すっごくいけないこと
交差点で信号待ちをしていたら、山のような荷物を積んだリヤカーがぼくの前をゆっくりと通過した。
よいしょ、よいしょ、と言って引っ張っているのは、ヒロタのお母さんだった。
「あっ」
思わずぼくの口から声がもれてしまった。
「あら、コクトくんじゃない。こんにちは」
「こ、こんにちは」
その時、それまで目の前の道路を走っていた車たちが、突如としてラクダの大群に変わった。
いつの間にか建物も全て消えて、あたり一面砂だらけ。
生ぬるい風が白い砂を舞い上がらせて、ぼくの目を痛くさせた。
「ふう。こんなにいっぱい仕入れてくるんじゃなかった」
そう言ってヒロタのお母さんはリヤカーを止めて、手ぬぐいで額の汗を拭いた。
「これ全部、本ですか」
「そうよ」
荷台にはシートがかぶせられており、中身は見えない。
そして再びリヤカーを引っ張ろうとして、ヒロタのお母さんは困った顔をした。どうやら砂にタイヤがはまってしまったらしい。仕方なくぼくは、後ろからリヤカーを押してあげた。すると、あっけなくリヤカーは砂から抜け出した。
「いやぁコクトくんのおかげで助かったわよ」
「いえ…」
「お礼に本を一冊あげるわね」
そう言ってヒロタのお母さんはシートをめくろうとした。
「そんな、お礼とかは、いいです」
「遠慮しないで。うちはいい本しか仕入れないの。知ってるでしょ」
「あぁ、はい…」
ラクダを引いた、アラビアのロレンスみたいな感じの人たちが、何人かでリヤカーを取り囲む。
「うちのお店の奥の棚、見たことある?」
「はい。あ、いや、あの」
「いい本がずらっと並んでるでしょ」
「そう、ですね」
ヒロタのお母さんがシートをばさっとめくる。
ロレンスたちがいっせいに身を乗り出す。
シートの下に高く積まれた本。ピンク色の表紙が見えたところでぼくは顔をそむけた。
「さぁコクトくん、一冊あげるから、持っていって」
「あの、やっぱりぼくは、いいです」
と言いながら、本心ではシートの下がたまらなく見たかった。
「そんなこと言わないで。うちのカズヤとも仲良くしてもらってるんだから、おばさんそのお礼もしたいのよ」
「あ、はぁ。でも…」
「仲良くしてないの?」
「いや、そうじゃないけど」
「ひょっとして、カズヤのやつにいじめられてるとか?」
「そっ、そんなことはありません」
「そうよね、カズヤとコクトくんは、保育園からのお友達だもんね。ほら、どれでもいいから好きなの一冊選んで」
おおぉ、とロレンスたちがのどを鳴らしてシートの下をのぞいている。
「だ、だめだよ、おばさん、ぼくやっぱり…」
「なに言ってんだ、本当は見てぇくせに」
ロレンスの一人はよく見るとケンさんだった。
「ケンさん!」
「バレバレなんだよ。サルトだって、ホントはアイツんち、エロタ書店だと思ってんだろ」
そう言ってケンさんはシートの下から本を一冊抜き出してそれを広げ、ぼくの顔に押しつけた。
「ほら、ほら、見ろよ、エロいぞ」
「うわ、うぐ、う…」
目が覚めた。
なぜかぼくの顔面には、下にあるはずの枕が乗っていた。
「あれ、お前今日学校は?」
パジャマ姿のまま二階から降りてきたぼくを、父ちゃんは不思議そうにながめた。
「言ったじゃん。開校記念日で休みだ、って」
「そうだっけ」
「ちっ。ぼくの話なんも聞いてないんだから、父ちゃんは」
「何だよ。今朝はやけに寝起きが悪いなぁ。いやな夢でも見たか」
「え?」
ドキッとした。
「そんなんじゃないよ」
「うそつけ。教えろよ、どんな夢見たんだ」
「絶対いや」
「何だよぉ。コクちゃんのケチンボ。略してコクちゃんチンボ!」
