ぼくにはそれしかないんだ
逃れようがない。
何からか、って、それはもちろん…。
「それじゃ5年・6年の男子、スタート位置について!」
マラソン大会で毎年使われているこの河川敷のランニングコースに、陣内先生の声が拡声器を通して響き渡る。
跳躍したり、足首を回したりしながら、橋の下のラインまでぞろぞろと移動するみんな。中にはあらあら、必勝、なんて書かれた鉢巻をしているやつも。
よし。ぼくは唾を飲み込んで、固くこぶしを握った。それを見て陣内先生が感心した表情で大きくうなずいた。
なんか勘違いしてるな、この人。
スタートのにおいがみんなの緊張をあおる。ぼくの中でも緊張感が徐々に高まる。激しいくらい、別の意味で。その時、ケンさんがぼくの横にするりとやってきた。
今だ。今しかない。
ケンさんがこっちを見る。分かってんだろうな、という目でぼくをにらむ。隣には小さくなって下を向いているヒロタがいる。
今だ。大丈夫。アホの父ちゃんにだって、やれたんだ。
「ねぇ、ケンさん」ぼくは言った。緊張感、ピーク。
ケンさんがあごだけで返事をする。
「わ、悪いけど…」
ニヤニヤするな。カッコよく叫んでそれを伝えるんだ。
「あん?」
うわ、ケンさんの顔、のどを詰まらせた般若みたい。
負けるな。ケツメド…ケツメド…、ケツメドボンバー!
「悪いけどぼく、真剣に走るよ」
「なんだと」
「約束、破ってごめん。でも、ぼくには…」
ぼくには父ちゃんと、そして、母さんの血が流れているんだ!
「ぼくには、やっぱ、体育しかないから。それと…」
陣内先生がピストルに火薬をつめる。
「ヒロタのことは、これからもずっと、ヒロタって呼ばせて」
ケンさんの口が般若のまま何かを言いよどむ。
手に持ったピストルを秋の空に高々と上げる陣内先生。
「だって、コクトでもサルトでも、ぼくはちっとも悲しくないけど、ヒロタ書店は、ヒロタ書店じゃなきゃ悲しむ人がいるから」
言えた!
「位置について」と拡声器から陣内先生の声。
「サルト…」
ケンさんのくちびるが、変な形をしたまま動きを止める。
「よーい」
あれ、どしたのヒロタ。全身の血を抜かれたような顔で、ぼくをぽかーんと見つめてからに。
パァァァァン!
一斉のスタート。後ろの方にいたぼくは一気にダッシュをかけた。
「あっ、てめぇちっと待てよ、おいっ、サルト!」
ケンさんの声がぼくの背中に突き刺さる。
「サルトぉ」
思い出したかのように叫ぶヒロタの声も聞こえた。
いいんだよ、ぼくのことはサルトって呼んで。
そしてぼくは、歌と一緒に秋の空へ吸い込まれていった。
オー、パッキャマラドパッキャマラド…。
歌は、人間を走らせる。
歌は、心を、過ぎ去ったたくさんの時間をつなげて走らせる。
父ちゃんとじじぃの時間も、そうして歌でつながった。
「キャロルよりももっと前、グループサウンズというのが流行った頃があったんだ」
昨日、帰ってから父ちゃんは作業場でそんなことを話し始めた。
要するにバンドブームが大昔にもあったってことだ。その中でも特に人気のあったレザーシャークスってバンドでドラムをたたいていたのが、なんとあの不良じじぃ、夏目雪彦だった。
それで、そのバンドを売り出して一躍のし上がったのが、後に父ちゃんをクビにした、例の音楽事務所だった。つまり、じじぃと父ちゃんは、事務所の先輩後輩の関係だったのだ。
と言っても、父ちゃんが所属していた頃はもう、グループサウンズなんてブームはとっくにしおれており、レザーシャークスのメンバーたちもそれぞれ別の道を歩んでいたそうだ。だから二人が同じ場に居合わせたことは、ほとんどなかったらしい。
「俺、夏目さんとは話したこともなかったけど、レザーシャークスはよく聴いたよ。『走り出したら止まらない』って曲なんか、日本で最初に作られたロックンロールって言われてたんだぜ」
そう言って父ちゃんは懐かしそうにギターを爪弾いた。
走り出したら止まらない。
なんてダサいタイトルだ、とぼくはある意味感心した。
ちなみにじじぃは現在でもその事務所の「特別顧問」という肩書きを持っているらしい。
走り出したら止まらない。よし、ダサいけど、ぼくも。
スタートして百メートル。ぼくは一人、また一人、と抜いていった。ぼくのほっぺたが風を作り出しているような気がした。
でも、爽快だったのもつかの間。ぼくは背後から猛然と追ってきている足音を耳にした。
