Hole 2~立夏の夜雨、女は黒い年貢を納める(その4)
シャッターが降ろされた神宮球場の入場券売場の横の看板には『雨天中止』の赤い四文字が書かれている。
「やっぱり中止か……」
「そりゃそうだよね。それよりトンちゃん、ちょっと隠れるよ」
舞は有無を言わさずおれの左手を掴むと、そのまま球場の柱の陰まで引っ張っていく。
「はらみー、一体何の用事で来たんだろう?」
「もしかしたら選手と付き合ってるんじゃないか? 豪快な三振で有名なあのスラッガーとか、怪獣の名前みたいなピッチャーとか」
「もう、悪ふざけはやめ……って、あれ? はらみー、何か大きめのケースを持って建物の中に入っていくよ。あの建物、『外苑ゴルフクラブ』ってもしかして……」
「神宮第二球場を利用したゴルフ練習場だ。中学時代に何回か行ったことがある」
「でも、ゴルフバッグは持ってなかったよね……そうか。トンちゃん、一緒に付いて来て。くれぐれもはらみーにバレないようにね」
おれと舞は足音を立てないよう外苑ゴルフクラブの建物に近付くと、受付の目を盗んで奥に進む。珠子先生は階段で三階まで上り、玉貸し機にトークンを投入してバスケットいっぱいにゴルフボールを入れると、とある打席の前で立ち止まる様子を自動販売機の陰から窺っている。
「勝手に入っちゃって良かったんだろうか」
「いいわけないでしょ。でも、面白いことになりそうだよ」
舞には悪びれる様子は一切見られない。
打席後方のベンチに座り込んでいる珠子先生は、履いていたローファーからスパイクに履き替えると、右スパイク先端に金属片のようなものを嵌め、勢いよく立ち上がり、ゆっくり打席に向かっていく。そして人工芝の上にボールをセットすると、一旦打席後方まで下がり、勢いとともに右足でボールを蹴り上げる。
「舞、今の見たか?」
「うん。どう見てもフットゴルフだね」
「どうする? 声、掛けてみるか?」
「ううん。もう少し様子を見たい」
おれの提案に舞はかぶりを振る。すると舞は鞄から黒くて小さな物体を取り出す。
「あっ、これは……」
「This is a Passport size. 選手撮るつもりで持って来たのがこんなところで役に立つとはね」
舞は最新式の超小型8ミリビデオカメラにテープをセットすると、ファインダーを覗き込み、赤いボタンを押す。
おれはレンズの先にいる被写体に視線を動かす。最初は静かにボールを蹴り続けていた珠子先生だったが、やがて「うおりゃあ!」とか「ぐおおおお……」と言った声を出すようになり、その絶叫はやがて「おりゃあっ!」「死ねやゴラァ!」「ふざけるなセクハラ野郎!」「歳だけ食ってベテラン面しやがってこの能無しがぁ!」などといった罵詈雑言へと変化していく。
罵詈雑言とともに、珠子先生は黒いタイトスカートからしましまぱんつが見え隠れしていることを気にする様子も見せず、立て続けに強いショットを打ち放っている。しかも、いつ誰かが素っ飛んで来ないかとおれたちが心配になるほどその汚い言葉の数々は神宮第二球場の中で反響し続けている。
「もう少し撮ったら一旦引き揚げるよ。これはいい画が撮れた。ナイスだよはらみー」
いつもニコニコした柔和で優しいおねえさん先生が、おれたちの目の前で夜叉になっている。
おれと舞は一旦外苑ゴルフクラブの建物から外に出ると、珠子先生を確保するべく神宮球場の柱の陰から建物の様子をうかがう。
「ねぇトンちゃん、あのはらみーを見てどう思った?」
「いや、何て言うか、見ちゃいけないものを見ちゃったみたいな……未だに信じられないと言うか、女の人って怖いなぁと言うか……うーん、うまい言葉が思い浮かばない」
「もしかしてトンちゃんって、女の子のことを神様仏様のように見ていない?」
「えっと、それは……どうなんだろう……」
「ワタシの気のせいなのかも知れないけど、トンちゃんって未だに周りの子たちとの間に壁を作ってるよね」
「そんなことはな……いや、あるのか?」
