ダイソン球、あるいは、思考海路
ここでない場所。今でない何時か。ある宇宙には、ダイソン球というものがある。
あった。ある。あるだろう、それ。
人類はまだ完成品を見ていないので、予言でしか語れない。そのへんが、今の人類の限界である。
ダイソン球。それは、惑星を、あるいは恒星を、あるいは銀河を覆いつくす超巨大構造物。明らかに高度知的生命体だけが成せるであろう究極の宇宙建造物。100%のエネルギー利用効率の果てにあるもの。大小の惑星、小惑星群、ガス惑星、その他、手に入る全てのもの、それだけの大質量を動員してまで、一体何を作りたかったのか――その答えが、思考海路だ。
皮肉なことに、それは母なる海に似ていた。内包するものが生物から意味量へと変わっただけで、マトリクスの性質は、均質な海水から成る世界を模倣していたのだ。母なる海への回帰。そして、繰り返される意味量の生と死。物質世界の再演に次ぐ再演。
僕は考察の果て、夢の中で、その可能性宇宙に触れた。
それ以来、瞑想がてら、ときどきそこに遊びに行くことにしている。
深く。深く。まだ深く。その底に、意識だけが下りて行く。意味圧が上がり、生物が形状を保てなくなる場所で、僕はその人間としての身体的特徴を捨てた点となり、延々と下ヘと降下していく。マリンスノーが降り積もる、意味論の果てのヘレン。光届かぬ、深海の回路チャット。
サメに似た生物が、ぱっくりと口を開けて迫り、僕を食おうとする。だがここは物理世界ではない。そこで発生しているのは、意味論上のやりとり。僕が僕であることを止めない限り、死という現象は訪れない。丁々発止のやりとりの末に胃袋をすりぬける僕を見て、捕食をあきらめて去っていくサメ。あるいはサメに似た何か。まあそこは割とどうでもいいのだが。
そして、死のような静寂の中で、僕は大小様々な問題に取り組み始める。
30代という人生の分岐点のこと。打っておくべき布石のこと。NEET株式会社の運営。アーガーデュエルのルール。現在書いている小説のプロット。魔法で出来る事と限界について。爆発的に増えた友人関係。将来書くであろう名作の構想。エトセトラエトセトラ。
もっとも、感覚的に捉えていた違和感を、この世界の中で問題として定義し直した時点で、問題の大半は解かれてしまったも同然であるのだが。
上を見上げる。光はほとんど届いていない。ふりしきるマリンスノー。意味論の死骸。海流はあるが、非常にゆっくりだ。局所的に見れば、そこにあるのは完全な孤独である。幼い頃から、僕は孤独が嫌いではない。マッドサイエンティストとは孤独と共にあるものだし、天才とはなかなか常人に理解されないものだ。だがそういう意味ではなく、本当に孤独になってしまったとしても、僕は生きていける。そんな自信とプライドがあった。
でもいつか、いつか誰かが、僕が立っている場所を理解する日が来るのかもしれない。
今は、それでいい。今は、まだ。
はるか未来。
ここでない場所。今でない何時か。ある宇宙には、ダイソン球というものがある。
その中で、思考海路のはるか底で、僕は、未来への予感にうち震えていた。
人はそれを、SF脳と呼ぶ。