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風魔天狗

作者: masuken

地獄に堕ちてしまったある学生の話



ちょっと前の話をしたいと思う。


といっても50年ほど前の出来事だけれど。



とある関西の大学に、表面物性の研究室があった。


その研究室の教授、還暦に近かったが髪の毛が黒々として生命力に溢れていた。


実にいい面構えの男だったんだけど、あれは閻魔(えんま)だった。 


これは間違いない。


妙な研究をやっていたんだから。


なにやら薄い物質の強度を計ったりしてね。


その物質の名前を今思い出そうとしているんだけど、うまく思い出せないんだ。



まあとりあえずそれは置いておいて、話を先に進めよう。


ある年、その教授の研究室に所属していた一人の学生が行方不明になった。


とても好奇心旺盛な学生だった。


彼は、その教授から卒業研究のテーマを与えられた。


そのテーマとは、先ほど話した物質の表面物性評価、硬度測定、弾性率測定というものだった。




勘のいいこの学生はしばらくすると、その物質がこの世と別の世界を繋ぐためのものである事に気がついてしまった。


さらにおそらく、教授がこの世のものではない事にも彼は気がついた。


それで彼特有の好奇心をもって、何らかの方法でそれを確かめようとしたんだろう。



それが教授の怒りを買い、次に彼が目を開けたのは、姿を現した教授の太鼓腹の表面だった。


かわいそうに、赤々とした恐ろしい細胞壁の中で目と鼻の根元だけ出してた。


閻魔は憎々しい笑顔を自分の腹に向けた。


その子の目ん玉が恐怖とあきらめから飛び出し、あの世の方向を向いてしまうと、閻魔はグイっと


腹の膜を閉じたよ。



それで、その学生は漆黒の闇の中、そう、地獄に落ちて行ったんだ。


とんでもなく深く、とんでもなく暗い所、あらゆる場所の底の底にたった一人で。


彼の運命がいかに悲惨なものだったかちょっとは想像できるだろうか。




申し遅れたけど、ぼくは天狗である。


それも風魔天狗と言って、天狗が修行を積んでなれる、


普通の天狗よりもワンランク上の存在だ。 


ぼくは地上と地獄を自由に行き来する。


だから、地獄に落ちてしまった学生のその後を、これからお話したい。




ぼくが修行して天狗になった理由はもう昔の事すぎて忘れてしまった。


何かの因果なのかもしれなかったし、そもそも理由なんて始めからなかったのかもしれない。



けれどこの事件を思い出すたびに、おそらくそういう世界があるっていう事が怖かったからだと思う。


心の底から怖かったんだ。


あっちの世界を知ってしまった事が。


あの閻魔の憎々しい笑顔、そんなもの、ぼくの存在そのものが受け付けなかった。




さて、地獄といえば、多くの人はまず、針の山や灼熱の釜の苦痛を想像するかもしれない。


だけど違うんだ。


本当は快楽の事なんだ。 ひたすら純粋でひたすら強烈な、終わりのない快楽。


温もりも、愛情も嫉妬も、かけひきも一夫多妻制も何もない。


分かるだろうか?


ラブ•ドラッグって聞いたことがあるかな。MDAって呼ばれているのとか。


そういうものを使って自ら地獄に落ちてしまった人もたくさんいる。


ピンクフロイドの言葉を借りれば、青空と苦痛を、重たい空気と冷たいそよ風を、


取引して交換してしまったんだね。



地獄に堕ちたかわいそうな学生に話を戻す。


彼は気づくと広い通りの真ん中に立っていた。 


薄闇の中に橙や赤、桃色の明かりがぽつぽつと灯る、おびただしい数のちょうちんに彩られた幻想的な通りだった。


それは行く者は戻ることのない永遠と続く道。


その道の両側に連なる建物は「暗黒の家」と呼ばれ、入る者は出る事のない家。


彼の横を死者たちが列をなして通りすぎて行く。


目的地も持たず、虚無に向かってさまよい続ける。


新参者はまだ人間の姿形をしているが、古くからの者は肉体がその輪郭を失い、色の鮮やかさも失っていく。


やがて半透明の灰色となり、漆黒へと近づいていくんだ。


ここではまるで黒いビニール袋でもかぶったような、原形質の塊になってしまった者たちもたくさん歩いている。


家々の戸口には老婆が立ち、奥には白い羽の生えた着物を着た美しい女性が座っている。


彼は気づくと一軒の建物の前にいたんだ。


無意識のうちに吸い寄せられたんだろう。そして女に案内されるままに、ふらふらと奥の部屋に足を踏み入れると、


そこは畳のいい香りのする、天井の高い広々としたところだった。



これから彼は美しい女と限りなく快楽を味わい、肉体は果て、彼の


鋭い観察力、想像力、好奇心、生きる歓び、そういったものを掻き立てていた


魂の炎は純粋な情欲の炎に置き換えられ、それも次第に弱々しくなり、やがては消えてしまう運命にあった。




この奇麗だけど無表情な、白い羽の生えた着物を着た女は、


彼に向かってにっこりと笑顔を作ってみせたんだ。


でもそれは、口元の片方を無理矢理に引っ張りあげたような、不適な笑みだった。


それもそのはずで、女の胸の奥にはマッチの燃えかすほどの温もりもなかったからね。 


袖口から覗いた白い手首はふっくらしてるし、いかにも優しそうだったんだけど。




しかし女はまぎれもなく学生が生涯見た中で最も美しい女性だった。


彼は恍惚とした表情で女に近づき、その顔に手を触れるか触れないかのところで、


ぼくは彼を女から引きはがし、僕の力を使って地上に送り戻してやったんだ。


もちろん彼が地獄に落ちる前あたりから、そこまでの記憶はすっかり消した。


その先、この学生がどうなったかは僕も知らない。



そういえば……!?


今ようやく思い出したけれど、


表面物性の研究室であの教授が研究していたうすい物質、この世と別の世界を繋ぐためのもの。


あれの名前はコンドームだ。



-----------------------終わり---------------------

(c)masuken


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