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サルト  作者: 岩槻大介
15/19

69030ロックの王様

 塗られたばかりのペンキのにおいが鼻をつく。

 理事長室、のプレートがかかったこの部屋は、黄緑色に統一された廊下の壁とは違って、濃い木目調のシックな内装材が使われている。この部屋だけに付いている大きな出窓からは、グラウンドがどーんと見渡せる。一方の壁は、全体が造りつけの棚になっており、端っこには大げさなダイヤルの鍵が付いたでかいロッカーがある。そして天井からぶら下がっているのは、なんとシャンデリアだ。

 その部屋の中央に置かれた、タクシーの四百倍くらいふかふかしたソファーに座って、ぼくは麦茶を飲んでいた。さっき教頭先生が持ってきてくれたのだ。よく冷えている。ぼくは麦茶を飲みながら、この状況について考えてみた。でもそれは、予想もできなかったことなので、よく分からなかった。ソファーも分かる。シャンデリアも分かる。でもそこに座っているのがぼくだってことが、いまいち分からない。つーかぜんぜん分からない。

 ガラガラガラ。扉が開く音。でもこの部屋じゃない。

 棚になっていない方の壁は、一部分だけがガラス張りになっており、そこから隣の部屋がのぞける。隣はどうやら職員室のようだ。

 じじぃがその職員室に入ってきた。

「空調工事は来週中にメドが立つらしいです」

 後ろからヘコヘコしながら、銀縁めがねの校長が入ってきた。手には黒い手帳を持っている。

「あとはエントランスの壁に御影石を張る作業が明日から…」

 そんな話はまるで聞かずに、じじぃはガラス張りの端にあるドアを開けてこの部屋をのぞきこんだ。

「おう、飲んでるか」

「う、うん」

 校長の後ろからさらにヘコヘコした動きで、小太りの教頭が口をはさむ。

「理事長。お孫さんを連れて来るなら前もって言ってくださいよ。ベルギーワッフルがたくさんあったんだけど、工事業者の方にさっき全部配っちゃって」

 まご?

「だからこいつは孫なんかじゃないって言ってるだろう」

 じじぃがバカにしたような手振りでぼくの方を指差す。

 そうだよ、こんなやつがぼくのじいちゃんなわけないだろ!

「はいはい、用務員の見習いくんですよね」

 あー、校長、信じてないな!

 じじぃ、なんとか言えよ。つーか、理事長って、校長よりも偉いの? まぁこの部屋見たら、なんとなく分かるけど。

「そうだ!」

 校長がいきなり職員室をドタドタと走り出す。

「理事長、すいません、ちょっとこちらへ。あれ、教頭先生、コンポのリモコンは」

「あ、そうか、まず理事長に聞いてもらわないと。えっと、リモコンは確か…あっ、すいません校長、私のポッケに入ってました」

「なんでそんなトコに!」

「なんだなんだ、どうしたと言うんだ」

 じじぃは二人のやりとりに半分あきれた表情でそう言うと、ぼくに「ま、ゆっくりしていけ」と言って後ろ手にドアを閉めた。

 職員室と理事長室は、再び一枚のガラスに隔たれた。

 ボリウムが小さくなりはしたが、校長と教頭のカン高い声は相変わらずこっちの部屋にまでもれていた。

「できたんですよ。我が校の校歌が」

 だからぼくにもその言葉は聞こえていた。

「そうです。一般募集したら、一件だけ応募があったって言ったでしょう」

 一件だけ? だはは、そういうことだったのねん。

 職員室の隅にあるミニコンポの電源を入れながら教頭が言う。

「まぁ最初はどうにも使えそうにない歌だったんで断ったんですが、作った本人がどうしてもやらせてくれって泣きついてきたモンで」

「そうそう。それがまたミョーな男でしてね。モミアゲだけは立派なんですが、音楽的な知識がほとんどゼロに近くて」

「だからちょっと大変な作業でした」

「ほう。そりゃごくろうさん」

 ため息に声を乗せたような口調でそうつぶやきながら、じじぃは近くにあるイスに腰掛けた。

 ホントだよ。ごくろうさんだよ。

 ふんっ。悪かったな、ゼロで。くそう。

 見るとじじぃも、さすがに反論もできやしないって顔をしている。

「ま、でもそれから私と教頭とで、何度も手直しを要請して、やっと理事長の耳に聞かせられるところまでもっていきましたわ」

 えっへん、とでも言いたげな顔の校長。そして、まるで自分たちの手柄を見せつけるかのように、教頭が一枚のCDを出してコンポにセットした。今朝、ぼくのうちにあったものと同じく、何のラベルも貼られていないやつ。

「さぁ、いきますよ。あ、ちなみにこれはまだ仮のCDなんで、とりあえず作った本人が唄っております」

「相当オンチですが、気にしないでください」

 校長は笑いをこらえるような仕草を見せてから、リモコンのボタンに指を乗せた。その時。

 ガラガラガラガラガラ…

「待ってくれ!」

 …ラガラガラびしゃーん!

