夕立
昔から雨は嫌いだった。
服は濡れるし、やりたいことの半分以上は制限されてしまう。
傘なんて差して歩いた日には片手が塞がって不便な事この上ない。
だから、今日も突然降り出したこの雨に半ばうんざりしていた。
バケツの水をひっくり返したような激しい雨で、流石に携帯用の傘では対応しきれずに偶々通りかかった商店街の軒下で雨宿りをすることにした。
取り敢えず濡れたのは肩だけで大した被害もなくホッとしていると、少し遅れて誰かが駆けてくるのが見えた。
白いカッターシャツに黒いズボン。典型的学生服スタイルの男は全身びしょぬれで、恨めしそうに空を見上げる。
前髪からポタリと落ちた水滴が首筋を伝い服の中へと消えていく。
「ふー、ついてないな……」
濡れた前髪を掻き揚げ緩く息を吐く。
不意に視線が絡んでハッとした。
「加藤……先輩……」
「あれ? 君は確か……」
淡い茶色がかった瞳が俺の姿を映し出し、驚いたように目を丸くする。
俺は俺で、まさかこんな所で会えるなんて思ってなかったから、内心凄くドキドキしていた。
加藤先輩は、俺が野球をやりたいって思わせてくれた人。
俺が十歳でリトルリーグを始めた時、先輩は十二歳。
チームを引っ張る柱として、エースナンバーを付けて第一線で活躍していた。
云わば俺の憧れの存在ってやつで、こんなに近くに居るのが信じられないくらいだ。
全国屈指の強豪校に進学した先輩は、あの頃と変わらないまま。
地区大会で対戦した時のバッターボックスに立ってホームランを打つ姿は、やっぱり格好よくて、ベビーフェイスな顔立ち似に合わぬその実力に始終ドキドキしっぱなしだった。
そして今、目の前に居る先輩はユニフォームを着ているときとはまた違う格好よさがあって、試合中に感じたのとは別のドキドキ感が俺を支配する。
「鈴木、だよね。久しぶり」
「地区大会以来っすね」
「だね」
一向に止む気配のない雨を眺めながら、滴り落ちる雫を指で拭う。
湿り気を帯びた制服から肌が透けて見えて、想像以上の逞しさに一瞬目が離せなくなった。
加藤先輩って……細く見えるのに結構がっちりしてるんだ。
ふと、そんな事を考えてしまい、視線を逸らす。
「ん、どうかした?」
「なんでもないっす」
「?」
男の体に見蕩れるなんて、どうかしてるよ、俺……。
「そう言えば翔太君、元気してるかい」
不意に、先輩が空を見ながら呟いた。
翔太と言うのは加藤先輩の幼馴染で、俺の学校の野球部主将だ。
先日の試合で大怪我を負って現在は病院で入院している。
「えぇ、元気なんじゃないっすか」
「そっか。きっと翔太君の事だから今頃病室で筋トレでもしてるんじゃないかな」
目を閉じればその光景が浮かぶのか先輩はクスリッと笑った。
なんだろう、翔太先輩の話題が出たとたん、もやもやした気持が俺の中で広がってゆく。
翔太先輩の話をする時、加藤先輩は大抵表情が和らぐ。
加藤先輩の嬉しそうな顔を見てると、なんだか無性にイライラする。
「翔太君は、いつもギリギリまで自分を追い込む癖があるからホントに……」
「先輩! 雨、上がりそうですよ」
これ以上、加藤先輩の口から翔太先輩の話を聞かされると自分が何を口走るかわからなかったから、途中で言葉を遮ってしまった。
さっきまでの豪雨は何処へやら、どす黒い雲は何処かへ消え去り雨は霧雨へと変わっていた。
「ほんとだ。よかったやっと帰れるよ」
「そうっすね」
もう少しだけ、一緒に居たかったな。
ふとそんな考えが頭を擡げ名残惜しさが広がってゆく。
このままココで別れたら、次いつ話せるかわからない。
もっと、先輩と話がしたい。もっと知りたい、先輩の事。
咄嗟にそう思い、帰る支度を始めた先輩を思い切って呼び止めた。
「先輩、これから時間ありますか」
「え、まぁ空いてるけど……どうか、したのかい?」
不思議そうな表情を向けてくる先輩に、声を掛けた後のことを考えてなかった俺は言葉に詰まる。
「……鈴木?」
「あの、これからバッティングセンターにでも行きませんか?」
「いいけど、この格好ではちょっと」
あ、ハハッ確かにそうだ。
俺、何言ってんだろう。
ずぶ濡れの先輩に対して言う台詞じゃないよな。
我ながら馬鹿な事を言ってしまったと、後悔が押し寄せる。
「すみません、おかしな事言って。今のは忘れてください」
「いや、僕は構わないさ。着替えてからでいいなら、付き合うよ」
「えっ!?」
マジ!? 信じられない。
「じゃぁ、着替えてくるから」
ニコッと笑い手を振って、小雨の中を走っていく先輩。
棚ぼたってこういうことを言うのかな。
雨は昔から嫌いだった。
それは今でも変わらないし、たぶんこれからも変わらない。
だけど、嫌なことしかないと思っていたけど、この夕立が無かったら、加藤先輩と会うこともなかったんだ。
そう考えると、あながち雨も悪くないのかも知れない。
雲の切れ間から現れた大きな虹を見ながら、すがすがしい気持で俺も一歩を踏み出した。