穢れなきもの
開けて翌日。
俺は副業の派遣先でその報告を目にした。
少女は無事、《《過去を失う事》》が出来た。
最早それをするしか少女が生きる道は無かったのだろう。
あるいは特定の保護を受ければ時間をかけて癒やす事も出来たかもしれない、心の傷。
だが起きている間のほぼ全ての時間を放心状態で過ごす彼女が唯一取った行動、組織への同行が、もしその症状の重篤度合いを図る指針とするならば組織に取って取れる手段としては唯一のものだったのかもしれない。あるいは――
久しぶりに見たニュースで、あの時警察に保護された子供の約半分が親元に戻ったとされる報告を見た。美辞麗句に彩られた内容で、読むのは途中で止めた。
もし少女が親元に戻されたとしたら、どうなったのだろう。
彼女を《《そう》》した犯人が彼女の親だという確信は無い。拉致を決行した連中の仕業かもしれないし、拉致の直前に何かがあったのかもしれない。
ただ、確かなのは、これ以上考えても仕方ないと言う事だけだった。
少女は既に、記憶に蓋を施されたのだから。
連絡はもう一つ揚羽からも来ており、曰くヘラクレスの日本滞在が伸びたという内容のものであった。
報告というよりその内容はヘラクレス残留に対する愚痴に近く、どのような経緯があってその結果なのかまでは伺い知る事は出来なかった。
そしてそれに対する反応も、俺には見出す事が出来ないのだった。
人材派遣のアルバイトで、今日はアパレル通販の工場に来ている。殆どの従業員がパートの女性ばかりの中、正直居心地は宜しくない。申し訳程度の食堂も、密度が酷く、それを過去の経験から知っていた俺は出勤時に買っておいた惣菜パンで昼食を済ませ、人気のない場所で時間を潰している。
工場の中程にあるベランダのようなスペースで日光を浴び、暇を潰す。同時に喫煙スペースにもなっている為、全くの無人とはいかないが密度はまだ薄い。
世界は回っている。
一人ひとりに生活があり、それは決して裕福ではなく、中にはその日暮らし、俺もそうだが、目先の支払いにすら困窮する者も少なくないだろう。今日をなんとか稼ぎ、明日も明後日も繰り返し。
そんな人々が混ざり合って社会が回り、世界は回る。
大多数の者は知らない。死にたがっている少女が居た事を。その少女が過去を失った事を。
無関心だからとか、そういう事ではないのだろう。
その不幸が目の前に転がってこなかった、だから知る由もないのだ。
だけどそれが、何故か寂しく感じる。
それは、何でなんだろうか。
始業のベルが鳴った。
少し遅刻だ。俺は慌ててその場を出て、持ち受けの職場へと走った。
ー
さらに翌日。
督促状が届いた。滞納していた水道料金のものだ。
銀行の記帳は長いことしていないので、記憶で残高を思い出す。
来月の家賃が危ういレベルであった。
此処暫くの食事はずっとインスタントの袋ラーメン、しかも具なしだ。
これはピンチである。最早空気を読んで我慢とか言っているレベルではない。未払い分の支払いが無い場合、比重をバイトに移すでもなければ食事にも困りかねなかった。
アパートから基地へは徒歩で僅か十分と少し。
俺は早速鼻息荒く基地へと向かう事にした。
エレベーターを降り、フレイが居るであろう中央休憩室へ向かう。
少し歩くと眼前に白衣の女性と、その前を白のワンピースに身を包んだ小さな影を認めた。確認するまでもない、あの少女だ。
説明して回っているのか、語りかける研究者に、少女はちゃんと反応を返し、頷いていた。
施術がどのようなものかは知らなかったが、ともあれ一日で目覚ましい状況の改善が見れたのだと解る。
ヘラクレスが脳みそいじり等と言ったが為に余程の大手術を想像していたが、頭部に包帯も無く、こうして歩いているからには大した処置では無かったようだ。
声をかけようか迷ったが、止めた。
黙って二人の後ろを距離を取ったまま続く。
今日はそれを確認しに来たのではない、寄り道で意気を散らしてはまたはぐらかされてしまう。
