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サルト  作者: 岩槻大介
3/19

キャロルとスネークス

 やめてほしい。ぼくは真剣にそう思っている。でも父ちゃんは断固としてやめない。

 タバコ? 違う。

 お酒? ううん、そうじゃない。

 父ちゃんが絶対にやめようとしないこと。それは、モミアゲだ。

 何がうれしくて、いつもあんな変な形に整えているのか。ぼくには全く、理解できない。

「ただいま…」

 ノブの部分を両手で持ち上げて、ぼくは玄関ドアを閉めた。そうしないと、ドアの底が床と摺れていやな音を発するのだ。

 隅の方がはがれて丸まっている壁紙に、色あせた日本地図が貼ってある。社会の勉強に役立つだろう、そう言って何年も前に父ちゃんが貼った。だけど、何も玄関の一番目立つ所に貼らなくても…。

 ぼくはその地図の千葉県あたりを見て、今日もため息をついた。

 誤解しないで。別に千葉県が悪いわけじゃないんだ。ただ、その形がそっくりなんだよ。父ちゃんのいびつで巨大なモミアゲに。

 もう、見ているだけでこっちが恥ずかしくなる。何しろほっぺたの下半分に、房総半島が広がっているのだ。しかも地図で言う先っぽあたり、この、館山って所から3センチいくと、もう鼻の穴だ。

 誰が見ても変だと分かることに、父ちゃんはどうして気付かないんだろう。アホだ。正真正銘の、アホだ。

 ぼくが再び深いため息をついた時、ガラガラ、と居間の扉が開いた。房総アホ親父は、帰宅したぼくの顔を見るなりこう言った。

「お、空腹コクちゃん、ずいぶんとご立腹のようで」

「満腹父ちゃんはずいぶんと機嫌がいいようで」

「そりゃそうさ、楽天が勝ってるんだもん」

 居間のテレビには、ナイター中継が映っている。

「それ、巨人戦だろ」

「俺はこんな試合を見るためにテレビをつけているのではない。各地の途中経過を見るためにつけているのだ」

 アホの相手をしても疲れるだけだ。台所に行って手を洗った。ふと見ると、ガス台の脇にやかんとお茶漬けの袋とインスタント味噌汁が置いてある。息子よ、これでも食いさらせ、ということか。

 でもぼくは、これがアホ父ちゃんの最高の優しさであることを知っている。

 ぼくの母さんは、昨年の春に癌で死んだ。さらりと言う。

 いいんだ。もう散々泣いたから。ぼくも父ちゃんも。

 母さんは料理が上手だった。こんな時、母さんならおいしいものをちょこちょこっと作ってくれただろう。

 いきなりステレオから大音量で音楽が流れる。

 父ちゃんの一番機嫌がいい時に流れるテーマソング『キャロル・ベスト』だ。

 キャロルとは日本が誇る伝説のバンドらしい。その伝説を語り始めると、父ちゃんは長い。でも、あー、聞き飽きた。伝説だかなんだか知らないが、ぼくにとっては騒音だ。センチになっている暇もありゃしない。しかもテレビではタカハシヨシノブが豪快な空振りをしている。

「ねぇ、どっちかにしなよ」

「何が」

「キャロルか、巨人か」

「楽天だ」

「電気代のことも考えろって言ってるの」

 ぼくはやかんに水を入れて火にかけた。そして泥だらけのズボンを脱いで洗面所の洗濯籠に放り込んだ。

「それが親に対するものの言い方か」

「親なら親らしく働いたらどうなのさ。母さんの生命保険だっていつかはなくなっちゃうわけだし」

 ぼくは言いたいことがちゃんと言える。父ちゃんが相手だと。

「そんなことお前に言われなくても分かってるよ」

 父ちゃんはそう言って子供みたいにくちびるをとがらせた。そしてテレビとステレオの電源を同時に落とし、洗面所のドアを開けた。

 今週は父ちゃんが洗濯当番なのだ。

「あーあ、お前が生まれる前は父ちゃんも忙しかったのになぁ」

 またいつもの愚痴が始まった。

 どうにかしてよ、キャロルのみなさん。

 ぼくは父ちゃんが一度だけテレビに出たのを覚えている。

 もう何年も前の話だ。「あの人は今」というような番組。

 父ちゃんは画面の中で歌を唄っていた。

 ぼくが生まれるはるか昔、『スネークス』というバンドがデビューした。ロックンロールとかいう、なんだかうるさいだけってカンジの音楽を演奏していたようだ。

 最初はキャロル2世などとささやかれるも、実際には全くヒットせず、レコードを一枚出しただけで解散したらしい。

 そのバンドでボーカル・ギターを担当していたのが佐藤大介。

 つまりぼくの父ちゃんだ。

 バンド解散後、ベースの人だけが違うプロダクションに拾われて、歌謡曲専門のアレンジャーとなった。それ以外のメンバーは、父ちゃんを含めて全員、音楽業界からポイと捨てられたらしい。