 その声は、扉が開く音をまっぷたつに引き裂いて、職員室になだれ込んだ。

 その声は、それ以外の音を全て遮断させた。

 その声は、ピカピカの校舎全体をゆるがせた。

 その声は、しなるように生々しく、ぼくの耳をつんざいた。

 このガラスの内側からは、職員室の入り口が見えない。

 見えないけど、その声には、恥ずかしいくらい聞き覚えがある。

 父ちゃんは一枚の紙切れをひるがえしながら、バタバタと職員室になだれこんだ。

 まさか婚姻届じゃ…。

「さ、佐藤さん、どうしました」

 プール開きの日に降ってきた雨を見るような顔で、教頭が父ちゃんを見る。

「あの俺、これ、やっぱり受け取れないっす」

 あ、あの紙、父ちゃんのギャラの振込用紙。

「受け取れない? どういうことかね」

 校長があごを突き出してメガネの位置を直す。

「まさか謝礼金が少ないなんて言い出すんじゃないでしょうね」

 校長の背中越しからななめになったデブ教頭が顔と口を出す。

「違います。金額はその、想像してたより多いんで、正直びびってるくらいなんですが」

「じゃあ、何が不満だと言うんだ」

「全部です。この歌、全部が不満です」

「何をいまさら言ってる。君だって録音の時は満足そうに唄ってたじゃないか」

「言えなかったんです」

 理事長室のガラスに張り付いて、ぼくはその父ちゃんの言葉を耳に貼り付けることしかできなかった。脳までとどかない。だって、だって、父ちゃんが何かを言えなかったなんて、信じられない。

「何度も言おうとしたんだけど、言えなかったんです」

 これには校長も、なんかポケットの中にフライドポテトを一本だけ見つけた時みたいな表情になって、だまってしまった。

 そんな雰囲気をあわててぬぐうように、教頭が口を開いた。

「言えなかった、とわざわざ言いに来られても、ねぇ」

「それだけじゃないっす。もう一つ大事なこと。俺、この仕事から降ります」

「ええっ?」

「ちょっと待ちたまえ。何も降りることはないだろう」

「そうですよ。あんなにがんばっていたじゃないですか」

「そうだけど…」

 ここからは父ちゃんの背中しか見えない。

 その背中が、背中全体が、今ゆっくり息をはいたのが分かった。

「でもこの歌はやっぱり、世に出せません」

「だからどうして!」

「俺じゃないから!」

 父ちゃんはそう言って、振込用紙を机の上に置いた。

「俺が作りたかった校歌は、こんなんじゃないから」

 その言葉は、父ちゃんの背中から震えながら垂れて、職員室の床にべちょっと落ちた。

 校長と教頭は、なんだかとってもいやらしい場所で偶然出会ったかのように、互いの目をそらしてコンポの方を見た。お前、なんか言えよ。そっちこそ、なんか言って下さいよ…。

「どんなんだ」

 言ったのは校長でも、教頭でもない。

「あっ、理事長、申し訳ありません」

 校長、じじぃがいるの、忘れてただろ。

「ちょっと手違いがありまして」

 そんな苦しまぎれブラザースなんか完全に無視して、じじぃは続けた。

「あんたが作りたかった校歌って、どんな歌だ」

「どんな、って…」

 父ちゃんがなんだこいつ、という顔でじじぃを見る。

 父ちゃんはじじぃのことを覚えていないようだ。

「唄ってみてくれ」

「あの、お言葉ですが理事長、この人はただでさえ相当なオンチで、伴奏があって初めて聞けるっていうか…」

 おい教頭、まる聞こえだよ、ぜんぜん内緒話になってねーよ。

「ボウズ!」

 うわっ。いきなり教頭の二百倍くらいのボリウムで、じじぃったら、なに叫んでんだよ。しかもボウズ、って、何それ。

 ん? 何、こっち見て。

 ボウズ? ひょっとして、それ、うわ、ぼ、ぼくぅ?

 なぜかぼくはあわてて隠れた。

「そこにでかいロッカーがあるだろう。そん中にある物をこっちに持って来い!」

 え? え? ロッカーって、でもこれ、

「ダイヤルナンバーは、69030、ロックの王様、だ!」

 そんなこじ付けはどうでもいいけど。

 とりあえずぼくは言われた通りにロッカーのダイヤルを回した。

 扉が開き、中を見てぼくは息をのんだ。


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