少女は助かった。ならば次に助かるのは俺なのだ。
そう行かずして研究棟に差し掛かる。大きく備えつけられた研究室の窓、一つ一つに小さく手を振っていく。
覗き見える横顔は少し照れくさそうで、随分と大人しい性格か、照れ屋のようである。
セミロングのボブ。まだ少し青白さの残る肌。首元は随分と筋が浮いて見えた。袖の長い患者衣のようなワンピースで肌の露出を抑えているのは、恐らくそういう配慮であろう。
空調が完全に効いた基地内は白衣の研究者が多い事もあってやや涼しめに設定されている。
中央休憩室を囲うように配された通路、その外周に各研究室は配置されている。順繰り回っていく少女を見送って、俺は休憩室に足を踏み入れた。
「ん……おや、どうかしたのかい?」
今日の気分なのか、春の公園を映し出す室内。ベンチに座りそれを眺めていたフレイは俺を確認すると微笑を向けた。
ぐっと全身に力を込める。
臆病者の俺は他人に自分の意思を伝えるのにすら途方もない労力を要する。
脳内がぐるぐると色んな事を考え出す。キレられたらどうしよう、嫌われたら嫌だな。余計な事になりそうだな。
誰も何も言っていないのに、勝手に追い詰められていく。イジメられっ子の心境とはこんな感じだろうか。
「いや、そのお金が……ですね」
やっとの思いで言葉を絞り出す。
「お金?」
「ええ、給与が、三ヶ月ほど頂けてませんので、生活が……苦しい訳で」
普段取り繕っているメッキが剥がれる音が脳内でしていた。これだから本心を表に出すのは嫌なのだ。頬が上気するのがハッキリと解る。
「え……あー……そうか。そりゃ悪い事をしたね」
「これ以上続くと、バイトを増やさないとなりません。当然、生活がかかっていますので、バイトの優先度を上げます。作戦と重複しても、バイトを優先します」
「それは、困るね」
膝を組み、こめかみに指を当てる。
薄ら笑いを貼り付けた表情は少しだけ口元をへの字に変わった。
春の公園を映す室内。穏やかな日差しの中、恋人同士が目の前を通り過ぎていった。遠くで鳥が囀っている。
「しかし参ったね。あの機械を借りるので当面の資金を使ってしまった」
「前も似たような話を聞きました。では、バイトを優先しますんで、宜しいですねっ」
食って掛かるように言葉尻を強める。
薬剤が足りない機材が足りない研究所のメンテで費用が。我慢はもう十分してきた。というか此処まで生活が追い詰められた経験は始めてだ。
「解った。この手で《《からかう》》のはオシマイにするよ」
言うとフレイは両手を頭上に上げバンザイの姿勢を取った。
「……っ、
からかってたんですか。やっぱり」
喉まで出かかった罵倒を飲み込み、声のトーンを落とし、確認した。
恐らくだけど◯◯は口にしたら戦争だ。
その確証は半々だった。ただ、俺だけが給与未払いの状況は普通に異常だ。個人的な思惑以外には考えられず、しかしフレイならばやりかねない懸念も捨てきれなかったのは事実だ。
「当然。此処の扱う資材の単価に比べたら、君一人の給与は何てことないさ」
「でも何でまたそんな……」
悔しいので脳内で|思いつく限りの罵倒《 ナイチチ キツネ目 サディスト カッコツケ 服洗ッテンノカ》を捏ねくり回しておく。
「ん?まぁ、いいじゃないか。手配しておくよ。
それより、もうすぐだと思うんだが――」
言うが早いか、俺の背後で入り口のドアが開放された。
「わぁ……っ」
小さく感嘆の声は、まだ幼く、
「やあ、おはよう」
フレイの視線の先、振り返り見やると、研究員に連れられたあの少女であった。
成程、彼女が来る事を見越しての、公園の映像だったと言う訳か。
そして話を長引かせたくないが為に、俺の要求には素直に応えたと。
「いや、もうこんにちわ、かな」
「はい、こ、こんにちわ、フレイ様」
少し照れたように、控えめな笑顔でペコリと頭を下げる。
いつか見た暗い影は、最早感じられなかった。
「下がりましょうか?」