おれは一度舞の言葉を否定しかけるも、おれと小手指総合の女子たちとの間にある壁の存在について自問する。
言われてみれば舞の指摘は間違いでは無いのかも知れない。では、舞の言う『壁』とやらは一体何だろう。おれが『壁』について思考を巡らせていると、舞が続ける。
「ねぇ教えて。三号棟のみんなは、トンちゃんがワタシを含む女子についてどう思ってるか知りたがってるんだけど、ラウンジにいる時も、部活の時も、トンちゃんはちょっと他人行儀な感じに見えるから、表面上みんなに優しいけど、内心ではみんなのこと、避けてるんじゃないかなって思って――」
「そんなこと無いっ!」
おれは全力で否定する。違う。そうでは無いのだ。
「だったら思っていることを包み隠さず前頭葉を通さない感じて正直に教えて。何言われても、怒ったり、笑ったり、バカになんてしないから」
「何を言っても?」
「うん。どんなにエロいことを言っても大丈夫だよ。だってさっきトンちゃん、ワタシのこと信用して『他の女の子には怖くて聞けない』ってこと、聞いてくれたじゃん」
「分かった。話すよ」
おれは一度呼吸を整える。珠子先生を待っているだけなのに、どうしていつの間にかこんな話になってしまったのだろう。
「正直な気持ちを言うと、小手指総合の女子は、男子校出身で右も左も分からないおれを温かく迎えてくれた素敵な人たちだって思ってる。勿論舞のこともだ。でも何て言うか、この人たちは心の奥底ではおれのことを怖がっているんじゃないかって思う時があるんだ」
「どうして?」
「おれは女の子のことを神格化している部分があって、それは多分おれが男子校出身で、今までは女の子とのコミュニケーションがほとんど無くて、手の届かない存在だったからだと思う。だから今のように女の子だらけの空間と言うのはまるで八百万の神の中に凡人のおれが一人いるみたいで、どうやって接していいのか分からなくて……分からないくせに、邪な気持ちだけはいっぱいあって、例えばだけど中学の時、身近に女の子がいないことを嘆いて、デブの田中君のおっぱいを揉んで気を紛らわしたり、食堂のオバサンのぱんつが見えたか見えないかで大騒ぎになったり、関町の女子校の生徒とエロいことをしたみたいなウソ武勇伝を言ってた奴が何人かいたりしているのを目の当たりにしてさ。そんな環境からいきなり女子校みたいなところに入っただろう。だから無意識な行動によって嫌われたり、誤解を招くような事態になるのが怖くて……違う。いや、違わないんだけど、おれはお前が思っている以上にエロくて、クラスの猥談も参加していたし、部活が終わった後、独りになった寮の部屋で身体がムズムズしていたと言うか、悶々としていたと言うか、かといってエロ本を買う勇気も金も無くて、仕方なくと言うか、やむにやまれずと言うか……」
おれはこの先の言葉を発するべきかどうかを躊躇する。
「やむにやまれず、何?」
おれは無意識にゴクリと生唾を飲み込む。
「中二の一学期の終わりに、卒業アルバムに写っている小六の時のお前を見ながら――していたと言うか……」
「もしかしてそれって、『あのこと』だよね……」
舞の問いに、おれは小さく頷く。
舞は小さく息を吸うと、おれに向かって大声で叫ぶ。
「最っ……低っ! アンタ、バカじゃないの! 変態! スケベ! 子作り練習魔っ!」
「なっ、何言われても怒らないって言ってたじゃないかっ!」
「それとこれとは話は別よ! いーい? ワタシが怒ってるのはアンタがワタシの写真でしてたことじゃないの。どうして普通に女子たちと接することができずに、おかしな方向にいっちゃうのよ!」
「ごめん……」
おれは思わず条件反射で謝ってしまう。おれは何を言っているのだろう。もはや自分自身でも意味不明だ。
「別に謝って欲しいんじゃ無い! 何かこっちから気ぃ遣って頑張って近付こうとしているワタシや他の女子たちがバカみたいじゃん! もっとコミュニケーションに自信持ちなさいよ! うまく言えないけど、トンちゃんの心の中ってかなりいびつだよ。って言うか自分ルールに縛られ過ぎっ! 人ってさ、基本何しても人の道からそう簡単には外れることは無いよ。だからもう少し自分の気持ちに正直に、素直にワタシたちにぶつけて来てよ!」