 父ちゃんはそれから実に九回、仕事が変わった。

 アホなくせにすぐ上司に逆らって、大口たたいて、クビ。母さんが言うにはそのワンパターンだったらしい。

 母さんはぼくのことをとても厳しく育てた。

 それに対して父ちゃんは全く厳しいことを言わなかった。

 つーか育ててもいなかった。

 だから母さんはよく、一度に二人を厳しくしかりつけた。

「早く学校に行きなさい!」

「早く仕事に行きなさい!」

 そんな情けない父ちゃんが、一度だけぼくを真剣にひっぱたいたことがある。でもその怒った理由が、ぼくにはいまだに分からない。

 ぼくはただ、勤めていた会社をクビになったばかりの父ちゃんにこう言っただけだった。

「父ちゃんも歌謡曲やらしてって頼んでみたら?」

 そう。それは子供なりに考えた一つの提案だった。でも父ちゃんは顔を真っ赤にしてこう言いながらぼくの頭をパーで叩いた。

「俺を何だと思っている。ロックンローラーだぞ」

 痛さと、あまりの不合理さを訴えるために、ぼくは近くにいた母さんの腰に抱きついた。

 でも、母さんはぼくの両手を振りほどき、しゃがんでぼくの目をまっすぐ見ながらこう言った。

「父ちゃんの言う通りよ、刻人」

 結局母さんは何の通りなのかを教えてもくれずに逝ってしまった。それ以来父ちゃんは、働きに出ていない。

 なんだよ、母さん。ロックンロールって、そんなに偉いのかよ。

 母さんが死んでから、母さんの両親、つまり林田家のおじいちゃんとおばあちゃんは、ちょくちょくうちに来るようになった。

 昼間はぼくをデパートや遊園地に連れて行き、夜は父ちゃんと遅くまで何かを話し合っていた。その時の「早く寝ろ!」とぼくに言う父ちゃんの顔は、なぜだか分からないけど、いつもむちゃくちゃカッコよかった。

 ぴーっ。お湯が沸いた音でぼくはわれに返った。

 台所でパンツ一丁のままお茶漬けを食べていると、父ちゃんが四つ折にたたんだ紙片を持って洗面所から出てきた。

「コクト、お前確か来年中学だよな」

「自分の子供の歳くらい覚えといてよ」

「いや、お前のズボンのポケットから高校のチラシが出てきたから」

 ――チラシ? あ、あの不良じじぃがはがした…。

「あれぇ、何だろうなあ、これ」

「とぼけるなよ」

「あ、あのね父ちゃん、それはがしたの、ぼくじゃなくて…」

「俺のためにお前…。いいトコあるじゃねぇか」

「え、ええ?」

「これだろ。でも特別謝礼って、いくら位なんだろうな。公立だと期待できそうにないが、これ、私立だよな。しかも何つったって特別だ。そりゃ期待しちゃうわなぁ」

 夏目という不良じじぃが駅の掲示板から適当にはがしたチラシ。

 それは来年度に開校する『なずな台学園高校』の生徒募集のチラシだった。で、父ちゃんがこれ、と言って指した箇所には、こんな一文が書いてあった。

 ――なお本校では校歌を一般公募いたします。採用された作品の作者には記念の盾と特別謝礼を贈呈します。

「なんだかんだでお前は、俺の才能を信じてたんだな。よし、父ちゃん頑張ってみるよ」

 うわぁ、なんて展開だ。

 ぼくは廃盤になったスネークスの唯一のCDを保育園のころから何度も聞いている。と言うか父ちゃんに無理やり聞かされている。

 それは、学校の校歌とはまさに正反対のジャンルに分類されるべき音楽だった。

 無理だよ。父ちゃんに、校歌なんて。

 全くあのじじぃ、よりによってこんなチラシをはがさなくても…。

 そんな心配をよそに、父ちゃんは早速部屋にこもりギターを弾き始めた。考えてみたらすごく久しぶりだった。父ちゃんのギター。

 でも、やっぱ無理だよ。

 また挫折して終わりだよ。

 つーか、洗濯思いっきり途中じゃん…。


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