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サルト  作者: 岩槻大介
17/19

ぼくにはそれしかないんだ

 逃れようがない。

 何からか、って、それはもちろん…。

「それじゃ5年・6年の男子、スタート位置について!」

 マラソン大会で毎年使われているこの河川敷のランニングコースに、陣内先生の声が拡声器を通して響き渡る。

 跳躍したり、足首を回したりしながら、橋の下のラインまでぞろぞろと移動するみんな。中にはあらあら、必勝、なんて書かれた鉢巻をしているやつも。

 よし。ぼくは唾を飲み込んで、固くこぶしを握った。それを見て陣内先生が感心した表情で大きくうなずいた。

 なんか勘違いしてるな、この人。

 スタートのにおいがみんなの緊張をあおる。ぼくの中でも緊張感が徐々に高まる。激しいくらい、別の意味で。その時、ケンさんがぼくの横にするりとやってきた。

 今だ。今しかない。

 ケンさんがこっちを見る。分かってんだろうな、という目でぼくをにらむ。隣には小さくなって下を向いているヒロタがいる。

 今だ。大丈夫。アホの父ちゃんにだって、やれたんだ。

「ねぇ、ケンさん」ぼくは言った。緊張感、ピーク。

 ケンさんがあごだけで返事をする。

「わ、悪いけど…」

 ニヤニヤするな。カッコよく叫んでそれを伝えるんだ。

「あん?」

 うわ、ケンさんの顔、のどを詰まらせた般若みたい。

 負けるな。ケツメド…ケツメド…、ケツメドボンバー!

「悪いけどぼく、真剣に走るよ」

「なんだと」

「約束、破ってごめん。でも、ぼくには…」

 ぼくには父ちゃんと、そして、母さんの血が流れているんだ!

「ぼくには、やっぱ、体育しかないから。それと…」

 陣内先生がピストルに火薬をつめる。

「ヒロタのことは、これからもずっと、ヒロタって呼ばせて」

 ケンさんの口が般若のまま何かを言いよどむ。

 手に持ったピストルを秋の空に高々と上げる陣内先生。

「だって、コクトでもサルトでも、ぼくはちっとも悲しくないけど、ヒロタ書店は、ヒロタ書店じゃなきゃ悲しむ人がいるから」

 言えた!

「位置について」と拡声器から陣内先生の声。

「サルト…」

 ケンさんのくちびるが、変な形をしたまま動きを止める。

「よーい」

 あれ、どしたのヒロタ。全身の血を抜かれたような顔で、ぼくをぽかーんと見つめてからに。

 パァァァァン!

 一斉のスタート。後ろの方にいたぼくは一気にダッシュをかけた。

「あっ、てめぇちっと待てよ、おいっ、サルト!」

 ケンさんの声がぼくの背中に突き刺さる。

「サルトぉ」

 思い出したかのように叫ぶヒロタの声も聞こえた。

 いいんだよ、ぼくのことはサルトって呼んで。

 そしてぼくは、歌と一緒に秋の空へ吸い込まれていった。

 オー、パッキャマラドパッキャマラド…。

 歌は、人間を走らせる。

 歌は、心を、過ぎ去ったたくさんの時間をつなげて走らせる。

 父ちゃんとじじぃの時間も、そうして歌でつながった。

「キャロルよりももっと前、グループサウンズというのが流行った頃があったんだ」

 昨日、帰ってから父ちゃんは作業場でそんなことを話し始めた。

 要するにバンドブームが大昔にもあったってことだ。その中でも特に人気のあったレザーシャークスってバンドでドラムをたたいていたのが、なんとあの不良じじぃ、夏目雪彦だった。

 それで、そのバンドを売り出して一躍のし上がったのが、後に父ちゃんをクビにした、例の音楽事務所だった。つまり、じじぃと父ちゃんは、事務所の先輩後輩の関係だったのだ。

 と言っても、父ちゃんが所属していた頃はもう、グループサウンズなんてブームはとっくにしおれており、レザーシャークスのメンバーたちもそれぞれ別の道を歩んでいたそうだ。だから二人が同じ場に居合わせたことは、ほとんどなかったらしい。

「俺、夏目さんとは話したこともなかったけど、レザーシャークスはよく聴いたよ。『走り出したら止まらない』って曲なんか、日本で最初に作られたロックンロールって言われてたんだぜ」

 そう言って父ちゃんは懐かしそうにギターを爪弾いた。

 走り出したら止まらない。

 なんてダサいタイトルだ、とぼくはある意味感心した。

 ちなみにじじぃは現在でもその事務所の「特別顧問」という肩書きを持っているらしい。

 走り出したら止まらない。よし、ダサいけど、ぼくも。

 スタートして百メートル。ぼくは一人、また一人、と抜いていった。ぼくのほっぺたが風を作り出しているような気がした。

 でも、爽快だったのもつかの間。ぼくは背後から猛然と追ってきている足音を耳にした。

 ケンさんだった。

 走り出したら止まらなかったはずのぼくの足が、まるでどこかに吸い込まれるように失速する。ケンさんはぼくの隣にぴったり付いて、はぁはぁと息をしている。ぼくをぶちのめす言葉を探しているのか、ぼくをぶん殴ろうとしているのか、それともただ単にこのペースに付いていくのがしんどいだけなのか、ケンさんはぼくをちらりとも見ずに走っている。

