世界中の自動ドア
橋が見えてきた。
ぼくはリズムに合わせて呼吸をしながら、腕を大きく振った。
はっはっはっはっ、パッキャマラドパッキャマラドはっはっはっ。
この際、足の痛みは忘れることにした。ぼくは自分のスピードを目と目の間で感じることだけに神経を集中させた。
風が開く。
ぼくの目の前で、風が自動ドアのように、ウイーンと開く。
これだ。この感覚だ。
風はきっと、世界中の自動ドアによって作られているんだ。
橋の手前で土手のランニングコースは枝分かれする。左側に折れると、ゆるやかな傾斜が下の河川敷まで続いている。車が走れる広い道路と合流する所に一人の先生が立っている。折り返し地点だ。
下まで降りたら、今度はその広い道路を逆方向に走る。土手の上に、今まで走ってきたランニングコースが見える。びりっけつ集団が、自転車に乗った陣内先生に後ろからハッパをかけられている。
あら、その中にはヒロタの姿も。あいつ、頭はいいけど運動はだめだもんなぁ。
ぼくは快調に飛ばした。
クラーリネットの歌を一回唄うたびに5人は抜かした。
疲れは全く感じない。呼吸の乱れもない。はっはっはっは、空気は朝の冷たさを適度に残している。ぼくの大好きなクラーリネット、パパからもらったクラーリネット。よし、リズムを刻め。大丈夫、ぼくはなんつったってリズムを刻む人だ。
そして残り一キロの地点で、ぼくの視界はとうとうとらえた。
おぼれかけた水牛みたいにあごが上がった状態で、みんなに抜かされていくケンさんの姿を。スタートダッシュのツケが完全にまわっている。あの走り方じゃ、歩き出すのも時間の問題だ。
かわいそうに、ケンさん。やっぱりもたなかったね。
ぼくのことも殴れずに、つーか恐れられもせずに、ぼくに抜かされていくケンさん。なんとなくバツが悪いから、そーっとすばやく抜かすとするか。
ぼくは道路の端っこを、なるべく音を立てずに加速して、一気にケンさんを抜き去ろうとした。
視界の一番端っこに、水牛ケンさんのかたまりを感じる。
よし、このまま……いてっ。なんだ? やべっ。
転びそうになった瞬間、よりによってケンさんと目が合ってしまった。
なんだ、なんだ、いてーじゃねーか。なぜ急に痛む? 足の小指。くわっ、ケンさんすごい形相でぼくをにらんでからに。
ぼくはあわてて視線をそらした。早く、早く、あれ、足が、足が、今まで快調に飛ばしてきた足が、足の小指が、痛いよう、ああー、まじすっげーいてぇ。
なんで? ひょっとしてケンさんの怨念? 見えないパンチ?
