父ちゃんが頭を下げた相手
ぼくは次の日も、学校から帰るとランドセルを置いて真っ先に駅前へ向かった。
そして売店と宝くじ売り場の間にちょこんと座り、目を閉じた。
秋はなんとなくエレガントなにおいが漂いそうな季節だが、人々の会話は今日もくだならさのオンパレードだった。
全く、エレガントのエの字もない。
くだらなさを実感する。そうか、こういうことだったのか。
夏目雪彦という不良じじぃの言ったことが、ぼくは少しだけ分かったような気がした。
昨日ぼくの肩をたたいた警官は、ぼくが一番苦手とするタイプだった。胸を張り、目を見ながら自信たっぷりに話しかけてくる…。そうされただけでぼくの言葉はいつも、ニヤニヤの枝にせき止められてしまう。はい、ビーバーさん、おうちが完成しましたよ。
だからぼくののどの奥には、今まで何匹ものビーバーが住みついてきた。
でもそれが昨日、ケツメドボンバーたちの手によって、ちょっとだけ壊された。言いたいことが、ぼくの口からちゃんと出てきた。
言葉と一緒に、ぼくはビーバーを吐き出すことができたんだ。
って、何が言いたいのかさっぱり分からないと思うが、要するにぼくは、少しだけ安心したのだ。
いいんだよ。いいじゃない。重く考えるなよ。大笑いの世界に加わるためには、枝を集めてちゃダメなんだ。
加わりたいだろ、世界に。なりたいんだろ、ケツメドボンバーに。
ほら言ってごらん、ケツメドボンバーって。
それが入り口さ。
でもぼくは、入り口が見えただけで、実際のところは何も変わってはいなかった。
その中に入る勇気がどうしても出せないのだ。
教室では相変わらずケンさんにおびえ、ヒロタとは一緒に帰ることもなくなった。
ニヤニヤがキモいのはもう分かった。じゅうぶん分かった。だからぼくは、その機会が訪れないように、逃げ回った。ヒロタのことを呼ばなくて済むように、できるだけ二人から遠ざかった。
サイテーだ。本当にぼくは、病気なんだ。不良じじぃが言う通り、ぼく自身の存在が、病気なんだ。
人ごみは、そんなサイテーな気分を少しだけ洗い流してくれた。
だからって、人ごみが病気を治してくれるわけじゃない。そんなことくらい、ぼくにだって分かる。ぼくは意外と頭がいいんだ。
ところで、存在ってどんなイミだっけ?
駅前で目をつぶるのも今日で三回目だ。
今日はこの間おじいちゃんからもらったおこづかいを持って出かけ、帰りにあの店でドーナツを二つ買った。
トッピンロールっていう不思議な形をしたドーナツ。なんか、ロックンロールみたいだな、とぼくは思った。
そう言えば父ちゃん、最近ロックンロールって言葉を口にしていない気がする。っていうか、最近父ちゃんは、どうやら寝ていない。
家に帰ると、また父ちゃんは電話機に向かって頭を下げていた。
なんだか目をはらして、髪の毛もボサボサで、一気に歳をとった気がする。自慢のモミアゲも手入れをおこたって伸び放題だ。
でも口調はいつも通りだった。
「もう、校長先生はさすがです。教育者のカガミですよ。わたくしも息子の教育を考える上で、そこらへんは見習いたいと思います」
けっ。何が息子の教育だ。育ててもいないくせに。
「でもね、先生、わたくしも一応は音楽を作る身なんで、だからと言ってはアレなんだけど、歌ってぇのはやっぱ、聞く方よりもまず唄う方が気持ちよくなってなきゃならんと思うわけですよ」
あぁあぁ、床もこんなに散らかしちゃって、足の踏み場もないじゃん。この間持っていたのと同じたくさんの紙切れ。なんだか歌詞みたいなのがいっぱい書いてあって、どの紙にも赤いペンで大きくバッテンがしてある。
「そんで、ふと思ったんですわ。うちの息子だったらどんな歌を気持ちよく唄ってくれるだろう、って」
うちの息子だったら?
ちょっと待ってよ。なんでそこにぼくが出てくるわけ?
「…はい? はぁ、小学生相手に考えても始まらない、と。それはその…はい、分かっておりますです。すんませんでした」
ほら、言わんこっちゃない。
「そんな、不満だなんて、ぜんぜん…。じゃ、明日の録音、えっと2時からでしたね。はい、はい、分かりました。よろしくお願いします」
それから父ちゃんは、何度も頭を下げて電話を切った。
「あのさ、高校の校歌なんだから」
「うわぁ。だから言ってるだろ、ただいまくらい言えって」
「言ったさ。父ちゃん、頭下げるのに夢中で気付かなかったんだよ」
「お、俺がいつ、人に頭なんか下げた」
「下げてない」
「そうだろ」
「父ちゃんが頭を下げた相手は、電話機だ」
「なに、俺、下げてた?」
「三十回くらいね。うまくいってないの?」
「な、何が」
「校歌」
「バカ。いってるよ。俺は音楽家だぞ。プロをなめるなよ」
「どこがプロなんだか」
「こら。なんだ、親に対してその反抗的な態度は。お前いつからそんな不良になったんだ。プロの息子がグレたりしたら…」
「グレたりしたら?」
「それがホントのプログレ、なーんちって」
あれ。気付かなかった。
ここまで意味が分からないギャグを言うほど、父ちゃんが動揺していたとは。そうか。 きっとしばらくやっていなかったから、歌が上手に唄えるかどうか心配なんだな。
いいじゃん。どうせ一年でクビになるほどの才能しかなかったわけだし。それに、最終的に唄うのは父ちゃんじゃなくて生徒たちなんだから。
「それより、父ちゃん、ドーナツ買ってきたよ」
「え、本当? 俺、腹へってたんだぁ」
ぼくが紙袋を渡すと、父ちゃんはあわててそれをビリビリ破き始めた。白い粉が当たり前のように落ちて、汚い床をさらに汚した。
コドモだ。
ぼくはため息をついた。