グレまくってやるんだぜ
ふと不安になって、ぼくは足元を見た。
大丈夫。ちゃんと靴ははいている。玄関のドアを閉めた記憶もなければ、もちろん「行ってきます」を言った記憶もないけど、靴は無意識のうちにはいたみたいだ。
こうして駅前で目を閉じていると、全てがどうでもよくなる。
手荷物一つで簡単に家出しちゃうやつの気持ちって、こんななのかな。だとしたらやべーよ。ぼくは手荷物さえも、持っていない。
ふっ、何言ってんだ。家出なんてする度胸もないくせに。
でも今は、父ちゃんの顔を見たくない。
ぼくは目を開けた。浮かびそうになった父ちゃんの顔を、くだらない景色で抹殺しようとした。
開校記念日とは言っても、世の中的には普通の月曜日の午前中だ。
休みの日や夕方の時間に比べて、さすがに働いている人が多い。
ツナギを着て販売機にジュースを補充している人。携帯電話で話している女の人。ティッシュを配っている人。ショウウインドウのガラスにホースで水をかけて拭いている人。
確かにケツメドボンバーたちは、ここで言葉の身軽さをぼくに教えてくれた。
そんなに重く考えなくていいんだよ。
聞く方だって、重くは考えてないんだから。
分かってるさ。でも、何かが怖くて、言葉が出てこないんだよ。
ショウウインドウにはね返った水が、枝分かれしてつつーっと下に落ちる。そう、あんな感じ。あんな感じで、ぼくが言ったことが枝分かれして、相手を傷付けたり、怒らせたりする何かに結び付いちゃうのが怖いんだ。分かってきた。ぼくは、人に怒られたくないんだ。そしてもう、人に去られたくないんだ。
何も言わなければ、ぼくは当分この世界のはしっこにいられる。
誰かが大笑いしている世界のはしっこに。
ぼくは再び目を閉じた。駅前の風景が一瞬にして薄い闇に変わる。
どれくらい目をつぶっていただろう。
不思議とその足音は、改札を出たあたりからずっとぼくの鼓膜に響いていた。だからそれが突然立ち止まって、ちょっと間をおいてから進行方向を変えたのも、ぼくはちゃんと読み取っていた。
足音の主は、ぼくのひざこぞうに触れる寸前で立ち止まり、よっこらしょと言ってしゃがんだ。ぼくは、目を開けた。
「どうだ。調子は」
「あ、不…」
――良じじぃ。ってうわあっ。
ぼくはいきなり現れた不良じじぃのかっこうを見てのけぞった。
つるぴか頭に白い手ぬぐいを巻いて、手には草刈り鎌を持っている。ちょっとJRさん、いいんですか、こんな人電車に乗せて。
「しかしお前もマジメと言うか、単純バカだなぁ」
「ば…、またばかって言った」
「こんなくだらないことをちゃんと実行するとはな」
「なんだよ、これは、じ…」
とそこまで言いかけてぼくはちょっとためらったが、あったまにきたのでもういいや、って気になり、
「じじぃがやれって言ったんじゃないか!」
と叫んでやった。
「ん? 今お前、わしのことを何と呼んだ」
「じじぃ」
「何だと。もういっぺん言ってみろ」
「じじいじじぃじじぃじじぃじじぃじじぃこの不良じじぃ!」
「……いっぺんって言ったのに」
「だまれ。あぁ、くだらないよ。こんなこと、くだなくてやってらんないよ。つーか、じじぃはそれよっか、もっとくだらないよ!」
ぼくは、はぁはぁと息をしながらじじぃをにらみつけた。
よしっ、と言いながらぼくの中でもうひとりのぼくがガッツポーズを見せた。ぼくは、いや、オイラは、もうグレてやる、だからガッツ! 不良だぜ、ガッツ! こうして普通の少年は、不良少年に変身するのだ、親に捨てゼリフをはき、家を飛び出して、盗んだバイクで走り出してはいないけど、駅前で鎌を持った老人をたたきのめして、ガッツ! グレてやるんだぜ、ガッツ! なんでガッツなのかは分からないけど、とにかくグレて、グレて、グレまくって、プログレになってやるんだぜ、ガッツ!
ぼくは鏡が見たい、と思った。
今のぼくの顔は、絶対キモくないはずだ。自信ある。
じじぃはそんなオイラの雄姿におそれをなしたのか、しばらくだまった後でこう言った。
「ほう。なんだかんだ言って、もう二段階目もクリアしておったか」
「二段階目?」
「わしがお前にワザとして実感させたかった、くだらなさの過程だ」
オイラは意味が分からなかったので、とりあえずウンコ座りしたままタバコに火をつけた。うそ。そういう真似をした。ガッツ!
「この世界をつなげているのは、人間どものくだらない言葉のやりとりだ、と分かるまでが一段階目。で、そんなのが分かったところでどうにもなるモンじゃない、と感じるまでが二段階目」
「なにそれ。じゃ、まるでぼくはバカみたいじゃないか」
「だからバカと言っただろう」
「このくそじじぃ!」
オイラは、じじぃの胸倉をつかんでパンチとキックを百回くらいお見舞いして、最後に顔面をアスファルトにたたきつけてやった。うそ。それくらいの勢いでにらみつけてやった。
なのにじじぃったら飄々と立ち上がり、こう言いやがった。
「大事なのは、三段階目だ。よし、わしについてこい」
「ちょ、ちょっと待ってよ。どこに行くんだよ」
ぼくも立ち上がって、じじぃの後を追った。
「ねぇ、ぼく知らない人に付いて行ったらだめだって、学校でも…」
「お前はわしの名前も電話番号も知ってるだろうが」
「そりゃ、知ってるけど」
じじぃはいきなり停車中のタクシーに向かって手を上げた。その手の先に鎌を持っているモンだから、運転手はハンドルを握りながら一瞬身構えた。でもぼくの姿を見て恐る恐るドアを開けてくれた。
「それに、人生ってのはなにごとも三段階目が大事なんだ。なぜだか分かるか」
え? うーん、なぜだ。
「…分かんないよ。どうして?」
言いながら、じじぃが乗り込んだ後部座席にぼくも乗り込んだ。するとじじぃは、ぼくの目をじっと見た後で、こう言った。
「うわ、このシート、ふかふかだなぁ」ガクッ。
「答えは!」
「ご乗車ありがとうございまぁす」と運転手。
あんたも礼なんかいいから。ってゆーか何そのカマ口調。
「ねぇ、なんで三段階目が大事なのさ」気になるだろッ。
「おじさま、どちらまでぇ?」だからあんたはキモいよ。
「なずな台学園」
「ぼくは無視かよ! …って、えええーっ?」
「分っかりましたぁ」
ふかふかな感触のまま、車は魔法のように駅前から滑り出した。
「なんだ、知ってるのか、なずな台学園」
じじぃはやっとぼくの方を向いて言った。
「知ってるも何も、その学校の校歌、父ちゃんが作った」
そう言ったとたん、じじぃは手ぬぐいに半分隠れた眉間にしわをよせた。
「父ちゃん、って、お前の父親か」
「うん」
「そう言や、わし、お前の名前を聞いておらんかったな」
「刻人。佐藤刻人」
「…」
「どうかした?」
「親父の名前は」
「佐藤大介」
「サトウ、ダイスケ…?」
じじぃの眉間のしわが、倍の本数になった。
窓の外を流れる町の風景まで、なんだかふかふかしているように見えた。