ケンさんだった。
走り出したら止まらなかったはずのぼくの足が、まるでどこかに吸い込まれるように失速する。ケンさんはぼくの隣にぴったり付いて、はぁはぁと息をしている。ぼくをぶちのめす言葉を探しているのか、ぼくをぶん殴ろうとしているのか、それともただ単にこのペースに付いていくのがしんどいだけなのか、ケンさんはぼくをちらりとも見ずに走っている。
ケンさんには無理だ。ぼくは思った。
このペースじゃ、ケンさんはもたない。
よし。ぼくは、歌のテンポを上げた。ペースがさらに上がる。
ケンさん、悪いけど、お先に。
……んん、ケンさんが、脱落しない。ぼくの横から、離れない。
うそだぁ、ケンさん、どしたの、いつもならもうとっくに脱落しているのに。前を向いたまま、必死の形相で。そんなにぼくを殴りたいの。
ケンさんは一度もぼくを見ずに、ぼくと足をそろえて走っている。
さっきから二人で何人抜いただろう。
しつこいな、とぼくは思った。殴りたいのなら早く殴ってくれ。
やがて先頭集団が見えてきた。信じられない。ケンさんとぼくが、このままだとトップグループに入ってしまう。
柳の木が見えてきた。あそこまでがだいたい一キロだ。
あと二キロ。こうなったら、ちょっと予定外だったけど、一気にぼくも先頭集団の仲間入りをするか。
あれ、と思った。あれ、ぼくは今日、一度もケンさんを怖いと思っていない。今日に限って史上最高の怖さをぼくに見せ付けているのに、ぼくは隣を走るケンさんが、なぜかちっとも怖くない。
ぼくはからだを少しだけ前に倒し、スピードを上げる準備をした。
ほっぺたが、また新しい風を作った。
その時だ。
柳の木の枝が、風に揺れて、あっ、端っこの、葉っぱのかげから、突き刺さっていた何かがコロッと、あっ、危ない!
「ケンさん、よけて!」
ぼくはケンさんの肩を両手で押した。その拍子にバランスを崩した。柳の枝の隙間から転がり落ちてきた空き缶は、ケンさんの後頭部をかすめて、そのままぼくの額を直撃した。気色悪い鈍痛が走った。額にではない。足の小指にだ。そして気が付いたらぼくは、土手から公道側の斜面を転げ落ちていた。
「サルト!」
ケンさんの声。思い出したように痛み始める小指。痛めていたことを思い出させやがった空き缶。草むらの中で、ぼくの目の前に転がっている。くそう。
「サルト、大丈夫か」
あれ、ケンさん。立っている。あ、その横をみんなが抜いていってる。だめ。だめだよ。
「ケンさん、ぼくのことはいいから、早く行って」
「でも」
「早く!」
ケンさんは、何度も振り返りながら、のろのろと走り出した。
くそう。誰だよ。こんな所に空き缶なんか仕込みやがって。
くそう。はっきり付いているぜ。あの時ぼくの靴が蹴った跡。
くそう、くそう、じごうじとくそう。あー、つまんねー、父ちゃんよりもつまんねーギャグ言っちゃったぁ。ぼくはもうだめだ。生きていけない。数メートル上の高さに、ぼくのことを抜いていくたくさんの足が見える。もうだめだ。足の小指いてーし。終わりだ。はしれねーし。
ぼくは草むらに仰向けになった。秋の青空が恨めしく思えた。
柳の木を切り倒したいと思った。もう目に見えるもの全てを切り倒したいと思った。土手も、電線も、その下の道路も、道路を歩く変なオヤジも。
「コクト、がんばれ!」
え? 見るとその変なオヤジ、肩からギターなんか下げてやがる。
わぁ、父ちゃんだ!
「がんばれ!」
ちっ。相変わらずその言葉しかねーのかよ。
「…と応援してやりたいのは山々なんだが、あいにく俺はこれからレコーディングでな。行かなきゃならん。じゃ」
おいっ!
父ちゃんは息子の大ピンチに目もくれず、くるっと振り返って、手の代わりにギターの先っぽを振った。
なんて父親だ。おまけにこんな言葉を残して。
「すまんな。俺にはこれしかないモンで」
くわーっ、ここで言うセリフかぁ!
くっそう、切り倒してやる、なぎ倒してやる、与作は木を切る、くっそう。ぼくは立ち上がった。
びりっけつ集団が近づいてくる。コースに戻り、走り出す。
くそう、ぼくだって、ぼくだって…。
「ぼくだって、これしかないんじゃあ!」
声に出して言った。言いたかったのだ。言える。今だったら、駅前で、拡声器を使ってでも言える。なんで「じゃあ」なのかは分からないが、とにかくそうして、漫画のセリフみたいにして言える。
よっしゃあ、走るぞぉ。
待てぇ、ケンさん!