IRC(インターネットリレーチャット)
ほの暗いインターネットの奥底には、IRC(インターネットリレーチャット)というカビの生えたテキストチャットシステムがある。
ライムチャットなどの特殊なアプリケーションを使い、口伝でのみ継承される適切なサーバのポート番号を叩かなければ入ることも許されないという徹底したセキュリティから成るそのチャットは、インターネット創世記から存在する偉人変人たちの魔窟、巣窟なのだ。その中でも、日本最大の接続人数を誇るチャンネル、#**っしゅどっとの悪名は高い。某ユーザ投稿型ニュースサイトの裏側に隠された陰謀論の体現。それは確かに平成の世に実在していた。
時は草木も眠る丑三つ時。常人なら睡魔に誘われる時間帯であるにも関わらず、闇のプログラマーを名乗る青い鴉ことぶるくろも当然のようにIRCに顔を出している。このカルトめいた集まりに、一体何を期待しているのか。むろんありとあらゆるリアルタイム情報の全てだ。
「おはよう」
深夜に送り出されたその言霊はインターネットの基盤たるTCP/IPプロトコルを通じて情報の牙城に送られ、そして一瞬の間も置かずに接続中の全てのクライアントの元に届けられる。直後。
「おはよう」
「おはおは」
「おはー」
「おはうお」
「うおー」
深夜であるというのに、おはようの言葉に対する疑問の声は無い。自分が起きているときが昼。起きていないときが夜。それが彼ら、IRCへの常時接続を誇りとする名高き、あるいは悪名高きハッカーたちの共通認識であるゆえに。
「そういやチョコバナナアイス食った」
それは一般人が見れば、適当に無難な話題を振ったかに見えるだろう。だが。
「それ今日発売の○○○○の新商品だろ?」
「60円台なんだよな」
「安いから二本買ったわ」
「俺二箱」
「二箱www」
「さすがですね○○○さん」
「ちょっまっ今から三箱買ってくる」
「○○○○さん出遅れてるー」
「バロス」
「三箱は甘え」
「せめて二桁は無いとインパクト薄いね」
一瞬にして群がる情報に飢えた獣たち。そう、このチャンネルは日本中のハイテク情報(今回の主題はアイスだが)が集う場所。住人は暗黒の儀式連打の後にセンギアの従臣から召喚されるデルレイッチじみた恐るべき悪鬼なのだ。
そこを間違えた者は、容赦の無い言葉攻めとKICKとBANによってIRCを追放される定め。
「彼女が出来ました」
ぶるくろは勇気を持って本題を切り出す。
「嘘乙」
「エア彼女乙」
「ニ次元嫁か」
「はいはいワロスワロス」
「お薬追加しておきましょうねー」
なんたることか。無様な失敗である。こうなればもはや挽回の余地は無い。チャンネルをPartし、IRCからQuitすべし。しかし諦めの悪いぶるくろは、再度の説得を試みる。
「同棲してます」
「自演乙」
「彼女なら俺の隣で寝てるよ」
「とうとうここまで……」
「脳がやられたか」
「もう手遅れだな諦めろ」
情報戦に負け、残ったのは悲しみであった。悲しみに涙するぶるくろを、隣で見守る影があった。Nさんだ。深夜なのにパソコンの前に座って泣いているぶるくろを見て、何かを察したのだろう。Nさんはぶるくろを抱き寄せ、頭をなでていいこいいこした。
試合には負けたが、勝負では勝ったのだ。今日はそういうことにしておこう。いつかまた、真実が明らかになる日が来るかもしれないのだから。睡魔にまどろむぶるくろの心中には、来るべき日に備えた決戦の覚悟が刻まれていた。