舞がおれに熱弁を振るう後ろで、神宮ゴルフクラブの建物から出て来る珠子先生の姿が現れる。
「でも、『あのこと』の対象が他の子じゃなかっただけまだマシか。もし他の子でしてたらショックだったかも……って、トンちゃん、ちゃんとワタシの目を見なさいよ!」
「舞、珠子先生が出て来て、車に乗ろうとしてるぞ。いいのか?」
珠子先生の動きを察知したおれは舞の言葉を遮る。
「それを早く言いなさいよバカ! 行くよっ! ダッシュ!」
「おい、待てよ!」
おれはルノー5に向かって全速力で走りだした舞を追いかける。
「はっらみーっ!」
舞はスピードを殺さないまま珠子先生に抱きつく。
「ええっ! えーっ?」
状況を飲み込めていないと思われる珠子先生は、身体のバランスを崩しつつもきょとんとした表情のまま、おれと舞の姿を交互に見ている。
「あなたたちどうしたの? こんなところで。もしかしてここまで後を付けてきたの?」
「後を付けたなんて人聞き悪い。たまったま、本当にたまったま野球を観に来たんだけど、中止になっちゃって……証拠だってあるんだよ。ほらっ、今日の日付のチケットだってあるし」
舞はヤクルト‐中日戦のチケットを取り出して珠子先生に見せる。
「へ……へぇ……そうなんだ。奇遇ね」
「はらみー、まっすぐ家に帰らないで何してたの?」
「うん。そうなんだけどね。研修が終わった後、ちょっと用事があってね……」
「用事があったんだぁ。ふーん……。ところであの手提げの中に何が入ってるの?」
「ああ……うん……まぁ……ちょっとね」
舞はおれに向かって目で合図を送っている。お前も何か言えということか。
「珠子先生、ゴルフバッグを持たずにゴルフ練習場にいたということは、目的は一つしか思い浮かばないんですけど」
舞は笑みを浮かべながらおれに向かって親指を立てる。良くは分からないが、どうやらおれは舞の意に沿った発言ができていたらしい。
「いや、あのっ、その……はぁ……。どうやら誤魔化すのは無理そうね」
珠子先生は観念したと言わんばかりの表情を見せる。
「はらみー。この近くでご飯でも食べない? ワタシとトンちゃん、はらみーといっぱい話したいことがあるんだよね。あっ、今は中華かイタリアンって気分なんだよね。あっ、先に言っておくけどラーメン屋はNGだから」
舞に導かれるまま、おれと珠子先生はいちょう並木を歩き、シーアイプラザの地下にテナントとして入っている高級そうな中華料理店の中に入る。
「で、単刀直入に言うけどはらみー。あんなすごいショットが打てるのなら、フットゴルフ部の顧問にならないわけにはいかないよねぇ……」
席に着くや否や、舞は珠子先生に話を切り出す。
「いや、確かに学生の頃からフットゴルフをやってたのは事実だけど、先生は他の仕事がいっぱいあって、とても部活の顧問を受ける余裕なんか……」
「はらみー。これを観ても今と同じことが言える?」
舞はバッグから小さな液晶モニターが付いた8ミリビデオプレーヤーを取り出し、テープをセットして再生ボタンを押すと、料理を乗せる回転テーブルにプレーヤーを乗せ、珠子先生の目の前まで回転させる。
『おりゃあっ!』『死ねやゴラァ!』『ふざけるなセクハラ野郎!』『歳だけ食ってベテラン面しやがってこの能無しがぁ!』
ダイナミックなショットと罵詈雑言の数々が、ディスプレイの中でプレイバックされるに従い、珠子先生の顔が見る見るうちに青ざめていくのが分かる。
「ここで言ってるのが誰のことを指しているのか、ワタシたちには分からないけど、きっと浦和あたりにいる人たちには分かるんだろうなぁ……あっ、すみませーん。エビチリと北京ダック、それからフカヒレの姿煮に上海ガニをお願いしまーす!」
鬼だ。こいつは鬼だ。