ケンさんは水牛でスピードダウン。
ぼくは激痛でスピードダウン。
思いがけず再びケンさんと併走するぼく。状況としては、二人でスタートダッシュした時と同じ。ただ違う点が二つある。今は逆にみんながぼくらを抜いていく。そしてあの時は一度もぼくを見なかったケンさんが、うわぁ、またにらんでる。本当につらそうな水牛状態のまま、にらみをきかすので、それはそれは恐ろしい悪魔の形相。逃れられなくさせているぼくの足の小指の痛みは、きっとその魔力の仕業だ。
くそう。
せっかく抜いたやつらに一人、また一人と抜かされていく。
くそう、足が、弾まない。唄っても、歌にならない。
ケンさんは、相変わらずしゃべらない。しゃべれる状況じゃない。
ぼくたちは無言のまま、それぞれの苦しみと並んで格闘した。
それでもケンさんは、ぼくよりも前に出ようと必死で腕を振るう。ぼくだって、ケンさんだけには負けるわけにいかない。なんつったって、スタート直前にあんな大見得きっちゃったんだ。ここで負けたら一生言われる。お前は普段ニヤニヤして口ごもっているくせに、たまにでかいことを言ったと思ったら口だけだった、と。
わぁ、やだやだ、そんなこと絶対に言われたくない。
ぼくは痛みをこらえながら、夢中で足を高く上げた。はっはっはっは、よーし、スピードを、スピードを、上げるぜぃ。
オー、パッキャマラドパッキャマラド、ずわっ、付いてくるよ、ケンさん、ぼくがスピード上げても、付いてきて、わぁ抜かした、くそっ、抜き返してやる、あ、また抜かされた、ちくしょう。
てな具合で半分ヤケになったぼくらはヤケクソのペースがどんどん上がり、またもやみんなを抜き始めた。全くなんてレースだ。
二人とも、なんだかもう意識から煙が上がっちゃって、まわりがよく見えない。とにかく、負けてたまるか。その気持ちだけが、ぼくらを走らせた。
そして、見えてきた見えてきた。
意識の煙にかすんだずっと向こうに、ちんけな手製のゲートが見えてきた。
ゴールだ。
あと数百メートルだ。
ケンさんの巨体から繰り出される足音は、ぼくのすぐ脇で風景全体を揺らしている。うっすらと女子どもの声援も聞こえる。
くおー、ぼくは文字通り最後の力を振りしぼった。
汗が流れて首筋を冷やした。
ケンさんは、あらすごい、顔面がしぼる前の雑巾だよ。半そでの体操服が肌とぴったりくっ付いちゃって、そしてぼくから離れない。
くそ、ダッシュだ、ダッシュするぞ。
近づいてきた、ゴール、の文字、はっきりと見える。
ぼくは歯を食いしばり、必死で腕を振った。
ケンさんも、ぼく以上に必死だった。
とにかく負けてはならぬ、負けてはならぬのじゃあ!
と、その時、なんだ! そんな、死を覚悟したデットヒートを演じるぼくらの間を、さらに死を覚悟したすんごい表情で走り抜けていく一人の少年。わぁ、わぁ、うそぉ。
ヒロタだぁ。
それを見てケンさんが思わず口を開いた。
「うっ、くそっ、ヒロタめ!」
…。
え?
「ケンさん、はぁ、はぁ、今、なんつった?」
「はぁ、はぁ、ヒロ、タ、はぁ、俺も、そう、呼ぶことに、はぁ、した、ワリぃか」
「いや、悪く、ないけど」
「それと、はぁ、俺を、呼ぶ時」
ケンさんはぼくと、ヒロタの背中に向かってこう言った。
「今度から、さん、を付けるな、はぁ、はぁ」
ヒロタのペースがダウンする。
「言ってみろ、サルト」
「えぇ?」
「言って、はぁ、はぁ、みろ!」
「…はぁ、ケン…」ぼくは言った。
「そうだ」
ケンさんは、なんだかうれしそうな表情をしていた。
ぼくもなんだかうれしくなった。足の痛みがすぅっと引いていくのが分かった。
「ぼくは、はぁ、サルトの、ままなんだね」
「ワリいか」
「ぜんぜん」
「待て」
「え?」
「はぁ、はぁ、こら待てぇ、ヒロタぁ!」
「あっ、ちょっとズルいよケンさん。じゃなくて、ケン!」
沿道でクラスの女子たちが、ぼくを不思議そうに見ている。
ケンさんがヒロタの背中を追いかける。
その背中をぼくが追いかける。
ゴールまで数十メートル。
ケンさん、いや、ケンがヒロタをとらえる。
その二人を、ぼくがとらえる。
三人が横に並ぶ。譲らない。三人とも頭の中に同じ言葉。
一歩、一歩でいいから、リードするんだ…。
はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ。
ゴオォォォール!
ぼくとヒロタは、こうして反対側からケンとの約束を果たした。
川の方から照れくさい風が、ぼくらを吹き逃げしていった。