Sの場合
ある日、父が死んだ。
それを境に、僕は何かに急き立てられるようになった。別の会社に移り、前以上に働き、前以上に儲けようとした。同時に自分の会社を立ち上げようとしたし、なんとか良い仕事を取ろうと必死になった。それがいけなかったのだろうか。
ストレスがピークを迎えたとき、僕は唐突に発狂した。
世界門。魔女試験と大容量バッテリー。吉野家と卵の神秘。それ以上先に行ってはいけない道。キリンの王様。カップラーメンでゲームする宇宙人。私は神だ。エトセトラエトセトラ。それは夢か現実か、定かではない記憶。
後で聞くと、現実の僕は、深夜に徒歩で長距離を徘徊していたらしい。
緊急搬送された病院で、問答無用の電気けいれん療法が繰り返された。
それにより破壊された人格。失われた速読能力。無くなった想像力。減退した認知能力。
次に気付いたときには、僕は真っ白い病室に居た。四人部屋だった。
僕はカレンダーを見て、数ヵ月の月日が流れていることを知った。
医師が現れて、説明した。あなたは統合失調症を発症しました。思考が支離滅裂だったため、東京から栃木に搬送されて、電気けいれん療法を受けました。記憶の連続性が無いのは不安だと思いますが、この病室は安全です。ゆっくり治療に励んでください。そんなことを言われた気がする。
ノートパソコンはネットに繋がっていなかった。
統合失調症については、ガラケー(当時使っていたのはスマフォではなかった)で調べて、だいたい理解した。百人に一人が発症する、幻覚や幻聴、妄想を基本とする精神病。明らかに精神に異常をきたす陽性期。そして薬物で押さえ込んだ後に来る陰性期(うつ病に似ているらしい)。
つまり簡単に言えば、僕は狂ったのだ。それはすぐ理解できた。
とはいっても、いままさに開かれようとしていた世界門のことも、深夜の魔女試験と魂を貯蔵する大容量バッテリーのことも、吉野家で見た卵の神秘のことも、それ以上先に行ってはいけない道で出会った神々しい人々のことも、キリンの王様のことも、ビルの最上階でカップラーメンゲームする宇宙人のことも、現実以上に現実味をもって感じられていた。
忘れたり、記憶の改ざんが起こるといけないので、これらについてはかなり細かくノートに書いてある。白昼夢であることは状況から見て明らかだったが、僕はそれまで白昼夢というのを見たことが無かったから、それが本当に白昼夢かどうかの判断がつかず、とりあえず書き留めることにしたのだ。
僕は窓辺から、鳥が群れて飛ぶのを見て、何かの合図かと思ったりした。誰かとすれ違いざまに漏れ聴こえた会話が、自分の悪口のように思えた。統合失調症について調べて、全て妄想であると分かってはいたが、そのイメージは消えなかった。妄想が出なくなるためには薬と時間の両方が必要だった。
四人部屋には、僕の他に三人の患者が居た。
過量服薬を繰り返す拒食症の少女K。
知的障害を抱え空気が読めない少年T。
末期がんの宣告を受けてうつ病になった壮年のO。
水曜日のレクリエーションで、絵を書いたりした。精神鑑定でよくある「木の絵」だ。自分では上手く書けたつもりだったが、木の実を書き忘れた。ついでにメール参加型ゲームで作ったキャラクター、黄金の翼が生えた有翼猫「雷墜」も書いた。
「絵、上手いね」茶色い髪をしたKは言ってきた。
「昔美術部だったから」僕は答えた。
「男なのに美術部?」Kは訊いてきた。
「そう。男は僕だけだったけどね」と僕は言った。
僕はKの外見が嫌いではなかった。可愛かったのだ。痩せてぽっきりと折れてしまいそうな手脚に、その時の僕は疑問を抱いていなかった。拒食症という病気についても詳しく知らなかったし、Kの心が修復不可能なレベルにまで病んでいるということも、まったく分からなかった。