真鍮色のロボットの腕とカメラ
雨が降りしきる中、ゴミ捨て場にロボットの腕が落ちていた。クラシックな、真鍮色に光る腕の先、手の中には、旧式のカメラがあった。僕はそれを拾うと、さっそく有効活用しようと決めた。このロボットの腕を使って、写真を撮るのだ。うまくいけばそれで食べていけるかもしれない。
幸いにも、接続端子は共通規格だった。僕はからっぽの右腕の変わりに、ロボットの腕を装着した。インターネットを型番で検索して、腕自体を制御する汎用制御プログラムは見つかったが、肝心の指先を制御するプログラムは欠けていた。
だからロボットの指先は気まぐれだった。被写体にカメラを向けても、撮ろうと思った時には撮れず、撮りたくないと思った時に撮れた。けれども、右腕が無いままだったときよりはずいぶん楽しかった。僕は諦観ばかりが先に立つ人生に、ほんの少しだけ希望を見出せそうな気がしていた。
ロボットが撮る写真は、常に型にはまっていなかった。変な写真がたくさん撮れた。僕はそれをふるいにかけて、それらを良い写真と悪い写真に分けた。けれどもたくさんの写真を撮っていくうちに、僕はどの写真が良い写真でどの写真が悪い写真なのか、分からなくなっていった。僕は全ての写真を同じフォルダにぶちこんで、時折それを見返すくらいのことしかしなくなった。
ある日、試しに売りに出していた写真が一枚売れた。お金になると分かってからは、大量の写真のうちの一部を売りに出すことにした。酔狂なことに、それらをセンスがいいだとか、味があるだとか言って、買い集める人たちがいた。それで食うには困らなくなった。
ロボットの指先は学習しない。けれども、それに直結された脳の一部は、さながらロボットの指先の制御プログラムのように動作するようになっていった。写真の質は徐々に上がっていき、ピンボケや手ブレは目に見えて減った。僕が、写真の良し悪しを判別できなくなったのにはそういう理由もある。どの写真にも、それ相応の良さがあるように思えてきたのだ。
あるとき、僕はコンテストに写真を応募した。そして驚いたことに、選考をくぐり抜けて、最優秀賞を受賞してしまった。だが、授賞式にあたり、一つだけ問題があった。この写真はロボットの腕が撮ったものであり、僕の意思で撮った写真ではないということだ。授賞式に出向けば、それは遅かれ早かれバレることだった。
実際、授賞式でマスコミの一人がその問題を取り沙汰すると、人々は手のひらを返して僕へのバッシングを始めた。
脳無し野郎。ロボットの奴隷。自動筆記ならぬ自動写真。全ての写真家への冒涜。エトセトラエトセトラ。叩く言葉は無数にあり、僕は徹底的に叩かれた。けれどもそれは話題作りにもなって、僕の写真は飛ぶように売れ始めた。
僕が右腕を失った理由は、交通事故だ。よそ見運転をしてしまい、自分から前の車に追突してしまったので、これは100%僕が悪い。最低限の自動車保険にしか加入していなかった僕は、かろうじて相手との示談金は支払えたものの、失った右腕の変わりに、共通規格の接続端子を取り付けてもらうのがせいぜいだった。
僕には、サイバネティクスの粋を集めた機械義肢を装着できるほどのお金は無かった。だから僕は、からっぽの右腕を抱えつつ、雨の日にゴミ捨て場なんかに出かけたわけだ。そして真鍮色のロボットの腕を手に入れた。
他人からの評価がどうなのかは知らないが、今の僕には、真鍮色に輝くロボットの腕がある。気まぐれにシャッターを押すその指先は、もう僕にとっては、無くてはならない相棒である。