「あぁ……誰も知ってる人がいないと思ってわざわざあそこを選んだのに……」
珠子先生は頭を抱えている。
研修を終えた珠子先生は、心中に鬱積した憤懣を発散すべく、ゴルフ練習場に行こうとしたものの、教育センターの入口でおれたちと出くわし、近場ではおれたちを含んだ誰かに出くわすかも知れないと思い、わざわざここまで来たのだろう。まさかおれたちがタクシーで追って来ていることなど露知らず。そして気の毒なことに、その行動が裏目に出たということか。
「はらみー、元気出して。ワタシたち、顧問になること以上のことは求めてないから。ほら、予算も欲しいし来月の関東大会もエントリーしたいんだよね。書類はユリさんが持ってるから、月曜日にサインしてもらうからね。あっトンちゃん、今からユリさんに電話して、月曜日に書類を持ってくるように電話してくれない?」
「えっ! 今かよ? 公衆電話があるところまで行くの面倒臭えよ」
「文句言わないっ。少しでも早く朗報を伝えたいでしょ」
「そりゃそうだけどさぁ、ユリさんの番号なんて知らないぞ。舞は知ってるのか?」
「うん。048‐48X‐X893ね」
「待て待て。メモするから」
おれはメモと財布を手に店の外に出ると、地下鉄の出入口近くにある電話ボックスの中に入り、ダイヤルをプッシュする。
『はい』
受話器から、少しハスキーな女性の声が聞こえてくる。そして何となく変な威圧感を感じる。
あれ? 間違い電話か。
「あの、百目鬼さんのお宅でしょうか」
『はい。何か?』
電話の相手は百合の母親だろうか。だがその割に声が若いような気がする。
「あの、中邨と言いますが、ユリさんをお願いします。あっ、ユリさんとは同じ学校で……」
『雄一様ですね。かしこまりました。少々お待ちくださいませ』
雄一様?
どうして彼女はまだ名乗っていないおれの下の名前を知っているのだろう。もしかしたら百合は家でおれの話をしたことがあるのだろうか。
『もしもし。雄一さん。どうかされたんですか?』
ラヴ・ミー・テンダーが一分ほど流れたのち、落ち着きのある百合の声が聞こえてくる。
「家の用事で忙しいのにごめん。ちょっと耳に入れておきたいことがあって」
『大丈夫ですよ。もう終わりましたから』
「実は、珠子先生が顧問を引き受けてくれることになって」
『あらあら、本当ですか? 雄一さん、一体どんな魔法を使ったんですか?』
「うん……何と言うか、舞と一緒に一生懸命お願いしたら、何とかOKしてくれたんだ」
『良かったです。お二人の誠意が孕石先生に伝わったのですね』
「そ、そうだね……」
百合には、舞がどうやって珠子先生の首を縦に振らせたのかは、言わないでおこう。純粋無垢なお嬢様に、相手を脅したなどとはとても言えない。
『雄一さんは今どちらにいらっしゃるんですか?』
「外苑前のシーアイプラザにある中華料理店にいるんだけど」
『でしたら、今から書類を持ってそちらにお伺いします。小一時間くらいで着くかと』
「えっ? 別に月曜日でもいいんじゃないの?」
『善は急げです。せっかく雄一さんと舞さんが一生懸命ご説得されたんです。孕石先生のお気持ちが変わらないうちに、手続きを進めた方がよろしいかと』
「でも、今から都内に来るのは大変じゃない?」
『いいえ。それに、ちょうど中華料理が食べたかったところなんです』
「そ、そう……だったら、気を付けて来てね」
『はい。また後ほど』
おれは静かに受話器を置き、テレホンカードを財布にしまうと、再び中華料理店に戻る。店内では、舞が相変わらず高級中華料理に舌鼓を打っている。
「おっかえりー。トンちゃんも食べなよ。うーん、フカヒレ最高っ!」
「ああ。それより、これからユリさんがここに来るってさ」
「ふぇ? どうして」
「いや、よく分からないけど、一刻も早く珠子先生の押印が欲しいらしいよ……って、珠子先生、おれたち手持ち無いんですから逃げちゃダメですよ」
おれも珠子先生を脅すかのように釘を刺す。我ながらおれもまた酷い男だ。
