰囲気はない。それどころか、敷地内に人らしきものが全く見えない。
「誰もいねぇんじゃねぇの」
「ホントだ」背の低いヒロタが背伸びをする。
「よし。飛び越えるぞ」
ケンさんの一言に、ぼくとヒロタは唾を飲み込む。
フェンスの高さは2メートル弱。
ぼくらはランドセルを放り投げた。
最初にぼくが飛び越えて、次に二人が乗り越えた。
二人ともぼくの二倍以上の時間を費やした。
そしてぼくらはそーっと歩き、工事現場の中心へと向かった。太陽はもう沈みかけている。静かだ。風もない。風景はまるで絵のように止まって見える。
ぼくらは足音を立てずに歩きながら、やがて巨大な穴が掘られた中心部へと足を踏み入れた。とその時、敷地のはずれにあるプレハブ建物のドアが開いて、中から人が出てきた。
「やべっ、見つかった!」
ケンさんが慌てて逃げ出す。ぼくとヒロタも後を追う。
「こらーっ、お前ら何してるーっ!」
作業服姿のおじさんが猛烈な剣幕でこっちに走ってくる。
ぼくらは全力で走る。入ってきた方向に向かって走る。
作業服のおじさんが追ってくる。
あら、見ると二人に増えている。
やばいよ、やばいよ。ぼくらは夢中で走る。
どうにか先ほど乗り越えたフェンスにたどり着く。
例によってぼくが真っ先に飛び越えて、後の二人をサポートする。
「ヒロタ、早くここにつかまって」
「サンキュ」
「ケンさん、ランドセルそこに置いといたから」
「お、おう」
何とか二人ともフェンスを乗り越えた。
「よし、余裕で振り切ったぜ」とヒロタがガッツポーズ。
「逃げよう。顔を覚えられるとまずい」
「あーっ」
その時突然ケンさんが悲痛な声を張り上げた。
「家の鍵、あそこ、あそこ!」
見るとフェンスから1メートル位入ったところにキーホルダーが落ちている。
「俺んちの鍵、どうしよう!」
「待てこらぁーっ」
猛然とダッシュしてくる作業服の二人。フェンスまであと20メートルってトコか。
ぼくはすかさずジャンプした。片手だけでフェンスを飛び越え、キーホルダーをつかむと、カウボーイハットの時と同じようにノンステップでフェンスに舞い戻り、あとは右手の力だけでからだを回転させながら飛び越えた。
反対側に着地すると同時に鍵をケンさんに渡す。ケンさんの手の中でキーホルダーについた鈴がチャリンと鳴った。
「逃げろーっ」ケンさんが叫ぶ。
ヒロタがランドセルを構えていてくれたので、ぼくはそのまま走り出すことができた。 そしてフェンスから死角となる路地に駆け込むと、ぼくらはそこで息を整えた。
それからの帰り道、ぼくらは遺跡の話はしなかった。
だまって歩き続け、いつものようにT字路でヒロタと別れた。
東の空が夜になる準備をしている。
「サルト、さっきはありがとな」
二人きりになった時、ケンさんが歩きながら突然ボソッと言った。
ぼくはいつものようにニヤニヤしながら首を振った。
感謝された。
ぼくはケンさんに、感謝された。
ナンバー2になるより、ひょっとしたらすごいことだ。
「サルトの身軽さには、マジで感心したよ」
ぼくはこのまま学校に戻り、教室の後ろの黒板の端っこあたりに書きたい気分だった。ぼくは、ケンさんに感謝された、と。
でも、夜になる準備をしていたのは、空だけではなかった。
ケンさんはそのあとにこう付け加えたのだ。
「ただ、感心できねぇことが、ひとつある」
「え、それは、どんなこと?」
ケンさんはズボンのポケットに手を突っ込んで、ぼくの前に立ちはだかった。
ポケットからチャリ、という鈴の音が一瞬聞こえた。
「エロタのことをエロタって呼ばない」
「ええー?」
「どうしてだ?」
「どうしてって…その…」
「特に理由はねぇんだな」
「う…ん、ないって言うか、えへへ…」
「じゃあ呼べ」
「へ?」
「明日から、必ず呼べ。分かったな」
かー、どうしよう。
ぼくは猛烈とニヤニヤしている自分の顔を想像しながら、一つのことを解明した。
エロタの件ではない。ニヤニヤだ。
どういう時にぼくはニヤニヤするのか、やっと分かった。
そして空よりも先にぼくの心が、夜になった。




