Sの葛藤
「本が読めない……!?」
それは僕を襲った最初の問題だった。ケータイで某巨大掲示板を見ることはできる。だが、借りてきたゴルゴ13が読めない。文字が具象化されず、文章としての意味を持たない。こんなことは生まれて始めてだった。
かろうじて、以前読んだことのあるマンガの台詞だけは読み取れた。しかし。
「ストーリーが違う?」違和感はそれであった。覚えていたストーリーと話が違うのである。最初はこれを何らかの世界改変の根拠だと思っていた僕も、冷静さを取り戻すと、もっと恐ろしい仮説のほうに考えを変えた。つまり、もう僕の記憶は当てにならない、ということ。
その時点で、僕は自分の脳を信じるのをやめた。
仕事で使っていたノートパソコン。それだけが確かな情報源である。僕は丸一日かけてチャットのログを延々と眺め続け、ついに自分が発狂したある夏の日を突き止めた。某チャットで、他人に変な言いがかりをつけて、BAN(追放処分)を食らっている。
当時のチャットでの発言や日記には、明らかに異常なものが含まれている。しかし、まったく記憶に無い。確かに新しい会社を作ろうと奔走していた記憶はあるが、最後に請けたはずの仕事のログが残っていない。するとこの仕事の前後から記憶の乖離が始まり、僕は狂い始めていたということになる。
「まいったな……」
僕は記憶と、本を読むための基礎的な能力の、両方を失っていた。読めるのはノートパソコン上に展開された有限の情報か、ガラケーに表示される僅かな――しかし貴重な――新規の情報だけ。僕は先生に相談して、ノートパソコンをインターネットに接続するべく説得を試みたが、テザリング等の技術が発達していない時代である。院内からの無線接続は、不許可とされた。
「焦らず、焦らず。まずは安静に」
だが僕はコンビニに行く権利も、本屋に行く権利も、散歩する権利も、外出する権利も、外泊する権利も持っていなかった。
僕は、世間一般で言うところの、狂人に分類されていた。