 ケンさんには無理だ。ぼくは思った。

 このペースじゃ、ケンさんはもたない。

 よし。ぼくは、歌のテンポを上げた。ペースがさらに上がる。

 ケンさん、悪いけど、お先に。

 ……んん、ケンさんが、脱落しない。ぼくの横から、離れない。

 うそだぁ、ケンさん、どしたの、いつもならもうとっくに脱落しているのに。前を向いたまま、必死の形相で。そんなにぼくを殴りたいの。

 ケンさんは一度もぼくを見ずに、ぼくと足をそろえて走っている。

 さっきから二人で何人抜いただろう。

 しつこいな、とぼくは思った。殴りたいのなら早く殴ってくれ。

 やがて先頭集団が見えてきた。信じられない。ケンさんとぼくが、このままだとトップグループに入ってしまう。

 柳の木が見えてきた。あそこまでがだいたい一キロだ。

 あと二キロ。こうなったら、ちょっと予定外だったけど、一気にぼくも先頭集団の仲間入りをするか。

 あれ、と思った。あれ、ぼくは今日、一度もケンさんを怖いと思っていない。今日に限って史上最高の怖さをぼくに見せ付けているのに、ぼくは隣を走るケンさんが、なぜかちっとも怖くない。

 ぼくはからだを少しだけ前に倒し、スピードを上げる準備をした。

 ほっぺたが、また新しい風を作った。

 その時だ。

 柳の木の枝が、風に揺れて、あっ、端っこの、葉っぱのかげから、突き刺さっていた何かがコロッと、あっ、危ない!

「ケンさん、よけて!」

 ぼくはケンさんの肩を両手で押した。その拍子にバランスを崩した。柳の枝の隙間から転がり落ちてきた空き缶は、ケンさんの後頭部をかすめて、そのままぼくの額を直撃した。気色悪い鈍痛が走った。額にではない。足の小指にだ。そして気が付いたらぼくは、土手から公道側の斜面を転げ落ちていた。

「サルト!」

 ケンさんの声。思い出したように痛み始める小指。痛めていたことを思い出させやがった空き缶。草むらの中で、ぼくの目の前に転がっている。くそう。

「サルト、大丈夫か」

 あれ、ケンさん。立っている。あ、その横をみんなが抜いていってる。だめ。だめだよ。

「ケンさん、ぼくのことはいいから、早く行って」

「でも」

「早く!」

 ケンさんは、何度も振り返りながら、のろのろと走り出した。

 くそう。誰だよ。こんな所に空き缶なんか仕込みやがって。

 くそう。はっきり付いているぜ。あの時ぼくの靴が蹴った跡。

 くそう、くそう、じごうじとくそう。あー、つまんねー、父ちゃんよりもつまんねーギャグ言っちゃったぁ。ぼくはもうだめだ。生きていけない。数メートル上の高さに、ぼくのことを抜いていくたくさんの足が見える。もうだめだ。足の小指いてーし。終わりだ。はしれねーし。

 ぼくは草むらに仰向けになった。秋の青空が恨めしく思えた。

 柳の木を切り倒したいと思った。もう目に見えるもの全てを切り倒したいと思った。土手も、電線も、その下の道路も、道路を歩く変なオヤジも。

「コクト、がんばれ!」

 え? 見るとその変なオヤジ、肩からギターなんか下げてやがる。

 わぁ、父ちゃんだ!

「がんばれ!」

 ちっ。相変わらずその言葉しかねーのかよ。

「…と応援してやりたいのは山々なんだが、あいにく俺はこれからレコーディングでな。行かなきゃならん。じゃ」

 おいっ!

 父ちゃんは息子の大ピンチに目もくれず、くるっと振り返って、手の代わりにギターの先っぽを振った。

 なんて父親だ。おまけにこんな言葉を残して。

「すまんな。俺にはこれしかないモンで」

 くわーっ、ここで言うセリフかぁ!

 くっそう、切り倒してやる、なぎ倒してやる、与作は木を切る、くっそう。ぼくは立ち上がった。

 びりっけつ集団が近づいてくる。コースに戻り、走り出す。

 くそう、ぼくだって、ぼくだって…。

「ぼくだって、これしかないんじゃあ!」

 声に出して言った。言いたかったのだ。言える。今だったら、駅前で、拡声器を使ってでも言える。なんで「じゃあ」なのかは分からないが、とにかくそうして、漫画のセリフみたいにして言える。

 よっしゃあ、走るぞぉ。

 待てぇ、ケンさん!


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