飛ぶ、まで。
僕は今、猛烈に迷っている。レストランのメニューでもない、もちろん人生でもない。そう、何の事はない――森の中で、迷子になっているのだ。
僕の住む家はひどく立地が悪い。最寄り駅なんて概念があるのかと思うくらいに遠い駅、そこまで片道1時間かかるバスの車窓から断続的に見える人口空白地帯、なぜそんなに高いのかと自然を恨みたくなる標高。僕はまだ高2なので自動車という文明の利器にも縁がなく、さらに悪いことに親は休日であろうと遅くまで帰って来ない。親子関係が悪いとかではなく、我が家では個人主義を採用しているというだけである。そんなわけで休日は主に引きこもり生活を楽しんでいるのだが、時々散歩に出掛けることがある。それは近所に住んでいる後輩であり、女友達の下田 日世理ちゃんが誘ってきた場合だ。女性があまり得意ではない僕だが、彼女だけはなぜか特別異性として意識することなく接することができる。
夏休み初日の朝、早速親が出かけてしまい暇を持て余してしまった。宿題をやる気分にもなれない、などと思っているとちょうどいいところに日世理ちゃんが家のチャイムを鳴らしたのであった。
「こんにちは! 今日はどこに行きます? と言っても、なにもないですけどね」
「まあ、とりあえずぶらぶら歩こうか」
「はい!」
家を出た。目前に広がるのは大自然の中をまっすぐに走っていながら、不自然なほど綺麗に整備された国道だ。かつてこの辺りは車通りも多かったらしいが、麓に長大な高速道路や鉄道のトンネルが貫かれてからはかなり寂れてしまった。とはいえ住んでいる人もいないわけではなく、主に登山客向けの民宿などを営んでいることが多い。少し山を降りるとダムがあるためそのあたりは住宅がある程度密集しているが、そこまでの10kmほどの道のりにはほとんど何もない。そのためもちろん歩行者のことなど考慮されているはずもなく、歩道も一部にしかない。そうは言っても車通りもそこまで多くないので、歩いていて危険になるようなことはあまりないが。
「イブン・セレブンで何か買っていきます?」
「そうしよう。流石にあの道を手ぶらは辛い」
イブン・セレブンとはうちの近所にある唯一の小型スーパーで、外装はタージ・マハル風(だが、かなりガタが来ている)で、<セレブ御用達!>などと書いた張り紙があるものの、客は僕らのような地元民か、精々長距離トラックの運転手ぐらいしかいない。
「いらっしゃい。おお、日世理ちゃんと孔明くんか。いつもありがとうね」棚を整理しながらそう話しかけてきた店長は自然と僕らの顔見知りで、名前は確か工藤さんだったかな。
飲み物や軽食をかごに入れ、レジへ持っていく。他に客がいないこともあって、買い物はスムーズに進んだ。
「1024円になります」レジにいたのは新人と思わしき店員だった。そういえば最近前任者であるおばさんが夫の転勤で辞めてしまったんだっけ。
「あ、僕が払うよ」男を見せるとかそういうことを考えているわけではないが、僕がおごることが多い。あまりお金を使うこともない僕は、親からのお小遣いだけでも余ってしまうので、こういうときに使っておくというわけだ。
「いつもありがとうございます!」彼女も慣れてきたようで、遠慮の社交辞令などは暗黙の了解で省略される。
店を出ると、いつの間にか外の掃除をしていた店長が、僕らが店を出たことに気付いて話しかけてきた。
「あ、そうだ。ちょっと待っててくれる?」店長は店の奥に一旦引っ込むと、袋のようなものを持ってこちらに来た。
「どうしたんですか?」
「これを渡そうと思ってね」店長は持って来た袋から指輪を取り出した。
「商売関係の人からもらったんだけど、おじさんはこういうの似合わないと思うから、受け取ってくれる?」
「これ、良いですね!」日世理ちゃんは気に入ったようで、すぐに受け取る。
「いやいや、引き止めて悪かったね。いってらっしゃい」
店を出発して、日世理ちゃんからさっきの指輪を見せてもらう。結構年代物に見えるが、状態は良さそうだ。色は白で、そこにクロムのような鈍い輝きを持った黒い蝶の羽根の紋様が施されている。
「ちょうちょ、好きなんですよ」日世理ちゃんは動植物が割と好きで、よく写真を撮っている。
「それはいいんだが、こんな良さそうな指輪をもらって、ちょっと悪い気がするな」
「いいんですよ、いらないって言ってくれたものなんですから!」悪気なく言う彼女に、それ以上の追求をする気も失せてしまった。
3kmほど歩いたあたりに、登山口がある。そこを真っ直ぐ行くともちろん山に登れるのだが、途中で曲がると国道と並行してしばらく森を抜ける小道がある。
「今日はまだ時間があるから、森の方から行こうか」
「いいですね!」そんなわけで、そちらのルートに行った。
森の道は意外と分かれ道が多いため、おそらくすべてを回りきったことはないだろう。
「回り道してみます?」まさかこの選択がまさかあんなことになるとは、この時は思ってもいなかった。