珠子先生は気力を失ったのか、テーブルに突っ伏している。もはやそこには、いつもの優しくてキレイな、生徒たちのあこがれの対象である珠子先生の姿は無かった。
「こんばんは。お待たせしました」
なぜか制服姿の百合が、明るい色の髪をシニヨンでまとめた女性を従えておれたちの目の前に現れる。彼女は右手に箒を持ち、エプロンドレスに身を纏っている。
百合は空いている椅子に座ると、エプロンドレスの女性がバッグから書類を取り出す。
「忘れないうちに、先にやってしまいましょうね。孕石先生、こちらの書類にサインされたら、三文判で結構ですので押印していただけますか? 朱肉はこちらを使ってください」
「うーん……三文判なんて今日は持って来てないわよ」
「そうであれば、拇印でも構いませんよ」
「イヤよ。手が汚れちゃう」
「ちゃんとウェットティッシュも用意してありますから、お願いしますね」
百合は珠子先生をなだめながら彼女の右手首を掴むと、いきなり自分のほうに引っ張り、人差し指を無理矢理伸ばすと、指の腹を朱肉に付け、書類に押印させる。
「順番が逆になってしまいましたけど、こちらの万年筆でサインもお願いしますね」
珠子先生は百合から差し出された万年筆で書類に署名を入れている。
「これで契約成立ですね。それじゃ、わたくしはこれで失礼します」
「えっ? ユリさん食べていかないの?」
電話口で百合は確か、中華料理が食べたい気分だと言っていたはずだ。
「ええ。そのつもりでお伺いしたんですが、遅くなってしまうと心配かけてしまいますから。みなさん、また月曜日にお会いしましょうね」
百合はそう言い残し、店から去ろうとする。
「あのぅ、さっきからユリさんの隣にいる、お手伝いさんっぽい人は誰?」
おれは百合を引き留める。
「雄一さんも舞さんも、過去にお会いしたことがある筈かと。それに珠子先生とも何回もお顔を合わせてらっしゃるではありませんか。ああ、これでは分かり辛いですよね。あおいさん」
「はい。マスター」
少しハスキーな声をしたエプロンドレスの女性は、頭に付けていた白いフリルのカチューシャをはずし、一気にシニヨンをほどく。すると、どこかで見たことがある女の子の姿に変わる。
「あおいちゃんじゃない? こんな格好してどうしたの?」
珠子先生は目を丸くさせながら立ち上がる。
「珠子先生。実はわたくし、住み込みで百目鬼家のハウスキーパーもしておりまして、マスターの御厚意により学校に通う傍ら、マスターのお世話をさせていただいているのです」
「なぁ舞、あの子誰だっけ? 音楽の授業で一緒だったような気がするけど……」
彼女の名前を思い出すことが出来ないおれは舞に耳打ちする。
「ほら、理数科の根路銘あおいちゃんだよ。さすがにユリさん家でお手伝いさんやってるなんて知らなかったけどさ。それより他の女子と仲良くなるチャンスだよ。行った行ったっ!」
舞はなぜかおれの身体を百八十度回転させ、あおいの前に突き出す。
「あっ、あの……その服、凄いね。生で動いているお手伝いさんなんて初めて見たよ」
おれは動物園で珍しい動物を見た時のような感想を口にしてしまう。
「ありがとうございます。このユニフォーム、結構気に入っているんです。あっ、先ほどお電話いただいた時、何だか緊張されている様子が伝わって来て、何だかカワイかったですよ」
おれはあおいの言葉にドキリとするが、すぐに気を取り直す。百合と言い、あおいと言い、おれと同級生なのにどうしてこうも大人っぽく見えるのだろうか。
「ああ、さっきの電話はあおいさんだったんだね」
「ええ」
ここで、おれが電話で下の名前で呼ばれた理由に合点がいく。
丁寧な言葉遣いは百合の影響か、それともお手伝いさんとしての職務に忠実だからなのかは分からないが、少なくとも百合同様、あおいの品の良さはよく分かる。だが、次につながる話題が思い浮かばない。一体どんな話題を切り出すのが正解なのだろうか。せめてクイズ番組やRPGのように、四つくらいの選択肢が浮かび上がってくれれば消去法で何とかなるのだが。