「略してって言わないから、それ。つーか、どしたの父ちゃん」
「何が」
「今朝はめちゃくちゃ機嫌がいいじゃん」
「あらそーかしら」
「気持ちワリィ」
「お前にだけは言われたくねぇよ」
「ぼくだって父ちゃんにだけは言われたくない」
チン、という音が響いた。
オーブンレンジからトーストを取り出して、父ちゃんは皿に並べた。ぼくは麦茶とコーヒーをコップにそそいだ。朝食は、父ちゃんが食べ物係でぼくが飲み物係、と決まっているのだ。
「ところでさぁ、コクちゃんチンボ」
「だからそう呼ばれて返事するやついると思う?」
「これ、なんだか分かるか」
父ちゃんは一枚の紙をテーブルの上でぱらぱらとひるがえした。
なんだか難しい漢字がいっぱい書いてある。
なんとか作料、振込先、口座番号…。
「うひょひょひょ、ギャラだ。ギャラが入るのだ」
その用紙が入っていた茶封筒には、ラベルも何も貼られていない一枚のCDが一緒に入っていた。
「これ、例の校歌?」
「そうとも」
「へぇ、すげぇじゃん。やっと完成したんだ」
「おう。プロの仕事なんて、ま、こんなモンだ」
「へぇー。聞こう。かけてよ、早く」
ぼくはついつい声が大きくなってしまった。父ちゃんはいかにもわざとらしく面倒くさそうな表情をして、作業場からCDプレイヤーを持ってきた。
「そんなに聞きたいのなら、聞かせてやる。おどろくなよ」
父ちゃんがどんな意味で言ったのかは知らないが、曲が始まったとたん、ぼくはおどろいた。
なに、これ。
あれ、あれれ、全然違うじゃん。何もかも違う、別の歌じゃん。
「父ちゃん、これ…」
メロディーは、なんか音楽の授業でさんざん唄わされた合唱の曲みたいだし、歌詞はぼくの小学校の校歌に出てくるような変な日本語の連続。
「あの時ぼくが聞いた校歌は?」
「何言ってんだ。それがこの歌だよ」
「うそだぁ。違うよ、これ」
「ま、多少変更した箇所もあるが、それはアレだ、校長先生と念入りに打ち合わせを重ねるうちに…」
「多少じゃないじゃん」
ぼくは父ちゃんの言葉をさえぎった。父ちゃんは一瞬顔をしかめてからパンを皿に置き、何も言わずにCDを止めた。
隣の家で食器を洗う音までがはっきりと聞こえてきそうなくらい恥ずかしい静けさが、突然うちのかたむいた台所をおそった。
「父ちゃん、ぼくがこれを唄うの、想像した?」
「なんでお前が唄うんだよ」
「言ってたじゃん。息子が気持ちよく唄える歌にしたい、って」
ぼくが言うと、父ちゃんは深く息をはいてからパンをかじった。
「別に…お前になんか唄って欲しかねぇよ」
「そんな…」
あれ、ぼくの声、おかしい。声から、水がもれてる。
「ぼくは、父ちゃんが作った歌なら…」
あれ、言葉が、日本語が分からなくなっちゃった。えっと、えっと、ぼくが言いたいのは、えっと…。
「父ちゃんの……、うそつき!」
バンッ。
父ちゃんは、ぼくの言葉が終わらないうちにいきなり両手でテーブルをたたいた。歯形がついたパンが宙を舞った。
「あー、うるせぇ、うるせぇ!」
そしてコーヒーカップを持って立ち上がり、中身を思い切り流し台にぶちまけた。ぼくが入れた、父ちゃんの、コーヒー…。
「いいかコクト。父ちゃんはな、大事な仕事をやり遂げたんだ。何度も言うが、これがプロの仕事ってやつなんだ。覚えとけ」
隣の家から聞こえる食器の音に、女の人の鼻歌が乗っかった。
目の奥がかゆくなったのは、父ちゃんに怒鳴られたからじゃない。父ちゃんと二人っきりで、母さんのいないこのうちにいるってことが、なんだか突然いけないことのように思えてきたからだ。
おまわりさんに捕まっちゃうくらい、すっごくいけないことのように思えてきたからだ。
すっごく……。