「そうだな、少し女同士の話しと洒落込むとしよう」
聞くに、フレイは頷く。
少女の脇を抜け、同時に踵を返した女性研究員と揃い退室する。
少女は俺を一瞥もしなかった。どうも嫌われたらしい。一言も話してないのに。
「一応、貴方にも説明をしておくべきだと思うのだけれど」
背後でドアが閉まるのを確認し、女性研究者はややずれ落ちたメガネを正し、そう切り出した。
ドアのロックを告げる電子音が、遅れて鳴った。
「何をです」
「あの子の処置状況よ。貴方はフレイ様の近くに居る事も少なくないから、自ずとあの子と関わる機会も多いと思うの」
「……どうでしょうね。嫌われてるみたいですし」
チラリとも俺に視線を向けない、ただ真っ直ぐフレイを見つめる横顔を思い出す。正確には嫌われているというよりかは微塵も興味が無い、が正しいのか。
それはそれで寧ろ傷つこうものだ。
好きの反対は嫌いではなく無関心だと、たまに目にする。ポエムが好きな女の子女の子した呟きに多いのだが、それは多分合っている。
嫌いと言う感情は相手を認識して始めて抱くものであるからだ。
「まぁ聞いて頂戴。
昨日あの子、《《α》》に施した施術であの子の記憶は凡そ八歳以降はほぼ封印した状態になっているわ。少しづつ反応を見たのだけれど、それ以降は拒絶反応の兆しがあったの。《《α》》に行ったのはあくまで封印だから、それは何かの拍子に外れる事は十分に予想される。そして拒絶反応の元となった記憶は、まず間違いなく封印が解除されるトリガーになり得る訳」
「八歳……随分と退行したもんですね。でも、そんな子供とも感じませんでしたけど」
ドアにそのまま背を預け、天井のライトを見上げた。
見上げた所で良い考えが浮かぶわけでもなかったが、そうした。
「勿論、あまりに実年齢との齟齬が大きいと支障も多いから、そこはダミーの記憶を噛ませているわ。シナリオはこうよ」
腕を組み俺の正面、女研究員は語る。
まず両親は死別し、フレイによって育てられていたと催眠で認識させてあり、その間の記憶は挟み込んだニセの記憶以外はある事故による記憶喪失で失われた。
シンプルで一部真実を混ぜ込んだ内容であった。
「問題はフレイ様に親代わりが務まるかって点だけど、まぁなるようになるでしょ。だから貴方も旨い事話しを合わせて頂戴ね」
「解りました」
まぁあの状態なら、黙っていれば問題はないだろうと思える。
「ああ、後、催眠術と違って外科的処置で、しかも結構強引なものだからあるいは脳のダメージが心配されるの。何か違和感を感じたら知らせて貰える?」
「それも、了解」
強引な外科処置。ヘラクレスが言っていた脳みそいじりとはこの部分だろうか。
包帯をする必要が無いと言う事は超音波や電気的なものが考えられる。昔、気違いを《《電波》》と呼ぶ風潮があったが、あのようなものだろうか。
いずれにせよ傍目には問題無さそうなので、それ程重要視はせずに済みそうだ。
「じゃあ、伝えたわ」
「あー、これって揚羽には?」
休憩室ではなく研究室へと向きを変えた研究員に問いかける。
「揚羽は既にご存知よ」
短く応えて、彼女は目の前近くにある研究室へ入っていった。
そう言えば結局未だに彼女の名前を聞いていない事を思い出した。だが今から追いかけるのも気まずいものがある。
まぁ何にしろ給与の目処は立った。今日はもう予定も無いので、帰るとしよう。
久しぶりにラーメン、インスタントじゃない、具の乗ったのを食べるのもいいかもしれない。
出口へ歩きだす。
「あんっ」
向きを変えた所で硬いモノに顔をブツケた。ボフ、というよりゴツ、が効果音としては近い。
そして聞こえる耳障りな裏声。
「やだぁ、えっちなのねっ」
一歩下がり見やる。
厚い胸板が一面に広がる。よく見るとベストの影から逞しい胸毛が覗いている。
見上げれば、ど真っ赤なルージュがおちょぼ口で、あまりの近さに、青髭が見て取れた。顎は綺麗に割れている。
ヘラクレスだった。