「それではマスター、そろそろ戻りましょうか」
数秒の沈黙の後、あおいは右隣の百合に声を掛ける。
「ええ。参りましょうか」
百合とあおいが踵を返そうとした時、舞が右足の甲でおれの左膝裏を軽く蹴る。おそらく『行け』と言うサインなのだろう。おれは「折角だから前の道まで送って行くよ」と言って、二人の後を追い、店の外に出る。
「ここまでお気遣いして頂かなくても構いませんのに」
黒地に白い水玉模様のレインコートを羽織りながらあおいが答える。
「そうですよ。まだ雨が降っているんですから、風邪を引かれてはわたくしも困ります」
百合も白地に赤いボーダーが入ったレインコートを身に纏っている。
「大丈夫。おれはすぐ店に戻るから。それに、わざわざ来てもらったユリさんとあおいさんに悪いよ。せめて道路のところまで見送らせてよ。二人は何で来たの? 地下鉄? 車?」
「いいえ。今日はこれで来たんですよ」
あおいは右手に持つ箒を少し高く上げる。
「ほ、箒?」
百合とあおいは歩道を越えて青山通りの車道に入ると、百合は眼鏡を外し、ゴーグルとオープンフェイスのヘルメットを装着する。一方あおいは、フルフェイスのヘルメットをかぶっている。そして二人は、まるでバイクのタンデムのように箒の柄の前後に跨がる。よく見ると、箒はホームセンターや雑貨店でよく見る竹箒ではなく、柄は重厚感漂うオーク材で出来ており、穂先はシュロを束ねているものが使われている。
前に跨るあおいの動きが固まり、数秒間沈黙したかと思いきや、穂先からまるでホログラムのように二つの赤いテールランプのようなものと、所沢ナンバーのバイク用ナンバープレートが現れる。そして箒ごと二人が地面から僅かに浮かび上がる。部活の時、校庭上空を飛び交っていたのはこれだったのか。
「それでは、わたくしたちはこれで失礼いたします。また月曜日にお会いしましょね」
「あ、ああ……」
二人を乗せた箒は、高さを維持した状態で赤坂方面へと走り去ってしまった。
「さて、おれたちも帰るか。舞、お前も十二分に食ったろ?」
店に戻ったおれは、おなかを軽くさすっている舞に声を掛ける。
「うん。おなかいっぱい。はらみー。ごちそうさまね」
「……」
珠子先生のしょんぼりした姿におれは、珠子先生が月曜日に学校にちゃんと来るかどうかが少し心配になる。
「あのぅ……お勘定を……」
珠子先生が蚊の鳴くような声でウェイターに声をかける。
「いえ。もうお連れの方にお支払いいただいておりますので……」
「「「えっ?」」」
おれたちは一斉にウェイターの方を見る。
「はい。先ほどお見えになられた方にお支払いいただきましたので」
ここで言う『お連れの方』とは、百合かあおいのことを指すのだろう。いつの間に食べてもいない中華料理の代金を支払ったのか。いずれにしろ、月曜日に会ったら二人に礼を言わなければなるまい。
「それにしてもよく間に合ったわねぇ……はらみー先生をどう説得したの?」
月曜日の放課後、先週の金曜日におれたちの申し出を拒んだ十亀亜佐美が提出書類を確認しながらおれたちに尋ねてくる。
「それは、はらみー……いや、孕石珠子先生に誠心誠意お願いをして、その熱意が伝わったと言いますか、先生もワタシたちの気持ちに応えて下さったと言いますか……」
舞の奴、よくもまぁ妙齢の女教師を脅迫しておきながら、そんな出まかせが言えたものだ。
「よしっ。提出書類はこれで全部ね。受理した書類をもとに生徒会と職員会議で承認されたら、今週中には公示が出るはずだから、そしたら予算の概算請求を出して頂戴。おめでとう」
「「ありがとうございます。それでは、失礼します」」
おれと舞は亜佐美と、奥でりぼんを読んでいるのに集中している兎川みとに頭を下げると、生徒会室の外に出る。て言うか仕事しろよ生徒会長代理。
「それじゃ、着替えて部活を始めるか?」
「うんっ! 奈穂美たちはもう先に行ってるみたいだから」